寺社仏閣 ご朱印の旅

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また42、京都の旅(1) - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:23:34

梅の便りが届く頃、花粉症に梅干しを食べると良いという情報を得、気休めながら食べている。癌治療に関しては日々、医学が進んでいるが、アレルギーに関しては、100年はかかるという。日本人の2人に1人が花粉症という特異体質な我々に、解決の糸口は見つかるのだろうかと、私が生きているうちは無理だろうな…
さて、今回は1月下旬に行った“京の冬の旅”。一泊二日で行ったのだが、二日目の帰り、雪で新幹線がストップするのではという不安を抱えながら、結局は初日だけの旅となり、消化不良で2月上旬にも訪れました。2月上旬分はいずれ載っけますが、何だか、毎年の恒例行事となってしまった京都の旅を堪能~

大徳寺大光院 - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:24:54

今年で“京の冬の旅”は60回目の節目を迎え、NHK大河ドラマは「豊臣兄弟」と、今回は豊臣家に纏わる関連寺社が非公開文化財を特別展示している。
京都は1年ぶりの訪れで、毎度の事、バス地下鉄1日乗車券を利用し、まずは地下鉄北大路駅、バスターミナルから西へ建勲神社前バス停を目指す。もう、見慣れた街の景色を眺めながらバスを降り、交差点で信号待ちをしていると、通りの反対側にあるお漬物屋さんを見、時間があったら寄ってみようと、大徳寺大光院へ移動。
長年、京都に訪れているが、大光院は大徳寺の塔頭寺院の中ではあまり公開していないのではないだろうか、本坊より西へ離れた場所にあり、小路通りに建つ山門を潜り失礼すると、京都らしい苔の生えた軒先に石畳が続き、落ち着いた雰囲気。
受付を済ませ中に入ると、客殿南面にある枯山水庭園を眺めながら襖絵から拝観。狩野探幽筆の「黒雲龍図」がずらりと並び、元は伊達家所有の屏風絵で、当寺が再建された時に寄進されたものらしい。迫力ある龍の姿が黒雲の中でうごめいている…そんな表現だろうか、じっくりと見る。
大徳寺大光院は豊臣秀吉の弟である秀長の菩提寺。秀長と伊達家との関係は、秀長が病死してしまったので、繋がるところはないが、敢えていえば、北条小田原征伐後の伊達政宗上洛の際、秀長との会談が実現していれば、正宗への処遇や豊臣政権による奥州統治の在り方が大きく異なっていた可能性があったのではないかと(無理やりこじつけ…)。
そんな不遇の時代?を憂いてか、もし秀長が生きていたら…との想いもあって、伊達家は「黒雲龍図」を寄進したのかもしれないと、勝手に妄想する。
客殿中央には秀長公像と位牌が並び、手を合わせ、ガイドさんの説明を聞く。大光院は元は、奈良大和郡山に建立されていたのを、秀長の家臣であった藤堂高虎が大徳寺山内に移し、古渓宗陳(こけいそうちん)を開祖として創建。古渓宗陳は、千利休の参禅の師であり、秀長葬儀の際には導師を務めた人物。大徳寺の総見院で秀吉が信長の葬儀をした人もこの方で、秀吉が利休切腹を命じた際にも、大徳寺自体も破却せよという命令に、この方が身を挺して大徳寺を守ったほどに、今ある大徳寺はこの方のおかげといっても過言ではないと。
説明を聞き、枯山水庭園の西側には墓所があり、秀長と藤堂高虎の五輪塔があるとのことで、移動すると、墓所には入れず、斜め左方向(南側)へ遠目ながらの拝観。立派な五輪塔が並んで建ち、その時代に生きた漢(おとこ)たちに手を合わせる。
書院へと廊下を歩き、茶室「蒲庵(ほあん)」へ。「蒲庵」とは古渓宗陳の別号「蒲庵古渓」から名付けられたとされ、二畳ほどの広さに障子窓が意外と周りに取り付けられ、室内は明るい。この茶室は移設されたものであるが、その移設される前には、庭の露地に黒田長政と加藤清正、福島正則それぞれ1つずつ寄進したという「三石の庭」があったそうだが、その石はなぜか一緒には引っ越しされず、そういうことがあったという名残だけが伝わっていると。
秀吉の“ブレーキ役”でもあり、あらゆる戦国武将との縁があった秀長。秀長ゆかりのお寺を訪れ、御朱印も拝受し、秀長の人となりを想うのでありました~

福勝寺 - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:26:38

建勲神社前バス停から左回りの206系統の市バスに乗って、千本出水バス停で下車。ここは、豊臣政権下での区画整理(聚楽第建設の為だったかな…)のため、お寺が多数引っ越してきた「出水」という界隈。なので、お寺が密集していて、今回の“京の冬の旅”でもありがたいことに、“3連チャン”で訪れることができる。
西に数分、最初に訪れるのは福勝寺。洛陽33観音霊場として1回訪れている。もう10年ぶりぐらいだろうか、山門を潜った境内、目の前に現れる本堂、左へ庫裏が続く建屋の狭い敷地の印象が昔と変わらずそこにあり、「そうそう、こんな感じだった…」と懐かしい。
福勝寺は「ひょうたん寺」と呼ばれ、秀吉が厚く信仰していた聖天堂に祀られている秘仏、歓喜天(聖天)に、出陣の際には「武運長久」を祈願してひょうたんを奉納したことで有名。節分の日には、家内安全、無病息災、学業成就、商売繁盛、金運上昇などなど…鬼に金棒的な御利益がある「ひょうたん守り」が売られ、行列ができるほどの人気ぶりで繁盛するそうな。歴代天皇も帰依して勅願寺とし、江戸時代に後西天皇から御所の「左近の桜」を枝分けして下賜されたことからも、宮家や地元の崇敬が厚かったのが分かる。
入口では切り絵御朱印を販売していて、秀吉の絵柄をモチーフにした赤、黄色、青のバージョンが目を引き、人気の赤をお願いし、まずは聖天堂へ。
聖天堂といっても本堂内に設えた6畳ほどの畳敷きの場所で、敷居を跨いだら隣は本堂内陣となっている。聖天堂の祭壇は○○会(忘れた…)が今も催されているとのことで、拝むこと叶わず、鴨居に描かれている天女が「ごめんね…」という表情で佇んでいる。その代わりに、祭壇の写真、歓喜天の本地仏が十一面観音であることから、金ピカの十一面観音が安置され、秀吉、家康公の木像、「ひょうたん守り」が展示されている。
お隣の本堂内陣にはきらびやかな天蓋に、正面中央に厨子に納められた薬師如来像をはじめ、聖観音、金剛薩睡像を安置。薬師如来像は50年に一度の御開帳なので、次は2034年というからあと8年待たなければならない。私の歳でもまだチャンスはあるということか、しっかりと次に出会えることを願い、お参り。
ガイドさんの説明を聞き、最後に節分の日に頒布される「ひょうたん守り」を事前に予約できるとのことで、今年の節分は行けないので諦めるが、節分の日だけの特別御朱印を郵送してくれるとのことで、ありがたく申し込みをし、歓喜天さまやお薬師さまに感謝申し上げるのでありました~

華光寺 - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:27:29

福勝寺からお隣の華光寺へ。初訪のお寺であるが、山門付近には拝観客の姿が多く、“京の冬の旅”では初公開なので、人気なのだろう、山門前の赤い帽子を被ったお地蔵様が笑顔で迎えてくれる。
境内は大きな本堂、その前に小さな池泉式回遊庭園があり、特徴的なのが、石鳥居が建っていること。受付を済ませ、本堂に上がると内陣には大きな祭壇、右手には毘沙門天像が祀られていて、先ほどの石鳥居の導線上にあるので、「だからか…」と納得。
ある程度、人数が集まりだしてからのガイドさんの説明となり、案内開始。歴史としては日尭(にちぎょう)上人が秀吉の外護を受けて創建した日蓮宗のお寺。日蓮宗に見られる「一塔而尊四士」という(聞いたことない…)形式で、中央に日蓮上人、その背後に「十界曼荼羅」を控え、その周りには釈迦如来や四天王像などが安置されている。日蓮上人像の頭には白い“綿三角帽子”が乗っていて、一部赤く染まったところがある。日蓮さんが日蓮宗布教の際、世の中には他宗教を忌み嫌う人もいて、石を投げられたりすることもあり、それを救う人もいて、頭に怪我をしてはと、手ぬぐいを頂き、頭に被り、血が滲んだ姿を表しているとのこと。「なるほど~」と聞いていたが、それぐらい苦労しないと何事も成就できないんだよ…という戒めにも聞こえる。
そして毘沙門天。平安時代後期、鞍馬寺の毘沙門天像と同じ木で造られたと伝わり、秀吉が伏見城で信仰していたと。甲冑を纏い、檄(げき)を手にし、足がちょっと短いような印象を与える下半身から頭へと目を向けると、忿怒の形相で威嚇している。どこか秀吉にも似ているイメージが湧き、じ~っと凝らして見る。普段は厨子に納められ、縁日の日でも薄い膜越しでしか見れないようで、今回の“京の冬の旅”では、はっきり御開帳して下さったそうで、ありがたくお参り。ちなみに、ガイドさんの説明の中で、鬼平犯科帳で有名な、長谷川平蔵宣似の父、宣雄の葬儀をこの寺で執り行ったという資料が残されていると。
書院へ移動すると、京都ゆかりの絵師による掛け軸や、日蓮さんの「御真筆断簡」、鴨居には日蓮さんの人生を絵図で紹介されていて、拝観。中でも、千本出水界隈に伝わる「出水の七不思議」なる「時雨松」と「五色椿」の話があり、「時雨松」は秀吉公お手植えの松で、晴天でも枝から雫を落とし、その様子が“しぐれている”ように見えたことからその名称がきている。現在はその古株が宝物として展示されていて、境内には2代目の「時雨松」が茂っているんだとか。
「五色椿」は春と秋の開花時になると、1本の木に異なる五色の花をつけたと云われていて、こちらは枯死したそうな。七不思議ということはあと5つ…ここ出水界隈には伝説の話がまだあるようで、“寺町”まわりだと、とかくこういう話は“あるある”である。
書置きの毘沙門天の御朱印と御主題を拝受し、境内の2代目の松や花が咲く椿がある庭園を眺めては、落ち着いた雰囲気に、冬の彩りを感じるのでありました~

光清寺 - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:28:36

華光寺の道を挟んだ真向かいに光清寺はある。山門を潜り境内に失礼すると、竹垣の囲いの中に石庭が芸術作品のようにある。立て看板には、重森三玲作の「心月庭」とあり、晩年の作とのこと。元は、大きな黒松が植えられていたらしいが枯死し、その後に白砂を設け、石組を配したということで、ここで重森三玲に会えるとは「なるほど~」と唸る。
石畳の参道を進むと、立派な松、その隣に大きな鐘楼があり、その向かいの入口で受付を済ませる。御朱印は4種。御朱印の値段もこのご時世、高くなってきているが、旅の高揚感に乗ってすべて拝受し、本堂へ移動。
東面に広がる石庭が、これまた見事で、こちらも重森三玲作の「心和の庭」で、誰が見ても「心」を表しているのが分かる。「心」は、苔の生える築山の上に仏像を表す12組の石が配されていて、「神仙世界」を表す枯山水庭園となっている。
拝観客が集まるまでしばらく庭園を眺め、見飽きることなく違う角度からの撮影をしていると、南面の竹垣も「心」を表していて、さすが重森三玲と唸る。
ガイドさんの説明が始まり、話を聞くと、創建は伏見宮貞致親王の生母の供養のために宮家ご領地に生母の「慈眼院殿心和光清大信女」の法名から称するようになったと。かつて、岩倉具視を輩出した岩倉家の菩提寺でもあったという。本堂には慈覚大師(円仁)作の聖観音菩薩立像が安置されていて、お参り。
左手鴨居に掲げられている額縁には、猫の絵が描かれており、出水の七不思議の1つ「浮かれ猫」の絵馬を見る。三味線の音を聞くと「浮かれ猫」が飛び出してくるという(遊女が現れて人間の煩悩を犯す)云い伝えがあり、当時の住職が法力で絵馬に封じ込めたと。あまりの法力の強さに住職の夢枕に現れて、もうこの世に出ることはしないと嘆願したため、許して封を解いたと。その話を聞いた人々が、諸芸上達のご利益があると参詣したそうで、「へぇ~」と、その猫の目を見ていると、確かに引き込まれそうになるような。
「あぶない、あぶない…」あまりじっくり見ているとヤバいかも…と、ガイドさん曰く、境内の弁天堂に“レプリカ絵馬”があるので、そちらは撮影可能だということで、行ってみると人だかりが。「もう、みんな…猫に魅了されてるじゃんか!」
その光景を見、何だか滑稽な、「今夜、夢枕に現れるだろうな…」と、猫の絵馬を眺めるのでありました~

興聖寺(1) - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:29:34

千本出水バス停から市バスを乗り継いで、天神公園前バス停で下車、歩いてすぐの興聖寺山門にたどり着く。興聖寺は2回目の訪れ。
広大な敷地の中に大きな本堂、方丈を有し、紅葉の時期が有名だろうか、境内にはモミジの木々が配され、参道石畳を歩く。受付を済ませ、まずは本堂へと赴くと、その高さといい、声が響くほどの空間、祭壇前には大きな「達磨図」がで~んと掲げられている。そして、天井を見上げれば「雲龍図」もで~んと描かれていて、迫力満点。
ガイドさんによると、「達磨図」は、「達磨忌」の日のみ掛けられる日本最大級の巨大な掛軸。本堂の左手に豊臣秀長の家臣であった藤堂高虎寄進と伝わる達磨像も安置されていて、当寺の“達磨信仰”が崇敬されているのが分かる。
「雲龍図」も天井板の木目を利用しているのだろうか、雲の中でうねる龍の表現が素晴らしく、ずっと見上げていると首が痛くなる。
本堂の建物については、屋根を支える内側の格子状の、均等に並べられた木々が黄檗宗の様式で、当寺が臨済宗にもかかわらず、○○時代(忘れた…)に流行った黄檗宗の影響から造られたそうで、本堂でのこの様式はここだけでしか見られない、珍しいものだとか。
歴史としては、後陽成天皇や後水尾天皇の勅願所として、千利休に茶道を学んだ古田織部が開基、虚應円耳という方が開山、創建し「織部寺」とも呼ばれている。
古田織部といえば、徳川幕府への謀反の嫌疑を掛けられ、一家断絶となったことが有名だが…
大阪夏の陣で、徳川方の情報を豊臣方に漏らしたことで、家康の「茶頭」としての信頼は「裏切り」ともとれる疑念に、不信感が生じ、家康は切腹を命じ、織部は一切弁明せず、最後の茶会を開いた後、自決したと伝えられている。
真意のほどは分からないが、師である千利休が秀吉の切腹に、何も語らずに死を受け入れたことに倣い(ならい)、同じ行動を起こした?と、解釈されている(一部冤罪説という話も…)が…。
師の利休から、「人とは違うことをしろ」という教え、つまり、動的な歪んだ茶器や斬新な文様を採り入れた「織部焼」などは「へうげもの」と呼ばれる“奇抜な美意識”を生み、時代の潮流に乗った古田織部。そんな奇抜さがあったが故の自決ではなかったかとも想像する。
そんな織部の正室の「仙」は、興聖寺山内にお寺を建て、菩提を弔うために余生を送り、境内には織部公と5人の男児、仙の石塔が建てられている。

興聖寺(2) - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:30:33

本堂から方丈へと移動し、ガイドさんの案内によって説明を受ける。一際目を引く“青い襖”。写真家、杏橋幹彦氏による海の中から撮影された“うねる波間”の写真で、ちょうど真ん中で波が盛り上がる様相が、手を合わせている“合掌”を表していると。現代の技術で襖に写真を拡大させて表装したらしく、鮮やかな“青”が目に飛び込んでくる。
格天井を見上げれば、それぞれ違う作画の春夏秋冬の花が描かれていて、最近製作されたような佇まい。
それとは逆に、平安時代に書写された「一切経」(中国から渡ってきたあらゆるお経の総称)の一部が展示されていて、話によると、5294巻という巻数を誇り、これらの経典群の中では三蔵法師が記録した大唐西城記十二巻中、最初の一巻が1200年以上前に書写されたものまであると。その古すぎる書写された一部は、虫食いの症状が生じていて、それを修復するのに○○○万円掛かるという…とんでもない額を、寄附を集めながら今も費やしていると。係の方に「虫って、紙を喰うんですか?」と素朴な疑問を投げかけると、紙にはデンプンが塗られていて、それが虫食いの要因であるとのことで、「へぇ~なるほど…」と納得。
黄檗宗から「鉄眼版一切経」が贈られたこともあるとのことで、万福寺近くの宝蔵院で、手作業で刷っている職人の見学をしたこと、その時の、棚に積まれた膨大な一切経の数々を目の当たりにして驚いたことを思い出し、気が遠くなるほどの作業だと痛感する。
傍らには、“寄附のお願い”があり、手ぬぐいと特別御朱印を拝受して、志納しお礼申し上げる。
方丈から茶室へと向かう廊下の途中には、“降り蹲踞(つくばい)”(水で手を清める茶室前に設置された手水鉢のこと)があり、深さが2mあるのは珍しいと写真に収め、「雲了庵」の茶室を拝観。庭には北白川の白砂を用いて、富士山のように山を造り、苔で模した川、木々などを配し、風情を醸した、落ち着いた雰囲気。ここに、モミジの“赤”が加われば、さぞ、綺麗なことであろうと、秋の時期に再び訪れることを“織部さん”に願うのでありました~

つけもの - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:32:04

興聖寺を拝観後、今日はここまでと限を付け、気になっていた漬物屋へ行ってみようと、再び市バスを乗り継いで、建勲神社前バス停へ。通りに面した提灯が目印の「京漬物 大こう本店」さんに入店すると、石畳の床が漬物屋にバッチリ想起できる造りとなっていて、冷蔵ケースにいろんな漬物が販売されている。店員さんがまずはこちらのテーブルにと、用意されている方へ案内され、試食タイムが始まる。
言われるがままテーブルに着くと、赤いお盆に数種類の漬物が乗っていて、ほうじ茶まで付いてくる。どこぞの茶店のような…いやいや、ここは漬物屋だと、ポリポリとつけものを試食し、なるほど…いろんなしくみがあるもんだ…と、さすが京都の、これが“おもてなしシステム”か…と感心し、味の食べ比べをする。
ゆずの香り漂う大根、長芋わさび漬け、京しば漬け、ワインらっきょなどなど、中々におもしろい。お土産に、いざ選択するとなると、迷ってしまい、まずは千枚漬けを確保し、ワイン漬けのらっきょ、その他を購入。老舗?漬物屋本店に訪れることができて、満足×2。


つづく…

また2、山口の旅(4) - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:21:40

私の花粉症センサーはまだ反応してないが、周りはもう“キテいる”と話す。うわ~、この季節が来たか~と、マスク必須の生活がまた始まるのか~と戦々恐々だが、梅、桜の季節でもあるこの時期、どこか行こうか毎年迷う。家でじっとしているのが一番いいのだが…
てなわけで、山口の旅、最終日まで紹介~

山口県護国神社 - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:22:47

4日目。県庁前バス停から宮野駅行きのバスに乗り、雪舟庭入口バス停で下車。交通量の多い国道9号線から北へ目を向けると、大きな鳥居が建ち、バス停から近い。
早朝8:00時ごろだとまだ神職さんの姿はなく、清々しい境内は護国神社らしい、何もない颯爽とした敷地となっている。
山口護国神社は日清戦争以降、山口県出身の英霊が眠り、現社地の南、国道9号線を挟んだ南に桜畠練兵場(現在の陸上自衛隊訓練場)において、盛大な招魂祭を斎行したことに始まる。昭和16年(1941)に社殿を創建、5万柱におよぶ御霊を祀っている。なので、歴史に名を残した大村益次郎や久坂玄瑞、高杉晋作、吉田松陰なども祀られていて、鳥居右手には招魂碑や飛行機のプロペラ、兵士の銅像が安置され、モミジが真っ赤に“彼ら”を照らしている。
両翼回廊式の拝殿でお参りをし、社殿右手には普通の池なのか、防火水槽用のため池なのかわからないが、その周りを囲むようにモミジが朝陽を浴びて赤く輝いている。こんな美しい光景を見られるのも、日本のために散った英霊たちのおかげだと、やはり護国神社ではしんみりとしてしまう。
社務所はまだ開いていないので、次に向かう常栄寺の帰りに再び立ち寄ってみようと。
…で、その帰り、社務所で書置きの御朱印を拝受し、御朱印帳がないか聞いてみると、小さい御朱印帳しかなく、大きいサイズはないとのこと。山口市内で大きい神社、たとえば山口大神宮とかにないかなぁ~と、丁寧に相談してくれ感謝×2。さて、どうしたものかと、かんがえるのでありました~

常栄寺(1) - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:23:46

山口県護国神社から北へ10分ほど歩いて駐車場にたどり着くと、モミジや雪舟さんの銅像に迎えられ、まだ誰も拝観に訪れていない様子。常楽寺には雪舟ゆかりの庭を目当てに訪れた次第だが、拝観は朝8:30からスタートなので、この秋の時期は多いのだろうと思っていたが、ちょっと拍子抜けしてしまう。まぁ~、それはそれで人がいない方がいいのだが…
山門を潜り、広い境内には枯山水庭園、地蔵堂と石畳を仕切りに理路整然と配置され、清潔感漂う空気感が流れる。受付で拝観手続きをする時、案内の方が「今日は庭園の方で工事関係者が重機を使い、雑音がしますので…」と申し訳なさそうに説明され、ひょっとして…それで人が少ないのか…と、とりあえず本堂へと足を運び中へ。
本尊は千手観音菩薩。この仏様が何ともすばらしい。千の手で誰一人漏らすことなく人々を救うため、いろいろなアイテムを持ち、手が後光のように見える。すっくと立つお姿は、堂々とされていて、向かいの縁側にある枯山水庭園をいつも見ていて、いいなぁ~と独り言ち、お参り。枯山水庭園はあの重森三玲が造られ、「南溟庭(なんめいてい)」といわれ、雪舟庭よりも優れたものを造られては困るという注文で造られたんだとか。重森さんも、はて?匙加減に困ったことだろう、見る人によってはこっちの庭が…なんていう人もいるかもしれない。
白砂に配置された石組、塀からの背景は裾野が見渡せる景観となっていて、よ~く考えられているのが素人目にも分かる。「南溟庭」を観賞し、本堂をぐるりと北側へ行くと、お待ちかねの雪舟庭園が広がる

常栄寺(2) - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:24:37

まずは縁側に座って観賞。雪舟庭園は、池泉式回遊庭園となっていて、池の周りには草木が生い茂る中にモミジの木々が見頃を迎えていて、美しい。石組の配置や芝生、苔、緑色の低木が色を添え、庭園を盛り上げている。始めは静かな空間であったが、ガガガ…っと音が響き始め、東屋の方で重機が動きだし、落ち着ける時間はあっという間。仕方がないが、雑音に急かされるように本堂から書院へと移動し、臨済宗中興の祖である白隠禅師の書や「郡山城下図」などの展示を見る。「郡山城下図」は、洞春寺でも説明したが、毛利隆元の菩提寺がこの地に移ってきたので、広島の郡山城跡が描かれているが、この絵図の様子と発掘調査で判明した遺構が一致していることが確認され、絵図の正確性が証明されたと云われている貴重な史料。へぇ~と、じっくりとその絵図を眺めて、次は庭園へ移動。

常栄寺(3) - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:25:30

常栄寺は元々は、大内政弘が別邸として建てたもので、庭は雪舟に依頼して築庭させたものと云われている。後に、政弘公の母、妙喜殿を弔うためのお寺として妙喜寺を創建し、その後、先ほども述べた毛利隆元の菩提寺、常栄寺と合寺し、今に至っている。
本堂は大正時代に焼失し、昭和27年(1952)12月に建立されたもので、庭園から眺める本堂も改めて立派な佇まいを見せている。小路を上がり、モミジを愛でながら竹林とのコラボを撮影し、山林の中へ。木々生い茂る中に光が射す、妙喜殿の供養塔があり、お参り。
道なりに進むと、「毘沙門堂」への案内看板があり、ここまで来たら行くしかないでしょ!と決意し、坂道を上がる。軽めの散歩道かと思って上がっていくと、徐々に登山道のような様相となってきて、いつしか、戻るわけにもいかない距離になってしまったので先を進む。ようやくたどり着いた~と思ったら「弘法大師堂」、再び次はと歩き始めると「薬師堂」…。「毘沙門堂」はたどり着けるのか?と、朝から汗をかきかきハードな?運動となってしまい、やっとこさ到着~。たどり着いた場所からは、さぞや境内を見渡せる風景が広がるのだろうと思っていたら、木々に囲われよく見えない…。
「毘沙門天さん…」
期待した私の早とちりと嘆きを入れつつ、お参り。ここまで登ったんだから御利益はあるだろうと勝手に解釈し、再び元来た道を戻る。
東屋の周辺には重機を動かしている作業員の方々が忙しく、これもやむを得ないのを受け入れ、本堂に戻ってきてそれなりの散策を堪能~。
1時間ぐらい経つが、誰も拝観に訪れている人はおらず、まぁ~、庭園を独り占めできた?だけでもラッキーなことだと、御朱印も授かり、山口県護国神社に立ち寄り次へ。

仁壁神社 - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:26:26

御朱印帳をどうしたものか…考えながら国道9号線を越えて、自衛隊訓練場の横の道を南へ行く。バスで行く予定であったが、遠回りとなるため、一度、グーグル地図で検索を掛けてみると、次に向かう仁壁神社には20分で歩いて行ける距離と判明したので、慣れない道を進み、住宅街に入る。
地元の神社~といった感じの鳥居が建ち、さっそく境内へ失礼すると、参道から徐々に木々生い茂る景色へと変わり、色とりどりの秋らしい装いとなっていて、社地はかなり広く、イチョウの木が黄色く色を染め、すっくと生えている。
仁壁神社は宮野地区(現在地より東北)の氏神として祀られていた、およそ1100年は経過、それ以前かもしれないほどに創建年代がわかっていない。御祭神は住吉三神が祀られていて、他に下照姫命や畔鉏高彦根命など、海上交通、交通安全、五穀豊穣、織物…つまり、衣食住に関係する神さまがこの地域の人々を見守っている。当神社は三ノ宮とも呼ばれ、赤田神社でも説明したが、大内義興公が崇拝していた五社のうちの1つ。なので、境内の雰囲気も赤田神社同様、格が違う…というか、何となく品があるというか、そんな感じがする。
とにもかくにも、杉の木や樫の木などの大木が並んでいて、空気感が違うのは間違いない。
拝殿でお参り。境内を散策すると、摂社・末社が多く祀られていて、それぞれに“○○の神さま”と説明書きがあるので、わかりやすい。
境内西側のイチョウの木が黄色く見頃を迎えていて、しばらく撮影タイム。確か…イチョウの木ってオスメスがあるって聞いたけど、どっちだろうか…と見上げながら、社務所へ。
前日に訪れることを宮司さんに約束していたが、境内で偶然お会いし、書置き御朱印を拝受。名古屋からの訪れに労って下さり、境内にある梅の木から採った梅干しと、イチョウの銀杏をいただき、感謝×2。梅干しと銀杏は、毎年のお正月に、参拝客に配られる品だったようで、特別のめでたい品を受け、この場を借りて、本当にありがとうございました~

御朱印帳を求め… - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:27:24

三ノ宮バス停でバスの時間までネット検索。実は、これまでの3日間の内、いろいろと御朱印帳を販売している所を訪ねている。たとえば、山口観光協会さんが販売している御朱印帳は、松田屋ホテルにあるとの情報で訪れたが、小さいものばかり。各寺社はもちろん、お土産売店にも聞いたが、小さいものばかり。目当ての縦18cm×横12cmぐらいの大きさの御朱印帳がなく、同じ大きさのを揃えたいというのもあって、まぁ~、こだわりっちゃ~、こだわりですが…。ちなみに、松田屋ホテルは、西郷隆盛や坂本龍馬らの勤皇志士たちが会合した場所で、エントランスから石畳の、暖簾をくぐったフロアは高級ホテルって感じで、私には敷居が高く畏れ多い。
…で、そんなこんなで、とある仏壇店に御朱印帳の情報を得、御朱印めぐりのセミナーを開催しているほどの、今どきめずらしい?仏壇店であると知り、数多の御朱印帳を販売していると。場所はJR仁保津駅から近く、確認のため電話をしてみると、目当ての御朱印帳を販売していているとのことで、急遽予定変更、バスもちょうど、JR山口駅行きが来て乗車、JR山口線を西へ向かう。
JR仁保津駅から国道9号線の通り沿いを西へすぐ、ふみおか仏壇店があり、意外と大きな佇まいを誇っている。
さっそく入店し、店員さんに案内してもらうと、デザイン性の良いものばかり、目当ての御朱印帳がずらりと並んでいる。迷ったあげく2冊購入し、御朱印帳を広げて飾るスタンドも販売されていて、「これイイじゃん」と店員さんに聞いてみるも、人気商品のため売り切れとのこと。まぁ~、御朱印帳を手に入れたことだけでも感謝で、山口の旅で仏壇店に立ち寄ることになるとは、とりあえず一安心で、お礼を述べ、後にする。
再びJR山口線を東へ、初日に降り立ったJR湯田温泉駅で下車すると、大きな“白キツネ”が私を見降ろし、「良かったねぇ~」と言われているようで、これも“白キツネ”のご利益なのか…と、感謝を込めて、見上げるのでありました~

井上公園 - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:28:16

JR湯田温泉駅から北へ。初日のホテルへ向かう途中の、気になっていた公園に立ち寄る。公園は公園だが、“史跡”といった感じの第一印象で、山口に来るまで知らなかったが、「井上」という名称が付くので、ひょっとして…と思っていたら、「井上馨」だと、旅を通じて知ることになる。
井上馨は天保6年(1833)、萩藩士、井上光享の次男として生まれ、(省略)明治新政府では外務大臣や農商務内務、大蔵大臣を務め、実業界でも成功を収め、政財界の元老として重要な地位を占める、明治維新の実現に貢献した人物。
そんな彼の生誕地ということで、生家は敷地面積がこれぐらいの広さだったのだろうかと、公園を眺める。
公園には銅像をはじめ「何遠亭」と呼ばれる建屋、八月十八日の政変で京から都落ちした三条実美らの七卿遺蹟之碑、中原中也の詩碑、種田山頭火の句碑などの史蹟のほかに、遊具や源泉かけ流しの足湯まである。「何遠亭」は、三条実美ら七卿を滞在させるために、井上馨の兄、光遠の邸宅から借り上げ、増築された建物で、今ある建屋は新しく再建されたものだが、当時は志士たちで国事を論じあったにちがいない。
室内に入れるので靴を脱いで中に失礼すると、畳敷きの落ち着いた空間で、茶室にもぴったりの雰囲気。見頃のモミジが彩り、公園の景観を眺めながら、論じ合っていた光景を想像する。
「何遠亭」の隣には、瓢箪池を中心とした小さな庭園があり、大内氏の別邸「築山館」造営時に豊後の大友氏から贈られたと伝わる“石”がある。大正時代に築庭した時、この“石”がこの地に移され、遠く豊後をさみしがり、雨の日には泣く音が聞こえると。
そんな“生きた石”に触れ、種田山頭火の句碑を読む。前回の山口の旅で、山頭火について述べたが、彼は酒と旅と温泉を愛し、ここ湯田温泉にしばらく滞在、もしくは防府からここまで約20kmの道のりを通っていたという話もあるほど、この地がお気に入りであったことを思い出し、散策しながら少し旅愁に浸る。
三条実美が植えたと伝わる松や碑文の説明案内を見、足湯には湯気が常に上がっていて、井上氏の史蹟に触れるのでありました~

温泉舎 - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:29:10

井上公園から北へ県道204号線を越えてホテルなどが立ち並ぶ中に、「温泉舎(ゆのや)」がある。白狐の石像が出迎え、奥へ行くと足湯(?)、その先に鉄塔が建ち、鉄塔の下には透明なパイプで源泉を汲み上げている機械(ポンプや受水槽)が見える。
湯田温泉の6つの源泉のうちの1つで、地下500mから汲み上げられている所で、源泉温度は62℃と高温。受水槽の隣には飲泉できるところがあり、自然石で造られた湯口からは温泉が滴り落ち、とても熱いのが見た目でも分かる。地元の方が水筒にお湯を入れている姿を見、飲んでも身体に良いのだろうかと…今回の旅で泊っているホテルで、毎回、温泉に浸かり、元気に動き回れるのは、この温泉のおかげだと思うと、飲んでも良い効果が得られるのだろうと、石像の白狐に感謝するのでした~

ふぐの唐揚げ定食 - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:30:07

ちょっと遅めの昼食は、ホテル近くの居酒屋で。お昼もランチとして営業していて、山口のお土産も置いてあり、観光客向けの店にちがいない。
メニューを見ると、定番の瓦そば、地内鶏などページをめくると居酒屋メニューが多種ある。フグの刺身もあったが、フグの唐揚げ定食を注文。誰かに聞いたのだが、フグは刺身よりも唐揚げにした方が、旨味が感じられるという話を、頭の隅っこに憶えていて、どんな味なのか…刺身は食べたことがあるが、唐揚げは初なのでオーダーし、実食!
ふっくらとした食感、クセがなく旨味がぎゅっと凝縮されたような(表現がオーバーです…)、「うまい!」の一言。ネット界隈では、フグ初心者はまず、唐揚げを食べてほしいというおススメがあり、その理由も、フグの持つ“身質”に関係しているとのこと。フグの身は繊維が細く、水分を多く含む構造をしていて、油で揚げると表面がすばやく固まり、中の水分と旨味が逃げにくくなると。さらに、骨付きのままだと、骨から旨味が染みだし、味に深みが加わることで、淡白から旨味の塊へと変化するようで…。
細かい骨が難儀だが、手に取ってむしゃぶりつき、レモンで味変し、時間をかけていただく…
いや~、満足×2の昼食で、ご当地グルメにありつくのでありました~

中原中也記念館 - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:31:11

一旦、ホテルに戻り、再び5分もかからない中原中也記念館へ。2日目の、お墓を先にお参りした以上、立ち寄らなければいけないと、街中の道を歩き、いきなりの背の高い大木の松、美術館ばりの、デザイン性の高いエントランス、コンクリート製の建物はどこか、冷ややかでありながら、館内への導線の草木が設えており、設計は、全国で公開競技が行われ、最優秀に選ばれた宮澤浩氏の作品平成6年(1994)に中原中也の生誕地に開館というから、まだ新しい施設である。
そんな施設を眺めながら入館し、受付を済ませ、さっそく展示物を観賞していく。
中原中也は山口県湯田温泉生まれ。開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして期待されて育った。学業成績も良く、神童と呼ばれていて、小学校高学年ころから短歌を始め、雑誌や新聞などに投稿し、文学に熱中しすぎる傍ら、不良少年ともとれる飲酒や喫煙を覚え、いつしか成績はガタ落ち。中学3年で落第。地元中学にいたくない訴えに、転校のため京都の立命館中学に移り…(省略)後は、女優と同棲とか、上京してフランス語を学んでフランスの詩人ランボーに傾倒するとか、同人雑誌を創刊、詩集を出版とか…とにかく、頭が良かったことは確かで、その素行が中学時代から親のプレッシャーが嫌だったのかなぁ~、グレちゃったな~と、人生の系譜を知る。
彼の弟の呉郎によると、中也の性格は父の“荒い血”と母の“静かなる血”を受け継ぎ、繊細で感情豊かでありながら、激しい気質の持ち主であったと。酒に溺れた際には、乱暴な行動が目立ち、太宰治との親交もあったが、大乱闘を起こすなどの逸話も残されており、詩集の作品には、孤独や苦悩が深く反映されていると。
展示には実際にやり取りした手紙や遺品、詩集の紹介をしていて、詩集の説明もわかりやすく解説。2階に行くと映像が流れ、より分かりやすく中也の人生を視聴。
30年という短い人生において、情熱的に生き、燃え尽きるように生涯を突っ走った…生き急ぎすぎたと思わざるを得ない中也は、それ故に、死してさらに評価を得たと、2時間以上経ってしまっただろうか、中原中也に対し、想いを馳せるのでありました~

朝田神社 - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:32:10

最終日は午前中のみを予定に、JR湯田温泉駅からJR矢原駅へ移動。駅から西へ数分の朝田神社に向かう。
朝8:30ごろだと息が白い分、境内の清々しさは身が引き締まるほどに、それを朝陽が和らいでくれているよう。
朝田神社は周防五の宮。今回の旅で三、四の宮と訪れ、あと二の宮の出雲神社以外、訪れたことになる。ちなみに、一の宮は防府市の玉祖神社。
鳥居右手には田畑が広がる平地で、境内側面のモミジが光を浴びて美しい。神門そして拝殿、本殿と、一直線に並ぶ本殿の屋根から太陽が射し、境内を段々と照らす雰囲気の中、お参り。
当神社は6つの村社を合祀して現在地に遷された神社。その6つの神社の内の1つ、住吉神社があった場所で、全ての社殿を移転、整備するのに7年かかったとされている。
境内には鐘楼堂、佐用姫を祀る社、忠魂碑、かつて灯籠として使用していた石などを配し、社地はそこそこに広い。散策していると、駐車場に続々と集まる車、人を目にし、今日は何かあるのだろうか…と、社務所に伺うと、宮司さんにお会いし、事前連絡で留守録にお願いしていたのだが、御朱印を拝受でき、どうやら例祭があるとのことで、名古屋からの訪れに「それはそれは…」と労って下さる。
最後はこの朝田神社で山口の旅の締めくくりとなり、今回も充実した旅となりました~

また2、山口の旅(3) - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 10:59:33

今年こそは、京都の節分祭を…と思っていたのだが、仕事の都合上、行けなくなってしまい残念~。その代わりとまではいかないが、毎年恒例の「京の冬の旅」を堪能し、いずれアップする予定ですが、大雪で大騒ぎした、あの日に偶然行くことになってしまい、新幹線もどうなることやらで、無事、非公開文化財を見てきました~
インバウンドの多い京都は冬の時期以外は行かないことにしているが、日本全国行けない所が増えてきそうでいやだなぁ~と思う今日の頃。
大分、間を置いてしまいましたが、なんせ、“忙しい”を理由に投稿も毎度の事、遅れるのであしからず。山口の旅、3日目~

赤田神社 - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:01:05

3日目。湯田温泉バス停から秋吉行のバスに乗って、四ノ宮バス停へ移動。位置的には昨日訪れた吉敷の北側に当たる。バス停の目の前が赤田神社の“横っ腹”で、鳥居は南側にあるが、参道途中から境内へ失礼し、かなり広い社地の東側には吉敷川が流れ、風情がある。周りにはモミジの木々が配されていて、見頃を迎え、美しい風景を撮影しまくり、誰もいない朝の清々しい気分に背筋が伸びる。
拝殿でお参り。
赤田神社は元々、「良城大神宮」と呼ばれていて、成務天皇9年(139;この頃はまだ年号がない)に出雲大社から勧請された古社。元の場所は「古国之宮」として今も吉敷に祀られていて、昨日訪れた中原中也のお墓がある吉敷川西側に鎮座してある。養老元年(717)に現在の場所に移築され、地名から「赤田大神宮」と名称を改めた。
かつて山口を治めていた大内義興氏が崇敬していた五社があり、そのうちの四ノ宮がここで、山口市内にはあちこちに祀られていて、今回の旅で二ノ宮以外を訪ねる予定。
そんな由緒ある拝殿の天井を見上げると、龍の絵図が描かれていて、火防の神様として護っていて、右手には恵比須神社があり、こちらもお参り。その恵比須神社の右手には吉敷川が流れ、見頃のモミジが川沿いに映え、鴨や鷺が川の中でついばんでいる自然の風景の中を撮影しまくり、限をつけ社務所へ。
事前に宮司さんに連絡を入れていたが、書置きの御朱印が社務所に置いてあり、それを拝受。
参道中央にも見頃のモミジを愛でながらバスの時間までモミジ狩り散策するのでした~

菜香亭 - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:02:01

県庁前バス停まで戻り、野田学園前バス停で下車。東へ歩くと、初日に訪れた野田・豊栄神社鳥居の手前に「菜香亭」という施設がある。庭園のモミジがきれいという情報だけで来たのだが、どういう施設なのかわかっていない。
広い駐車場には、まだ朝早いということもあって、数台しか止まっておらず、案内矢印どおり建物の中へ移動。拝観受付をお願いすると、案内の方が一通り説明して下さり、当施設が“山口の迎賓館”であることを知る。
平成16年に開館したということで、まだ新しいのだが、建物事体は明治10年頃から120年余りかけて、親しまれた料亭「菜香亭」を移築復元したものらしい。料亭は八坂神社境内に創業し、山県有朋、井上馨、伊藤博文、田中義一、佐藤栄作などなど、名だたる著名人が訪れ、会合や文化活動などいろいろな場を提供してきたとのこと。
「へぇ~」とそんな施設だとはつゆ知らず感心し、案内の方が「午前中10:00ごろから2階へ団体客が予約を入れているので、それまで2階は見学できますよ」と促され、まずは2階から拝観。
2階は北、中、南客間の3つの部屋に分かれ、特に北客間には佐藤栄作が座ったと云われるソファがある。このソファの座面がふんわりしているのに対し、客用のソファは硬く、差別化している。そして、ここから望む回遊式庭園には、モミジが見頃を迎えていて、窓越しに美しい風景が醸し出されている。佐藤栄作首相もここから眺め、ゆったりとした空間で寛いでいたのだろうと、失礼ながら柔らかいソファに座って首相気分?を味わう。
1階に降りると、大広間展示室にはいくつかの扁額が鴨居に掲げられていて、百畳の大広間には総理大臣9人を含む29枚の書がずらりと飾ってある。最近だと、安倍晋三氏の揮毫もあり、ほとんどが四文字熟語とか漢詩っぽい文字が説明書付きで並んでいる。
佐藤栄作氏がノーベル平和賞を受賞した祝賀会がここで行われたというから、百畳もある大広間に人が埋まる光景を想像し、外を見れば庭園が広がり、主に政治の談合?がおこなわれていた料亭…といった勝手なイメージが膨らむ。
庭を眺め、歴史の一旦を担った“料亭”に想いを馳せ、落ち着いた雰囲気に、しばらく癒しを求めるのでありました~

龍福寺(1) - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:02:53

菜香亭から南西方向へ移動。大内居館跡にある龍福寺を目指す。町中の小路を西へ進むと、山門までの参道がモミジですごいことに。菜香亭の案内の方が、龍福寺の今年のモミジはあまり色取りが良くないという話を聞いていたが、とんでもない!彩りは見事で、好みは人それぞれ。私は緑色が多少入っているぐらいがちょうど良い塩梅で、紅葉ってる。
山門までいつ、たどり着けるのだろうかというぐらいに、撮影に夢中になってしまい、アングルを変えながら、時にはスマホ、一眼レフと替えながらモミジ狩りを堪能する。
ようやくたどり着いた山門付近も素晴らしい。境内にある黄色く色づいたイチョウの木を背景に、手前のモミジが名優の配置取りのようにカッコよく決めていて、絵になる。
龍福寺は、元は瑞雲寺という名称で、大内満盛が建永元年(1206)、白石の地(東へ30km離れた場所)に創建された。その後は、大内氏の菩提寺として、毛利氏が山口を支配し治めると、毛利義隆の菩提寺として、大内居館跡地に再興。大内居館跡のこの敷地は、膨大な広さの土地を有し、北は八坂神社、南は大殿大路周辺までを指す。
大内氏は百済の王族、琳聖太子(りんしょうたいし)の末裔という伝承があり、平安時代後期に現在の山口市大内に拠点を移したとされる。その後の14世紀後半に大内弘世が統治の本拠地を「山口」として館の整備が行われ、山口市の発掘調査によると、屋敷地が段々拡張して、少なくとも4つの庭園が存在するほどの規模だったことが分かっている。

龍福寺(2) - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:03:42

そんな龍福寺山門を潜り境内へ失礼すると、今までの参道の“赤い色彩”から今度は“黄色い色彩”へと変わり、1本のイチョウの木からの落葉が境内を埋め尽くしている。低木のサツキやツツジの丸く刈り込まれた緑の中に、黄色いイチョウの落葉が花のように重なって、境内全体を秋らしく彩り、イイ雰囲気。
境内には観音堂や宝現霊社、十三重石塔などが祀られていて、まずは本堂前でお参り。本堂はかつての大内氏の氏寺、興隆寺時代の釈迦堂で、明治時代に移築され、現在は室町時代の様相を復元した建物となっている。本堂脇には資料館があり、入口手前には馬に乗った大内義興公の銅像に出迎えられ、志納して入室。
大内氏の歴代の年表から始まり、掛け軸や居館跡の古地図などの宝物を見学。パンフレットを頼りに、境内に南東にある池泉庭園をぐるりと一周し、北側にある土塁跡、北西側にある小さな枯山水庭園、西側の西門や石組水路を見、広大な敷地を誇っていたことを肌で実感。
ちなみに南東の池泉庭園は「公的」、北西の枯山水庭園は「私的」空間であったとする説があり、公私隔てて使い分けていたことも窺い知る。
納経所で御朱印を拝受し、再び境内参道を散策し、紅葉の季節に訪れることができて良かった~と、大変満足×2。

洞春寺 - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:04:36

龍福寺から東側の通りにあるコミュニティバスのバス停から、洞春寺前バス停へ移動。次に向かう洞春寺は、初回に訪れた香山公園手前のお寺で、バス停から少し坂道を上がると、潜れない山門があり、門の左手から駐車場へと繋がる道を歩き、到着。
洞春寺は中国33観音霊場の16番札所なので訪れた次第だが、歴史の変遷を見ると、少々複雑なお寺のよう。元々は、大内盛見公の菩提寺、国清寺であったが、支配下が毛利氏に移ると、毛利元就の嫡男、隆元の菩提寺、常栄寺となり、明治維新のころ、政府を山口に移すにあたり、萩にあった元就の菩提寺、洞春寺を現在地に移転し、常栄寺は東の外れの宮野下に(いずれ訪れる)移すことになり、建物はそのままに転用されてきたとのこと。
…で、元就の菩提寺、洞春寺は元々、安芸国にあって、関ケ原の戦いで毛利家は敗北、故郷の安芸国(広島)を没収され、徳川幕府によって防長2カ国に移封。減封されたうえ、政治の役割を担わせることは許されず、萩を本拠地としてスタート。そんな背景から洞春寺は安芸国→長州・萩→山口と移ってきた歴史を持つ。
中門から境内へと失礼し、正面の本堂、左手に観音堂があり、どちらもお参り。西側の墓地には大内盛見公のお墓と、国清寺時代からあったとされる「大蔵経」というお経を納める経堂跡(礎石跡)があるのだが、私は行ってはおらず、後からネット調べで知って、今にして思えば惜しいことをしたと後悔。この経堂は、滋賀県大津市の三井寺に移されていて、もちろん私はそれを見たことがあるが、「国清寺」と聞いて、どこかで聞いたことがあるお寺の名称だと…それがここの寺の所縁であるとはそれまで気づかず、そんでもって、井上馨のお墓(分骨)もあったとは…心中で手を合わせる。
庫裏へ移動し、御朱印を拝受しに伺うと、「御用の方は鐘を鳴らして下さい」とあるので、小さな鐘をカーンと鳴らしたが誰も出てこない。
「?」
もう一度鳴らすと、外国の方が出てきて、日本語が通じず、身振り手振りでご住職について伺うと、「アイドントノー」と所在が分からない様子。どうしたものか…
とりあえず、本堂裏手の庭は見れるか、カタコトの英語で伝えると「OKOK」と案内して下さり、そこでは数人の外国の方々が壁画にせっせとアートを施していて、何となく、お寺の経営方針が垣間見えた気がしたが、裏庭には色づいたモミジ、本物の生きた羊や馬(飼っているのだろう)、アート仏像などを見、時間を持て余す。
全て見終えて、さてどうしたものか…本堂内で待たせてもらうことにし、一応電話をしてみると、庫裏の方でベルが鳴っているのが分かるが、どこかへ転送されたようで、住職さんのスマホに繋がり、「あと10分ほどで戻ります」ということで、どこかへ出かけていた様子。
…で、住職さんと挨拶を交わし、御朱印を拝受。歴史あるお寺とアート作品のギャップにちょっと躊躇してしまうが、外国の方が修行に来ているお寺は岡山にもあった(曹源禅寺)ことを思い出し、「サンキュー!」と別れるのでありました~

瑠璃光寺 - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:05:31

香山公園へと繋がる散策路を上がり、初日に訪れた公園を横切る。相変わらずの美しい五重塔の景色に、多くの観光客が写真を撮っていて、その一角に瑠璃光寺の山門があり、自然と誘われるように観光客が入り、私も同じように境内へ。
ここ瑠璃光寺は、室町時代、大内義弘公の菩提寺、香積寺があり、弟の盛見公が五重塔を建立したことは前にも説明したが、江戸時代、山口を治めた毛利輝元が萩入城に伴い、香積寺は解体され萩へ移り、五重塔はそれを免れた。管理者不在の塔は老朽化が進み、長州藩2代目の綱広公により大修理を行い、それ以降、大内氏一門の陶弘房の菩提寺として周防の国に大伽藍を有していた中国三山の瑠璃光寺に託され現在に至っている。
本尊は薬師瑠璃光如来。境内にはあちこちに一畑薬師や長寿薬師如来、身代わり地蔵尊、水かけ地蔵尊、金比羅大権現等々が安置されていて、お参りしがいがあり、所狭し?と御利益をいただける伽藍となっているので、一種のアトラクションのような誰でも気軽にお参りができる様相となっている。
金比羅堂へは少し石段を上がった先にあり、大権現にお参り後、高台からの景色は風情があり、しばらく佇む。
資料館には寺宝や五重塔の模型などが展示されているそうだが、今回はパスして納経所へ。
御朱印が数種類あり、つい最近まで五重塔が檜皮葺張替えの“令和の大修理”を行っていた寄付金を募っていて、そのための御朱印や檜皮入りお守りなどがあり、全部ではないが拝受する。
御朱印帳が埋まってきたので、販売してないか聞いてみると、売店で売っているとのことで行ってみるが、サイズの小さいものばかりで、大きい(標準サイズ?)のがないので、諦める。
最後は五重塔を拝み、この景色を忘れないように堪能するのでありました~

瓦そば - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:06:25

バスの時間まで1時間ほど待たなければならないので、ちょうどお土産屋の中にお食事できる店があるので昼食タイム。店のイチオシ、「瓦そば」を迷わず選択し注文。
この旅前の下調べで、山口って何があるのか…名産やご当地グルメは…と、やはり1位は「ふぐ」で2番目に「瓦そば」が出てくる。テレビの“ケンミンショー”などで知ってはいたが、一度も食べたことがないので、人生初実食。
瓦そばは、明治10年に起こった西南の役において、薩摩軍が野戦の合間に、身近にあった瓦に火をかけて野菜や肉などを焼いて食べていたのをヒントに、下関で発祥したらしい。
運ばれてきた瓦そばは、黒い瓦の上に茶そば、錦糸卵、ネギ、牛肉、麺が盛り上がった頂上には輪切りのレモン、明太子が乗っていて、色取りも見た目もおもしろい。温かいつゆも一緒に付いてきて、つゆに浸けてたべるのか…と、ある意味、焼きそばをつゆに浸けて食べる…東北地方にも似たような料理があったような…なるほど…こういうのもアリなのか…と、熱々のそばをつゆにダイブして、たまに薬味で味変し、堪能~
山口のご当地グルメを食し、満足×2。

古熊神社 - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:07:32

香山公園五重塔バス停からJR山口駅行きのバスに乗って、途中の米屋町バス停で下車。次に向かう場所は、公共交通機関の手段が使えないため、事前にアプリ登録で山口市内のレンタサイクルが利用できる方法を活用し、さっそく自転車ポータル場所から借り、南東方向へ自転車を走らせる。
山口市内の商店街、JR山口線の線路を越え、椹野川に架かる橋を渡り、東側を真っすぐ進むと、緩やかな坂道に鳥居が建っていて、小さな駐車場に自転車を停め、境内に失礼する。
古熊神社は「ふるくま」と読み、御祭神は菅原道真公。由緒には道真公が大宰府左遷の際、御子である菅原福部童子が父を慕ってその後を追うが、山口にて不幸にも病のため11歳で亡くなり、当時の人々の手によって、山口の北野小路(現在地から西へ1km離れた場所)に拝堂を設け、応安6年(1373)大内弘世が京の北野天満宮より御神霊を勧請し、福部童子も配祀神として「山口北野天神」または「今天満宮」と称され、現在地に崇められたとある。「古熊」は明治時代に入ってから改称された名称で、当地の地名に基づき、“山口の天神さま”として親しまれている。
こちらの社宝には「御簾天神彫画一軸」という掛け軸があって、福部童子が旅の道中、周防国山口にて夏の疫病にかかり、身動きが取れなくなってしまった時、従者が急いで大宰府にいる道真公の元へ知らせに行くと、道真公自身で描いた掛け軸を従者に渡し、再び山口の地へ戻り、童子が眠っている部屋の壁に掛けると、それは道真公のお姿が浮かび上がるような細工が施してあり、童子は大層お悦びになったと。が、時すでに遅し…疫病は童子の身体を蝕み、その短い生涯を終えられた…というエピソードがある。絵が浮かび上がる手法が平安時代から考えられていたこともすごいが、その道真公自身で描いた“自分”はどのようなものだったのかを一度見てみたい。
拝殿周りには摂社末社が祀られていて、牛や馬の石像、角が生えた鼻の大きい特徴的な狛犬もいて、ごあいさつ。拝殿は元々、楼門として造られたものに床を張り、室町時代特有の“二重入母屋楼門造”となっていて、本殿の蟇股が向かって左に「竹に鳳凰」右に「松に鳳凰」中央に「梅に大内菱の家紋が施され、凝った造りとなっている。
拝殿でお参り。本殿左手には放生池があり、その周りに生えるモミジが見頃を迎え、撮影タイム。美しい紅葉の彩りに、今回の旅は偶然にも訪れる神社にモミジの見頃に出会え、嬉しい限り。
社務所では初日に訪れた野田・豊栄神社(“とかさ”と読む)の御朱印も拝受し、菅公・福部童子にお礼申し上げるのでありました~

山口ザビエル記念聖堂 - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:08:28

米屋町のサイクルポートに自転車を戻し、北にある亀山公園を目指す。公官庁のビルが建つ一角に、一際高台に目立つ教会?のような2つの塔の建物が見え、坂道を上がる。
訪れる予定はなかったが、頭の隅っこに「モミジ=ザビエル聖堂」という情報を憶えていて、「ザビエルって、あのザビエル?」というのもあって、訪れた次第。
広い駐車場はかつて、高嶺城跡があった亀山公園と隣接してある山口ザビエル記念聖堂のためのもので、今は、平日の午後3時ということもあって車はまばら。そして、美術館と思わせるような聖堂は直角三角形の屋根に双頭の時計台、十字架をあしらったデザインに、2階のテラス?からザビエル像がこちらを見ている。
1階のエントランスには瓢箪型の人工池が光の反射で天井に形を現し、教会というよりかは美術館といった印象を受ける。
受付では拝観料200円と安く、館内では騒がず静かにすることが義務づけられていて、さっそく静かに入館。1階は広いフロアでフランシスコ・ザビエルの生い立ちからはじまり、カトリックの教え、遺品、像や版画、祭具、手紙などなどを展示。
ザビエルはスペインで生まれ、パリのソルボンヌ大学(当時から大学があったことに驚)に入学。ベネチアで司祭叙階し、1540年ローマを去って1年後、インドへ。1549年に日本の鹿児島に到着し、1年後、長崎の平戸と山口に滞在。1551年1月に京都、4月に山口滞在、11月には日本を去り、1552年12月に中国の上川島(サンチャン)に帰天した。日本で初めてキリスト教を伝えたザビエルは、山口にとって最初に教会を創設した地であり、今でこそ当たり前の行事であるクリスマスも、山口で初めて祝われたという。
「へぇ~」と、ここ山口が拠点であったことを知り、さらに日本に与えたキリスト教の影響は、歴史でもお馴染みの、キリシタン弾圧に伴う、踏み絵やマリア観音、墓石など、過去の寺社で訪れた時に見た歴史的遺産を思い返いながら、歴史を感じる。
2階へ移動すると、いわゆる祭壇や祈りを捧げる広い空間となっていて、デザイン性のあるステンドグラスに、背後にはパイプオルガンのパイプが見え、常に聖歌?が流れている。
休憩がてら、しばらく椅子に座って聖歌を聴き、仏教もキリスト教も手を合わせて祈ることは共通していて、この世の不幸がなくなるための祈りは、ホントに届いているのだろうかと、「神さま~」と、吉本新喜劇の桑原さんをなぜか思い起こす。
2階から出口となっている外に出ると、あのザビエル石像の背景には、亀山公園の見頃のモミジが見え、駐車場へ下る坂道の先にはマリア像、駐車場真向かいの一角には布教活動をするザビエル銅像や鐘があり、遠く離れた日本までよ~く来なさったと、ザビエル銅像に別れを告げるのでありました~

亀山公園 - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:09:38

山口ザビエル記念聖堂から亀山公園へと石段を上がり、あちこちに生えているモミジを撮影しながら散策。山の縁を巻貝のように上へと続く道を歩くと、山口市内の東西南北の景色が眺められ、イチョウやカエデなどの秋らしい風景が街中に映え、良い気分。
亀山公園はかつて、大内氏28代当主の大内盛見公の別荘があった「長山」という所。大内氏滅亡とともに、別荘の主もいつしか消え、毛利氏がこの地を治めると、輝元の従弟にあたる秀元が城を築こうとしたが、関ケ原の戦いで敗戦し、城は建てられることなく領地も没収、そのままとなるが、明治に入り、元長州藩の功績を称えようと、毛利敬親公の銅像ほか、毛利のお殿様の5体の銅像を建てられることになった。が、昭和の戦争で銅は軍に供出され、現在では敬親公像のみとなった。ちなみに、敬親公像は昭和55年(1980)に再建されたもの。
そんな山頂広場に到着すると、馬に乗った敬親公が山口市内を見守り、小学校の遠足の休憩場所のような芝生広場が広がる。もちろん、モミジも色を添え、夕暮れ時、屋根のあるベンチで休憩していると、西の空が何だか怪しくなってくる。雲の流れが速くなり、雨が勢いを増して横殴りに降り出してくる。「なんなん?」と思いながら、しばらくして、徐々に雲から射す夕陽が眩しく、通り雨だった天候に、「これは神の啓示か…」と、敬親公像を何とはなしに眺めるのでありました~

つづく…

また2、山口の旅(2) - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:11:25

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
毎年、初詣は名古屋市内の神社をお参りするのですが、熱田神宮とか大須観音とか参拝者が多い所は避けて、地味~に訪れたことのない所を選んでお参りしています。今年は午年。馬にちなんだ神社って名古屋市内には無さそうなので、午の方角は南…ということで、ここでは紹介しませんが、地元の宮司さんや禰宜さんら氏子さんらのおもてなしがありがたく、日本人に生まれて良かった~と思う今日この頃。
さて、山口の旅2日目もかなり密度の濃い旅で、紅葉狩りを堪能~

維新百年記念公園 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:12:38

2日目。湯田温泉バス停から県庁前バス停で乗り換え、終点の児童センター前バス停へ移動。ここは、西へ2km離れた維新百年記念公園。維新公園は昭和38年に行われた山口国体のため、陸上競技場が建設され、その10年後に公園として整備し開園。スポーツ文化の拠点として、ラグビー、サッカー、テニス、武道などの施設が生まれ、山口では有名な運動公園として市民の憩いの場となっている。
この公園にはメタセコイヤの並木が秋になると、綺麗に色づく写真をネットの情報で知り、訪れた次第だが、さっそく公園内を歩くと、背の高いメタセコイヤの木々が目立つように道路わきに、あちこちにあり、自然と足がそちらの方に向いてしまう。
各競技場の広さといい、ジョギングコースでは朝から地元の人たちが走っていて、改めてスポーツに特化した施設、公園であると認識。
メタセコイヤ並木の道を散策し、オレンジに色づく紅葉を愛で、小川沿いにはちょっとしたモミジの木々も秋らしく赤く染まっていて、しばらく撮影タイム。清々しい気分で次へ。

出雲大社山口分院 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:13:50

維新百年記念公園の北側は国道9号線の山口パイパスで交通量が多い。その道路下を潜る地下道があり、北へと進み数分、出雲大社山口分院に到着。
鳥居から先の参道、モミジやイチョウの木々が秋らしく彩りを見せ、境内を華やかにしている。正面の拝殿には、出雲大社ではおなじみの注連縄が飾られていて、立派である。
出雲大社山口分院は明治15年(1882)に出雲大社大宮司の千家尊福に心服した末田真穂が出雲大社の御分霊を奉斎し建立したのが始まり。山口藩士だった末田氏が赤間宮の禰宜に奉職中に、大宮司の巡教に随行したのが契機となったそうで、このような分院は中国地方に散らばって祀られている。
御祭神は大国主神をはじめ、高皇産大神ほか、5柱相殿として祀られていて、特に縁結びに御利益があるとのこと。
拝所で2礼4拍でお参り後、本殿側へ回ると、あの”柱”で支えていて、ここも”出雲らしい”風貌でそこにある。出雲を訪れた時の、神魂(かもす)神社を思い出し、ここ山口の地にも出雲信仰が根付いている事を実感し、社務所へ。
無人である社務所に電話をしてみるが繋がらず、とりあえず、次の目的地、玄清寺を目指すべく、帰りに後でまた連絡してみようと、先を急ぐ。
(ちなみに、その後、連絡が取れ、御朱印を拝受。ありがとうございました~)

玄清寺 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:14:42

再び小さな川沿いを北へ歩き、集落へと入る。この地域は天神山と呼称する丘陵地で、古墳が7基存在していて、竪穴式石室や箱式石棺などが発掘されている。
そんな集落の中に建つ玄清寺。吉敷毛利家の墓所があり、初代、秀包(ひでかね:毛利元就
第11子)が創建したお寺で、3代目の元包(もとかね)が吉敷に領地替えになり、現在の地に移ってきたらしい。
結界門からの参道、山門近くには真っ赤に彩られたモミジが秋の装いを醸し出し、安置されている願掛け地蔵たちも赤い滴れを着て、何だか嬉しそう。
山門を潜り、境内に失礼すると、”苔にモミジ”と美しい。正面に本堂、左手に鐘楼、毘沙門堂が建ち、本堂に安置されている釈迦如来さまにお参り。
毘沙門堂には大内義興公の位牌と念持仏が安置されていて、かつて室町時代にあった凌雲寺に伝わった仏像を移したもので、2躰の毘沙門天のほかにも吉祥天像など、室町以前の仏像を安置していたと伝わり、大内氏は毘沙門天を崇拝していたことが分かり、ここでもしっかりとお参り。
毘沙門堂から誘われるように吉敷毛利家の墓所へと行くと、丘に沿って下方から14代13代…初代へと上方へ五輪塔や墓石が続いていて、かなり広い。モミジの見頃具合も相まって、歴代の吉敷毛利家の親族に頭を下げ敬い、御朱印は本堂内で書置きのを拝受したので、そのお礼にと感謝申し上げるのでありました~

龍蔵寺(1) - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:15:46

さらに西へ続く一本道を歩いていく。ここまで30分ほどかかっているが、昨今の熊出没ニュースを見、山口でも生息しているのだろうかと、警戒感強めで歩く。
私を追い越す車が数台、やはり次に向かう龍蔵寺のイチョウの木が目当てなのだろう、この秋の時期に訪れる参拝客がこの地域では多いのかもしれないと、徐々に山寺の雰囲気が漂う景観になってきて、駐車場周りにはモミジの木々が赤く染まり、そこそこの車が駐車している。
七福神の石仏が見守る中、入口には寺院保持のための志納金投入箱があり、200円チャリンと志納して境内へ。木々生い茂る中の長い石段、その途中にある楼門にはいろんなお守りグッズや絵馬などがあり、一呼吸おいて、再び石段を上がると、イチョウの落葉が散乱する光景、たどり着いた本堂周りの“黄色いじゅうたん”が広がり美しい。
大イチョウは国の天然記念物に指定されている樹齢約千年の老木。上の方にしか葉が生えてなく、地面を埋め尽くすイチョウの落葉は風情があり、その老木の根元には洞穴観音の石像が祀られていて守っている姿に合掌。
本堂でさっそくお参り。本尊の阿弥陀如来像は当寺で最も古い仏像であると云われていて、大内弘世公が山口に拠点を移したころ、東西南北に寺院を建て、それぞれに守り本尊を安置したことから、西の位置に西方浄土の阿弥陀如来をお祀りした由縁があり、遡ること、文武天皇の時代に、役小角が熊野権現を勧請したことに始まる。聖武天皇の時代には行基菩薩が建立、山口で一番古いお寺であるらしい。

龍蔵寺(2) - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:16:39

境内を散策すると、まずは「八百屋お七の供養塔」がある。江戸の大火で火刑となったお七の兄が全国行脚で、弔うために建てた宝篋印塔。八百屋お七の話はどこかのお寺で聞いていたが、ここ山口の地で出会うとは…亡くなられた人々への懺悔を、兄が代わりに行っていた想い…もう十分罪は償われたと、黒く苔むした宝篋印塔が物語っている。
本堂右手奥へ進むと、青不動明王の巨象がにらみを効かしている。10mもの背丈のある不動明王の脇侍には馬頭観音と阿弥陀如来が安置されていて、ペット供養、永代供養として扱われている。奥之院へと繋がる山道には「鼓の瀧」があり、見上げると橋が架かり、モミジが見頃を迎えていて、いい雰囲気。流れ落ちる滝壺で滝行でもするのだろう、今は水量が少ないが、修験者が修行する場所もあり、傍らには六地蔵がモミジの落葉の中、寒そうに静かに佇んでいる。
今回は奥之院へは行かないが、山道を登ると摩崖仏もあるそうで、滝の下から手を合わせるだけにして、護摩堂へ移動。不動明王を中心に、フィギュアのような仏像がずらりと壁一面に並び、“彼ら”に見守られながらお参り。
納経所で中国33観音霊場の御朱印を拝受し、山口県最初の33観音霊場…これから山口の旅はまだまだ続く。

中原中也のお墓 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:17:39

再び出雲大社山口分院へ歩いて戻り、御朱印を拝受してから東へ。吉敷川に架かる橋を渡ってすぐの墓地に立ち寄る。
「中原中也のお墓」の矢印看板どおり進むと、墓地の中央に立派な墓石が建ち、中也個人ではなく、中原家のお墓のよう。「累代の墓」の後ろには養祖父母のお墓もあり、どちらも中也の“字”で書かれたものらしい。
ネットによると、養祖父母の政熊さんコマさんはカトリック信者で、中也の字の上には十字架が彫られていて、墓石の側面には「天正十年五月十一日 ペドロ 六十八才」とある。“ペドロ”とはカトリック名のことで、中也のお墓というよりかは代々のお墓という印象が強い。
中原中也のことに関しては後ほど説明する(省くかも…)が、晩年、鎌倉市の寿福寺裏にあった家で過ごされ、享年30歳の若さで亡くなられた天才詩人の波乱万丈?な人生に想いを馳せ、手を合わせる。

土師八幡宮 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:19:05

近くの吉敷郵便局前バス停からコミュニティバスに乗って西光寺バス停で下車。西へ歩いて数分の土師八幡宮へ。前日訪れた熊野神社でいただいた御朱印は全部で8つ。そのうちの4つがここ吉敷周辺に点在していて、よくもこんなに兼務しているもんだと、宮司さんの苦労が垣間見えつつ、拝受したからにはしっかりとお参りしようと、訪れた次第。
「土師(はじ)」というと、陶器にちなんだ神社なのかなぁ~とイメージし、さっそく鳥居を潜り石段を上がる。
土師八幡宮は由緒によると、元々「土師宮」と称していて、天穂日命、乃野宿祢、菅原道真の3柱の御祭神であったのが、この地の領主になった福原広俊という人物が安芸国高田郡福原村にあった内部八幡宮を移して合祀し、他応神天皇、宗像三女神などを含め、土師八幡宮と改めたとのこと。この付近ではごく最近まで陶業が行われていて、山麓には良質な陶土があったことからも、昔から土師を生業に営まれていたのだろう。
そんな“土師”のイメージから、鬱蒼と茂る木々の中の石段参道は、土器などを焼く長い窯であったのだろうかと歩きながら思い、境内にたどり着いた拝殿でお参り。
社殿の左側には大宮神社、右側には宇賀神社が祀られていて、地元に根差した“シンプル神社~”って感じで、古より続く神さまたちにお会いできて感謝×2。
帰りにふと見た狛犬が“車だん吉”似(知ってるかな~)、紙でできた白い蛇、を何とはなしに眺め、「お笑いまんが道場か!」とツッコミを入れてみるのでありました~

赤妻神社 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:20:04

土師八幡宮から東へ住宅街を抜け、ちょっとした坂道、近道っぽい細道を経由し、赤妻神社に15分ほど歩いて到着。ここも熊野神社兼務の社で、近くの小さい公園には黄色いイチョウが出迎え、規模の小さい境内にはモミジが2本見頃を迎えていて、住宅内の一角にあるような、旅人なら通り過ぎてしまうぐらいの神社とはいえない土地に祠がある様相。
赤妻神社の御祭神は錦小路頼徳という人物。創建当初は「安賀郡麻神社」という名称で、一体「誰?」となる。説明看板によると、錦小路頼徳は堂上公家(出家)の唐橋在照の子で、錦小路頼易の養子(…というても誰?となる)。三条実美らの同志公家らを攘夷親征の大和行幸を計画したが、八月十八日の政変で失脚。いわゆる“七卿落ち”といわれる処罰で長州に下ることに。その“七卿”のうちの一人が錦小路頼徳卿であると。
長州に滞在中に、下関視察の際に発病して没し、享年30歳だったという。遺骸は湯田にある龍泉寺に運ばれ、葬儀の後、ここ赤妻の地に葬られた2か月後に神霊を勧請した神社となっている。
境内には没後、王政復古時の官位(正四位)を賜られ、その記念碑がお墓の後ろに建てられている。三条実美らの発起人の名前がずらりと彫られいて、記念碑は地震があれば倒れそうなくらい傾いていて、注意書きがしてあるのも何となく時代を感じる。
それからもう一つ、明治維新に尽力した長州藩士、広沢真臣のお墓もある。明治新政府では民部大輔や参議など歴任して活躍した人物だが、明治3年(1870)に東京麹町の私邸で暗殺され、この事件が警察史上第1号の迷宮事件とされている。犯人は未だ誰なのか分かっていないが、政敵の木戸孝允や反政府の人物などの説が挙げられているが、真相は謎のまま。
広沢氏は萩生まれで、長州藩内では外交官的な存在で、確か…何かの戦争で勝海舟と宮島で休戦交渉を行った人物という記憶しかないが、藩庁が萩から山口に移った際に、現在の山水園(熊野神社右手に位置)に居宅を構えていたそうなので、この地にねむっていらっしゃるのだろう。(ちなみに、こちらにあるお墓は分霊で、東京世田谷の松陰神社に改葬されている)
こんな小さな土地…いや失礼…境内に歴史を動かした人物がいるとはつゆ知らず、しっかりと手を合わせ次へ。

朝倉八幡宮・湯田温泉神社 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:21:25

赤妻神社から坂道を下りて東へ移動。住宅街を進むと、一際大きな敷地の病院が建っている。その敷地内をショートカットして北へ抜け、民家の細い路地を歩き20分ほどで朝倉八幡宮に到着。
ここも熊野神社兼務の神社。隣の大林寺の敷地にある大イチョウが黄色く色づき、その大木を眺めながら鳥居を潜ると、丘の上にあるので何だか清々しい。境内には本殿の他に、湯田温泉神社、四柱神社、稲荷神社があり、山口市指定の天然記念物、「イヌマキ」と呼ばれるマキ科の針葉高木が1本、御神木のように生えている。
拝殿でお参り。朝倉八幡宮は貞観元年(859)、宇佐八幡宮から朝谷村に勧請されたのが始まりで、大内正弘の時代に、今八幡宮に合祀されたが、後にまた元の場所に戻され、大内氏滅亡とともに廃れてしまったのを、江戸時代の享保年間に現在の地に遷して再興したとのこと。先ほどの“七卿落ち”で山口に下向していた三条実美らがこの地に滞在の折、度々、当神社を訪れ、尊王攘夷を祈願したというから、御祭神の応神天皇、神功皇后への神頼みをしていた光景が目に浮かぶ。七卿のうちの四卿が和歌を奉納していて、境内には句碑が建ち、歴史の趣を味わう。
拝殿の左手には四柱神社、右手には湯田温泉神社、稲荷神社が建ち、どちらも立派な社殿。山口滞在期間中、ホテルでの温泉に浸る「あぁ~」という感嘆の声は、改めて、感謝の気持ちが込められているんだと、湯田“恩”泉の白狐に手を合わせるのでありました~

平清水八幡宮 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:22:30

済生会病院前バス停から下湯田バス停で乗り換え、山口大学行のバスに乗り移動。終点は山口大学のキャンパス内にバス停があり、校内から次の目的地、平清水八幡宮へ。
久しぶりのキャンパス内を歩き、校舎やグランド、学生らを見、私の年齢だと、さぞかし、教授レベルのいで立ち?に見られるのだろうか…と妄想し、南へ移動。
キャンパスを出て、信号を待っていると、周辺に建つアパートや小ぶりなマンションはすべて学生たちで埋め尽くされている物件なのだろう、親元を離れ、一人暮らしの生活を始めた頃のことを思い出しながら、大きな灯籠から少し歩いた所にある鳥居に到着。
鳥居からは真っすぐに延びる参道は、南へと続き、鬱蒼と茂る木々の中へと景色が変わり境内へ。社殿は南を背に建っていて、傍らのモミジの木が赤く染まり、そんな中で拝殿でお参り。
平清水八幡宮は大同4年(809)、宇佐八幡宮から勧請されたと伝わる。社名の由来は、境内に“平清水”という名水があり、常に水面が水平で、干ばつにも水量の増減がない不思議な水なんだとか。
…で、その名水はどこに?と探すが、どこにあるのかわからず、諦めてとりあえずお参り。
こちらの神社には社宝として、南北朝時代作の木造の狛犬と随身倚像などがあり、本殿に納められていると案内看板に載っている。土足厳禁の拝殿からちょっとだけ覗くが暗くてよくわからない。が、それよりも、拝殿の鴨居や天井に飾られている奉納絵馬に魅せられてそちらを眺め、源平合戦だろうか、やはり“平”という字に関連してなのか、戦国武将が砂浜と船の上からのにらみ合いの絵馬もある。
八幡宮だけあって、武神の神様らしい絵馬を拝見し、こちらも熊野神社兼務社なので、御朱印は拝受してあり、八幡宮さまに感謝し、次へ。

山口大神宮 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:23:56

山口大学から県庁前バス停へ移動し、山口県庁西側に建つ山口大神宮へ。“神宮”ということは、伊勢神宮関連か?と由緒を見ると、「高嶺太神社」が前身で、永正17年(1520)に大内義興が朝廷公認のもと、伊勢神宮を勧請したことに始まる。
将軍職を追われた足利義稙が周防国に逃れて、大内義興を頼りに、それを義興公が快く迎え入れ、義稙を奉じて上洛。復職させたことや長期に渡って都に留まり、将軍を助けたことなどから、京での体験の中で、地元に伊勢神宮を勧請したい考えが芽生えたと云われている。
“神宮”なので、内宮外宮はもちろん、あの式年遷宮の儀式もあり、明治時代に至るまで唯一ここだけ、分霊を賜れた“神宮”といえるほど。
なので、中国・九州地方の方では“西のお伊勢さん”と親しまれていたそうで、多くの方が参詣に足を運んだという。
さっそく鳥居から失礼し、長い石段を上がり、社務所近くには馬舎が見える。馬といっても木彫りの馬で、2頭参拝者をじっと見守っていて、今八幡宮にも同じ馬舎があったが、同じ方が制作したのだろうかと、神馬にご挨拶。石段の途中には高嶺稲荷神社、“鷺岩”があり、大きな石の上に灯篭が乗っている。前日に訪れた八坂神社での神事「鷺舞」が終わった後に、サギの頭や羽をこの岩の上に置いたので、そういう名称になったらしい。
そんな岩を眺めながら境内にたどり着くと、神楽殿、多賀神社が建ち、さらに右手に折れる参道…モミジが彩を見せ秋らしい雰囲気に、その中に七五三詣での家族連れが2、3組、カメラマンを伴って撮影をしている。そんな時期なのか~と邪魔しないようにさらに奥へと進むと、一際空気が変わる敷地へ。
左側に外宮、右側奥に内宮が祀られ、なるほど…伊勢の雰囲気が漂う。外宮の前には「籾置岩」という平たい大岩があり、岩の上に種子を置き、作物の虫よけや豊作を祈ったと云われ、豊受大神に相応しい(食物の神さまなので…)信仰が息づいている。
内宮の前には「御敷地」という、次回遷宮が行われる敷地が用意されていて、前回は先に建っていたんだと想像する。内宮周りにはイチョウやモミジが見頃を迎え、撮影タイム。
“モノホン”の伊勢神宮と比べると、雰囲気や規模は到底及ばないが、確かに天照大神が坐ることを感じ、両宮にお参り。
境内には先ほどの多賀神社横から高嶺城へ繋がる登山道があるそうで、次のバスの時間も考え、今回は断念。社務所で御朱印を拝受。御朱印帳が埋まってきたので、今まで訪れた神社に聞いてきたが、どこも御朱印帳を売っているところがなく、「どうしたものか…」と後にする。

写真は内宮

木戸神社 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:24:52

県庁前バス停に戻り、児童センター行のバスに乗り、市保健センターバス停で下車。交通量の多い国道9号線の信号を北へ渡り、すぐの木戸公園へ。見頃を迎えたモミジが彩りを放ち、まずは隣の木戸神社へ行く。
鳥居前には、地元の方だろうか、色鮮やかな花を植えた花壇が迎え、こういうちょっとした気配りというか、参拝者を良い気持ちで迎えてくれるおもてなしが嬉しい。
鳥居を潜り、木々が並ぶ真っすぐな参道を進むと、拝殿と小さな本殿が建ち、さっそくお参り。御祭神はもちろん木戸孝允。元々、ここは木戸邸があった場所で、木戸氏は当時の糸木村村民の学資捻出のために所有林の寄附を遺言したとのこと。
明治10年(1877)に没すると、家を継いだ養子の正二郎により、遺言通り土地は提供され、明治19年(1886)に「木戸公恩徳碑」とともに神社が創建されたのが始まり。
本殿側へ向かうと、モミジやイチョウの木が見頃を迎え、木戸さんも喜んでいるにちがいないと、秋の装いに彩られながらぐるりと一周し、拝殿にてお参り。武芸に加えて政治においても“秀”を発揮した木戸は「文武両道の神」として崇められているそうで、地元の人々には慕われる存在なのだろうと、西側の公園へ移動。

木戸公園 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:26:07

木々が生い茂る中に、モミジがあちこち彩りを見せ、撮影タイム。木戸さんの邸宅があったころは散歩でもして、政治の有り様を考えていたのだろうと、想いを馳せ、激動の幕末・明治を駆け抜けた人となりを追う。
長州藩士に生まれた和田小五郎は、少年時代はいたずら好きの悪童だったという。病弱にもかかわらず、舟を転覆させて船頭さんに舵で殴られ、額に三日月の傷がつくほどの怪我をして血を流していても、笑顔でゲラゲラ笑っていたと。
そんな彼が転機となった出来事が、姉と母を立て続けに亡くしたこと。彼は布団の中で出家することを決めてはいたが、書物の中に世界が広がっていることに気づき、学問に目覚め、自分は何者なのか?何のために生きているのか?を考える。桂小五郎となった15歳に元服。この頃は地元、萩の柳生新陰流の道場に通い、剣術に力を注ぎ、21歳の頃、剣術修行で藩の許可を得て江戸へ留学。江戸では三大道場の1つ、練兵館(神道無念流)に入門し、免許皆伝を得るまでに成長。大村藩などの江戸藩邸に招かれ、剣術指南をするほどの剣豪として天下に轟かせるまでに。当時の近藤勇からも「恐ろしいほどに手も足も出なかった」とか。土佐藩開催の剣術大会では坂本龍馬と対戦し、2対3で小五郎が勝利した史料も残されているほど。
そんな中で時代はペリー来航により、小五郎の好奇心は兵学や砲術へと舵を切り、大村益次郎との出会い…その後の展開は省略するが、明治維新まで時代の波に飲まれていきながら、この当時の人々は小五郎を含め、ある意味、新鮮で活気があった世の中であったのだろうと。
そんな木戸さんの人生を追いながら、公園のちょっとした池の鯉も、夕暮れの薄暗い雰囲気に飲まれ、ノスタルジーに観賞し紅葉狩りを楽しみ、小川の横には旧邸宅跡のレンガ造りの建物が建っていて、そちらへ移動。今はその土地に住んでいる所有者がいて、中には入れないが、建物の外観はどこか、当時を思わせるような造りに見え、じーっと見ているのは忍びないので、早々に立ち去り、今日はここまで~


つづく…

また2、山口の旅(1) - モリゾーのひとり言

2025/12/24 (Wed) 10:41:44

お久しぶりです。今年の紅葉の旅は、去年に引き続き山口県。前から言っているが、中国33観音霊場を制覇すべく、中国地方の旅を年1回はするようにしている。今回も素晴らしい寺社巡りを体験し、まだまだ巡っていない場所があるなぁ~と実感しつつ、今年もあっという間の12月。
今年もヘタクソな文章を読んで下さり、ありがとうございました~
また来年もヘタクソな文章で載っけますので、よろしくお願い致します~

熊野神社 - モリゾーのひとり言

2025/12/24 (Wed) 10:43:20

今回は、山口市中心部にある湯田温泉界隈の寺社を散策する。新幹線で新山口駅へ向かい、JR山口線に乗り換え、湯田温泉駅の改札を出ると、温泉街というイメージはなく、普通の田舎の駅といった印象で、駅前はホテルがない。ただ、巨大な“白狐の像”が出迎えていて、ひっそりとしている中、北へ700mほど歩いた所に温泉街があり、まずは4泊5日お世話になるホテルに荷物を預ける。
さっそく、ホテルから900mほど離れた熊野神社へ移動。ネットの情報によると、7つほどの兼務している神社があり、その御朱印を全て拝受できるとのことで、もちろん全部お参りする予定だが、こちらに湯田温泉発祥の稲荷神社があるということで訪れる。
NTT山口局前バス停から北へ数分、鳥居から長い石段が見え、途中には見頃のモミジが赤く染まっている。「秋~」といった雰囲気を愛でながら石段を上がり、拝殿に到着。
熊野神社は名称の通り、紀伊国の熊野本宮大社から御霊を、権現山山頂に勧請し、大内氏24代目当主の大内弘世が社殿を建立したことに始まる。背後の権現山は「白狐伝説」の地で、3本足の年老いた霊狐が住んでいたらしい山で、30代目大内義興の時代に村のお寺にあった小さな池に毎晩、傷つけた足を浸けに白狐が現れていたそうな。それを見て和尚が温かいお湯であることを発見、さらに深く掘ると、大量の湯がこんこんと湧き出て、薬師如来の金像も発見されたことから、湯田温泉発祥の由縁として熊野神社の境内に白狐稲荷神社が祀られている。
「あれっ…」熊野権現って、3本足のカラスじゃなかったっけ…という疑問は伝説なので無視して、その後、大内氏が滅亡すると、管理されずに荒廃が続き、長州藩6代藩士の毛利索弘が再興したと伝えられている。
「それで駅前に大きな白狐のオブジェがあったのか…」と、振り返りながら拝殿でお参り。
拝殿の柱には「参拝鈴」という看板があり、「青い丸印に手をかざして下さい」とある。案内通りかざしてみると、テープで鈴の音が鳴り、よく見れば“鈴”が天上からぶら下がってないことに気づき、「なるほど…」と、よく考えられていて感心×2。
境内を散策し、口を大きく開けた狛犬に挨拶し、本殿右手側の御中主神社にも手を合わせ、石段横の道を下って行くと、白狐稲荷神社がある。小さな祠の前に白狐の置物が数多置いてあり、お神酒も備えてある。やはり、湯田温泉発祥の神社だけあって、ここでもしっかりとお参りし、社務所兼自宅が少し離れた所にあるので、そちらへ伺い御朱印を拝受。兼務している神社の地図もいただき、お礼を述べ次へ。

今八幡宮 - モリゾーのひとり言

2025/12/24 (Wed) 10:44:12

山口市内のバスはJRバスと防長バスが利用でき、どちらもICカードで乗車できる。事前に路線図や時刻表をコピーしたものを用意し、NTT山口局前バス停から自衛隊前バス停へ移動し、すぐ目の前の三叉路に建つ鳥居から失礼する。
小雨が降ったり止んだりする天候の中、次に向かう今八幡宮は、大内氏の居館があった場所から北東の位置に当たることから鬼門除けの宮としての守護を担い、創建時代は不明であるが、鎌倉時代の弘安年間、大内弘成の娘に「今八幡殿」という名が見えることから、これ以前よりもあった古社であることは間違いないみたい。
長い石段を上がり、たどり着いた境内にはそこそこ広く、翼廊のある楼門と拝殿がくっついた囲いの向拝が珍しく、床板を敷く「楼拝殿造り」と呼ばれるらしい。そんな特異な拝殿でさっそくお参り。
賽銭箱には、くまモンやハトみくじの人形が参拝客を見守っていて、振り返れば背の高いモミジが赤く染まり、ユーモラスな顔の狛犬も喜んでいる様。
境内を散策。拝殿右手には木造の神馬や、えびす神社、稲荷神社、奥には八柱神社が祀られていて、八柱神社は八ケ町内それぞれ鎮座されていた摂社末社を合祀した神社で、8つの内の春日神社の社殿を現在の地に移設したものだとか。
本殿横の橙の木を愛でながら、社務所で御朱印を拝受。兼務している八坂神社、築山神社も頂き、後でそちらもお参りに行くことを約束し、八幡さまにお礼申し上げるのでありました~

野田神社・豊榮神社 - モリゾーのひとり言

2025/12/24 (Wed) 10:45:21

今八幡宮境内からそのまま北の駐車場へ向かうと、生い茂る木々の中に西日が光挿すモミジが輝いて見える。導かれるようにモミジを追うと、そこはもう野田神社・豊榮神社の境内地となっていて、ここには山口県の神社庁の建物まである。
鬱蒼と茂る木々の中なので、辺りは薄暗い雰囲気。参道を道なりに進むと、一段高い敷地にたどり着き、横に同じ社殿が並んで建っている。左側が野田神社、右側が豊榮神社で、モミジの美しい光景が目に飛び込んでくる。
撮影の前にまずはしっかりとお参り。野田神社の御祭神は毛利敬親(たかちか)公と、その養子である元徳(もとのり)。ちなみに、元徳は初代山口藩知事。元々は、敬親の諡号(しごう:貴人の死後に奉る名)から「忠正」とし、忠正神社と称していたが、明治時代に入り、当地名の“野田”に改称される。
毛利敬親は長州藩13代藩主。激動の幕末期に藩財政を立て直し、幕府からの圧力にも屈せず、明治維新を成し遂げた最大の功労者の一人。敬親は、家臣の意見に対してほとんど異議を唱えることなく、常に「うん、そうせい」と答えていたため、「そうせい侯」と呼ばれていて、ちょっと頼りないかなぁ~と思う反面、人材を見抜く力、柔軟性を持った考え方、状況を正しく分析して判断する力など、極めて聡明な藩主だったと言われている。
一方、豊榮神社の御祭神は毛利元就公。孫の輝元が創建したとのことで、毛利氏については“3本の矢”などで有名なので、ここでは省くが、どちらの御祭神も当地の方々にしたら、安芸・長州を統治した毛利家…当然、地元の人々の崇敬が垣間見える。
…で、豊榮神社側にあるモミジの美しいこと。灯籠や「百万一心」と彫られた石碑、地面に生えた苔に落葉…と撮影に夢中になり、中々その場から離れられない。美しい光景に出会うことができて、毛利さんに感謝を伝え、御朱印はいずれ訪れる古熊神社でいただけるので、限をつけ後にする。

八坂神社・築山神社 - モリゾーのひとり言

2025/12/24 (Wed) 10:46:21

鳥居を辞去し、駐車場にはやけに車が止まっているなぁ~と思っていたら、少し西へ進むと学校がある。帰りの送り迎えに親御さんたちが来ていたのかと納得し、学生らの下校時間と重なる。信号交差点近くには「野田学園」という中高一貫校だろうか、幼稚園まである、かなり大きな学校らしい。そんな学生の集団に交じりながら、次の目的地の八坂・築山神社へ向かうが、北側から細い路地を入った方が近く、正式参拝の鳥居を潜らずに境内へ失礼する。
敷地はかなり広い。中央にイチョウの大木がすっくと生え、落葉の“黄色じゅうたん”が目に付く。社殿の配置は北側を背に、西に築山神社、東に八坂神社が建ち、どちらも似たような社殿の造りになっていて、その神社の間には市川元教のお墓が祀られていて、「誰?」となる。
ネットによると、市川元教は市川経時の嫡子で、毛利家への反乱を企てた人物とある。毛利家の家臣である経時は、事前に元教の計画を知り、密命によって自分の息子であるにもかかわらず殺害。毛利家への忠臣を示すためにそんな選択をしたのだろう。元教の謀反の理由は未だに分かっていないとなっている。当時、豊後国の大友義鎮(宗麟)と毛利家が争っている背景があり、元教は大友氏から唆されたのだろう、それにしても、息子を殺害する決断は、父経時にとって、苦渋の決断だったに違いない。まぁ~、戦国の世なら“致し方なし”といった時代背景で、しっかりとお墓に手を合わせる。
その市川小輔七朗元教も合祀されている築山神社。当社は元々「宝現霊社」という名称で、毛利輝元が多賀神社(現在は山口大神宮の境内にある:後に訪れる)の宮司、高橋彦延に建立させたのが始まり。この土地はかつて、大内氏の居館があった場所で、「築山館跡」とも呼ばれ、大内義隆、息子の義尊をはじめ、家臣らの政変で命を落とした人たちの霊を慰めるために合祀された社。本殿裏手にはこんもりとした土塁の跡も見られる。本殿は元、興隆寺にあった水上山東照宮の社殿を移築したものなので、徳川家康も合祀されていて、ちょっと「?」が浮かぶ。
そして八坂神社。元は「祇園社」と称し、大内弘世が京都祇園社より勧請したと伝えられている。明治の時代まであちこちに鎮座地が移動していて、現在の山口大神宮の境内にもあったという。7月には例祭として「鷺舞」が行われることで有名。私は京都の祇園祭りの時、八坂神社でその「鷺舞」を見たことがある。境内で子供たちが鷺に扮して、大勢の観客の中で舞を披露する姿に感動したことを今でも覚えている。それはユーモラスというか一見、ギャグなのか?と思ってしまったが、踊りをずっと見ていると不思議と、神聖な気持ちに変わっていったような…面白い経験をさせていただいた。
大内氏が京都の風習を山口に持ってきたことで、今も受け継がれている伝統に歴史を見、両神社ともにお参りし、南西角の大鳥居から一礼し、失礼するのでありました~

香山公園 - モリゾーのひとり言

2025/12/24 (Wed) 10:47:17

近くにある八坂神社前バス停の時刻表を見ると、香山公園五重塔前バス停へ行く路線は、1時間に1本なので待たなければならない。グーグル地図で距離を調べると、歩いて20分ほどなので、歩いて行くことに。
次に向かう香山公園は瑠璃光寺というお寺と一体になっている公園。バス停の名称の通り、公園の一角には五重塔が建っている。毎晩、この公園ではライトアップが行われていて、この秋の時期にはさらにモミジが彩を見せるのだろうと、この時間を狙って訪れた次第。
山口県庁東側の坂道を上がり、いずれ訪れる洞春寺を通り過ぎ、公園内へ移動。駐車場から北側には、萩藩主の毛利家の墓所があり、山口で亡くなられた毛利敬親公以降の一族が眠っていて、“うぐいす張の石畳”と呼ばれる、手を叩くと音が反響して響く敷地で、参拝客がこの日も音を確かめるように鳴らしている。
そこから東側には、回遊式庭園が広がり、五重塔が“仏像”のように聳えていて、開放感ある広場となっている。香山公園は今から600年くらい前の大内氏の時代にあった香積寺の跡地で、香積寺は大内義弘の菩提寺。弟の盛見が兄の義弘の菩提を弔うために五重塔を建立したことに始まる。寺院は萩へ遷ったが、五重塔だけは残り、後の跡地に瑠璃光寺が引っ越してきて現在に至っている。
瑠璃光寺の拝観時間はもう終わっているので、また訪れるとして、公園内を散策。大内弘世公の銅像、薩長がこの建物で話し合ったとされる「枕流亭(ちんりゅうてい)」などを見、モミジとのコラボ写真を撮影しまくる。
ライトアップの時間は日没ということなので、西の空を見るとまだ明るく、しばらくは東屋で待つ。さすがに11月下旬ともなると、段々と暗くなる雰囲気も相まって、動いていないと寒さが身に染みてきて、マフラーを首にあてがう。
ギャラリーもそこそこに集まり出し、いよいよライトアップが始まると、主人公の五重塔にスポットライトが当たり、夜の公園にも風情が灯る。バスの時間まで堪能し、初日から全開で楽しむのでした~

つづく…

また6、長野の旅(2) - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:36:01

大阪万博も残り1カ月を切り、あっという間の会期。私の中では、未だ見れていないパビリオンが2つほどあり、人気の「住友館」と「大阪ヘルスケア」のパビリオン、しかも予約必須なので、10月に行く予定だが、果たして入れるだろうか…
そこそこの体験をして、満足の万博だが、ちょっと不満も残る(ウェブ上でのシステムや運営側の対応)万博で、振り回された感も否めない。まぁ~、万博とは別で大阪を訪れた機会に、あちこちの神社も訪れていたので、お礼参りではないが、久しぶりの大阪も堪能でき、またこれからの秋の紅葉シーズン、どこへ行こうかと迷う今日この頃。
…ということで、もう秋なのに、春の長野の旅を引き続き紹介~

安養寺 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:37:38

3日目は松本市内を散策。松本市は第2の故郷みたいな街。というのも、若い頃、1年ほど住み暮らした街で、それなりに土地勘があるが、当時は寺社をめぐることなど興味もなかった年頃だったので、改めて今、訪れた次第。
駅前の様子は大分変わってしまったが、放射状に延びる道路はそのまま変わらず、懐かしさを憶える。駅前のホテルで一泊し、早朝、松本電鉄に乗って三溝駅へ移動。三溝駅に到着し、時刻は朝7:10。無人の駅から北西方向に目を向けると、しだれ桜がすごいことに。
すでに駐車場には数台の車が止まっていて、アマカメが撮影に来ているのだろう、さっそく向かう。境内全体を覆うほどの桜が、しかもどの桜も大木なので、ボリュームが桁違い。
「松本市 桜」で検索し、当寺を知った次第だが、ネットの写真を見るよりも実際に見るとは違うとはまさにこのことで、こんなにすごいとは驚。
山門から失礼し、境内を散策。樹齢500年ぐらいの大木が2本あるという情報だが、どれも大きいので分からない。とにかく、どれだけのしだれ桜なんだ!というぐらいに、高い位置から枝が垂れ下がっていて圧巻。道なりに進むと、本堂が現れ、堂内に入りお参り。
安養寺は昔、梓寺と呼ばれ、安曇の大野川地区に真言の精舎として存在していたらしい。それがいつしか親鸞上人が信濃国の巡行の際に、この寺に泊まり、弟子の西念坊道裕に伝え、教化し、松本盆地における有名な浄土真宗の道場として広がりを見せたそうな。それ以降、宝暦3年(755)に現在地に移転し、現在に至るとなっていて、本堂は昭和の火災により再建されたものであるとのこと。
そして、境内にあるしだれ桜は樹齢からして室町時代から植えられたので、それ以降、ず~っと桜の名所として有名だったのかもしれない。
駐車場側に廻ると、池なのか大きな水たまりがあり、その水面に映えるしだれ桜、遠くの南アルプスの山並の背景としだれ桜、ちょっとしたスイセンの花としだれ桜…と、見頃のこの時期に訪れて良かった~と、限をつけ次へ。

岩崎神社 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:49:06

松本電鉄、三溝駅から新村駅へ移動。大学生が途中下車していくワンマン電車は、都会の朝のラッシュ時とはいえない、長閑な雰囲気のまま、駅から北へ20分ほど歩いていく。
今日は風が強く、建物のない田畑が広がる中を歩くので、風がもろに行き手を阻み、かなり肌寒い。そんな中で東に目を向ければ、グランドでサッカーの練習をしている高校生?が元気に動き回っていて、それを見て、こちらも気合が入り、ようやく岩崎神社に到着。
ネットによると、岩崎神社は仁寿3年(853)に諏訪大社の御祭神を勧請したと伝えられ、伝説によると、梓川村岩国の火打岩明神の鎮座する岩頭が、岩崎明神が鎮座する岩頭と地底で1つになり、本殿下には「岩の崎」があるとのこと。それが社名の由来となっているそうで、「川狩り神事」と呼ばれる川魚を採って神に捧げる例祭があるらしい。
地図を見ると、確かに北側の梓川を挟んで西に2kmほど離れた所に岩岡神社があり、火打岩が鎮座してある。明治期の川の氾濫や洪水によって土砂が流れ出し、いまでは土に埋まった状態だが、かつては、10数mの高さの火打岩がむき出しになっていたので、相当背の高い大岩であったことが想像できる。
川狩り神事は、御祭神の建御名方神に捧げる神事で、諏訪の御頭祭と同じように神輿渡御を行い、川魚を供えるといった感じだろうか、こちらも想像がつく。
そんな建御名方神を祀る岩崎神社鳥居から桜を愛でながら失礼し、境内はそこそこに広い。西を背に建つ拝殿でお参りし、拝所にはいろんな種類の書置きの御朱印があり、月替わりや版画など、最近は芸術作品として捉える見方もあり、神社経営も大変だぁ~とつくづく思ってしまう。社務所は閉まっているので、書置きの御朱印を拝受し、ぐるりと社殿を一周し、そういえば、4本の御柱がないことに気づき、“本家”にしかないのだろうか?と、境内の雰囲気を味わいつつ建御名方神に問いかけるのでありました~

沙田神社 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:50:16

新村駅まで戻り、次は大庭駅へ移動。駅から南へ20分ほど歩いた所にある沙田神社に到着。事前に神社関係者の方と連絡を取り、10:00に待ち合わせをしていたのだが、予定より1時間も早く到着してしまい、とりあえず境内に失礼し、拝殿でお参り。
境内はかなり広い敷地を有していて、正式参拝をするための参道は東側にあり、私が潜った鳥居は西側から入ったことになるので、改めて東鳥居からの“入社”をする。
参道はかなり立派な石灯籠や木々が並び、さすが信濃国三ノ宮の位だけはあると、歩を進める度に清々しい。朱色の屋根付き鳥居を潜り、正面には舞殿、拝殿、本殿と並び、4角には御柱が建っていて、御祭神が建御名方神だということが分かる。
沙田(いさごた)神社はネットによると、古くは筑摩郡鷺沢嶽(現・松本市波田鷺沢)に鎮座していて、大化5年(649)、信濃国司が勅命を奉じ、初めて勧請されたとのこと。その後、坂上田村麻呂が有明山の妖賊討伐に当たっての本社の神力が効したとして、国司と共に社殿を造営したと伝わる。その鷺沢の旧跡地には奥社が建っていて、“三ノ宮”→“産ノ宮”ということで、安産の御利益があるそうな。また、現・当社の地は、梓川の水を引き入れた古代条理的遺構の上にあって、土器や石器が見つかっているというから、昔からここで生活の営みがあったことが窺える。
そんな神位の高い当社を散策。拝殿の唐破風屋根の下には、桧と鷹?トンビ?の鳥の彫刻が施されていて、しばらく見入り、本殿左手から宝剣を模った石造、本殿裏手には「物臭太郎の碑」がある。物臭太郎の碑には説明看板があり、「御伽草子」の話で出てくる物臭太郎ゆかりの地がこの周辺(「あたらしの郷」というらしい)であるとのこと。
地図を見ると、ここから西へ約3kmの所、松本大学の南側に位置している。物臭太郎の物語は簡単にいえば、毎日ゴロゴロ過ごすような太郎が京に出て、勤勉に励み、いつしか嫁を娶り、立身出世したという、怠け者でも真面目に働きさえすれば成功するよ…という教訓を推している。
「へぇ~」と、松本にそんな場所があったとは、この神社を訪れるまで知らなかった…と知識を得る。
そして、本殿右手には昔あったとされる「御手洗の池」、境内社、招魂碑など、境内にはあちこちに大木といえる木々が生えていて、敷地の隣には幼稚園?もあり、園児の元気な声が聞こえていて、そんな中で時間を潰していると、社務所に人が入っていく姿を見かけたので、訪問。
氏子さんにご挨拶し、早く訪れてしまった事情を説明し、御朱印を拝受。お話をしていると、どうも、先ほど訪れた岩崎神社が当社を兼務しているそうで、「え~」と驚き、「そうなんですか…」と。最近は兼務している神社が多く、7、8社と抱えている宮司さんは、正月の神事は掛け持ちで移動し、大変な思いをしているドキュメンタリーを見たことがあるが、そんだけ神社も後継者不足や経営難で衰えていく世の中なのだろうと。
当地の祭りや諏訪に纏わる情報をいろいろと教えていただき、感謝×2で、この場を借りてその節はありがとうございました~

兎川霊瑞寺 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:51:19

松本駅に戻り、駅近くのマクドで昼食後、駅前バス停から里山辺方面のバスに乗って20分ほど、里山辺出張所前バス停で下車し、すぐの兎川寺へ。この地域は、松本駅から東に4kmほど離れた里山辺という場所。駐車場付近の桜が見頃を迎える中、さっそく境内に失礼すると、境内にあるしだれ桜はもう枝だけになっていて、早咲きであることを知り、ちょっと残念。まずは松本城主であった石川数正夫妻のお墓があるので手を合わせる。
家康の家臣であった数正は、秀吉に寝返るという裏切りが今までの定説のようだが、どうやら家康が差し向けたスパイであるとする説もあるようで、NHK大河ドラマ「どうする家康」では“良い人”で描かれていた。そんな数正は、冷静で頭脳明晰の持ち主であった?というから、戦国の世を渡り歩くことができたのだろう。
本堂でお参り。堂内に入ることは叶わず、何にしても本尊は秘仏、千手千眼観世音菩薩なので、お目に掛けることはできない。ちなみに、お前立に千手観音、脇侍に毘沙門天と不動明王が安置され、パンフレットでそのお姿を見る。内陣にも「天女の欄間」が描かれているらしく、荘厳な雰囲気を醸し出しているのを想像する。
当寺の縁起を見ると、聖徳太子によって創建されたと伝わり、中世において、天台宗、真言宗を合わせた24坊なる大伽藍であったとのこと。鎌倉時代末期になると、北条氏の反逆に対し、全国の天台僧徒が比叡山に集まり、当寺の天台僧徒もこれに従い、この出来事により、一人も帰ることなく、天台12坊は廃墟と化し、以来、真言宗のみで法灯を守ることになったという。
さらに、戦国時代に入ると、武田信玄が小笠原長時公の居城、林城(南東へ2kmほどの所)を攻め、小笠原氏の祈願所となっていた当寺が暴徒によって仏像などの寺宝が持ち去られるひどい憂き目に遭うなど、荒廃、復興の繰り返しをしてきたと。そんな試練を乗り越え、檀信徒の篤い信仰心によって、保ち続けてきたといっても過言ではないほどの、努力があって、今に至っているのだろうと見る。
そんな歴史ある当寺の御朱印を拝受し、次へ。

伊和神社 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:52:34

兎川寺から惣社という交差点まで、西へ向かって歩く。交差点近くにある伊和神社に到着すると、鳥居前には、御神木ともいえる大きな枯損された株が2つ、柵に囲われて“鎮座”していて、存在感がある。
境内に失礼すると、ケヤキの木が大小さまざまに生えており、それを眺めながらまずは拝殿でお参り。
伊和神社の創建は明らかではないが、元禄や享保の文書には、「惣社宮六社大明神」と記述があり、安永2年(1772)に本殿が再建され、その時に「伊和大明神」になったとされる。この地域は古くから「惣社(そうざ)」と云われ、いわゆる「総社」、平安時代に国司の巡礼を省くために国府の近くに1ヶ所にまとめた「総社」である。信濃国では奈良時代まで国府は上田市にあり(国分寺は有名)、平安時代になると、松本平に移り、国の中心がここ、惣社であったとされている。
「惣社」から「伊和」に改称された理由は、いろいろ説があるようだが、最初、「伊和」=「岩」「違和感の違和」を連想したが、案内看板には、国府には他に国の印と正倉の鍵を祀る印鑰社(いんやくしゃ)があり、いつしか「印」を「伊」、「鑰」が「輪」に書き間違えられて、後に伊和神社になったとされている。
拝殿の左手には蚕影神社が祀られていて、養蚕が盛んな頃に繭の増産を祈り、地元の農家が建てたと案内看板があり、この地域は“蚕産業”の地産であったことが窺える。そんな昔の暮らしぶりを想像しながら境内を散策し、拝所には御朱印について、宮司さんの電話番号が書いてあるので連絡してみると、自宅は○○市で、住所と言えば書置きの御朱印を送って下さるとのこと。松本市内の筑摩神社(かつてお祈りした神社)も兼務しているということで、当社とお願いし(無事に届きました。ありがとうございます。)、かつては信濃国の中心地であった惣社を訪れ、悠久の地に想いを馳せるのでありました~

岡宮神社 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:53:25

惣社バス停から桜橋バス停で乗り換え、横田信大線の路線で横田バス停へ移動。いらっしゃるかどうか連絡してみると、神社に到着したらもう一度、電話して下さいとのことなので、バス停から西へ女鳥羽川に架かる橋を渡り、住宅街を歩く。
ここは「北深志」という地域。松本城から北東に位置する城下町で、“北東”という方角といえば「鬼門守護」の役割を担う神社やお寺があるのは当然で、その1つが岡宮神社。御祭神は建御名方神で、江戸時代から歴代城主の崇敬篤く、祭礼や改築などの寄進が多数あったとのこと。
そんな松本城守護の神社の鳥居前に到着し、宮司さんに再び電話連絡。社務所へ案内下さり、御朱印を書いて下さる間、境内を散策。まずは拝殿へと広い境内の参道をまっすぐ歩き、神門?からさらに先の敷地へと入り、拝殿でお参り。
玉垣の中は、左右に熊野神社と正八幡宮を配祀し、景観が整っている。境内にはケヤキの木があちこちに生えていて、いくつも瘤の付いた木々が“バンザイ”しているような枝ぶりで、みんなで悪霊を入ってこないように守っているかのように見える。ちゃっとグロテスク?に見える木々とは逆に、狛犬が何ともお茶目な風体で、かわいらしい。境内社もいろいろ、事代主社、愛染殿、稲荷、龍神、御嶽などなど祀られていて、社地はかなり広く清々しい。
社務所で御朱印を拝受し、宮司さんと少し談笑。松本城が桜の見頃だという情報を得、時間があったら行ってみますと、お礼を述べ、感謝申し上げるのでありました~

大安楽寺(1) - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:54:16

岡宮神社から南へ。神社に向かう時からすでに、南に見えていた建物が気になっていたが、自然とその建物に誘われるように到着した大安楽寺というお寺。参道脇にはお墓が並び、正面に仁王門、その奥の境内には本堂の屋根の上に、五重塔の上層部が一段乗っかってる感じで目立っている。仁王門を潜ると、右手には永代供養の五輪塔が地蔵菩薩と聖観音?の石像を従え建っていて、左手には弘法大師の石像がお出迎え。
本堂の唐破風屋根の下の柱などには龍などの彫刻が施され、その芸術作品にしばらく見入る。
岡宮神社同様、松本城の鬼門方角にあたることから、除守護の霊刹として建てられたお寺であるが、当寺の歴史を見ると、元々は一条修理太夫という方が延長2年(914)に安楽寺として建立したのが始まりらしい。永正元年(1504)に松本城築城に際し、七堂伽藍を再建し、元和元年(1617)に現在の地に移され、敵の侵攻に備え、“寺城”としての堅固な造りになり、歴代城主の祈願所として、城下と共に栄えてきたと。
明治に入り、廃仏毀釈を受け、本尊以下の仏像は宝栄寺(岡宮神社西)に難を逃れたものの、全伽藍を焼失、観音堂建立をきっかけに再建復興を遂げ、天正11年(1583)に大安楽寺と改称し、多くの信者に支えられて今日に至るとある。

大安楽寺(2) - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:55:17

納経所でピンポンすると、住職さんが見え、本堂内に案内して下さり堂内へ移動。平成21年(2009)に新築された本堂なので、古めかしい内装ではなく、それなりに整った感じの中、再度本尊の大日如来さまにお参り。住職さんが当寺の歴史を話して下さり、堂内に安置されている仏像群も説明。当寺には秘仏の十一面千手観音像があり、住職でさえ扉を開いたことがないのを、昭和24年(1949)に仁王門移築に伴い御開帳されたらしく、それ以来、60年ほど本堂新築落慶法要に合わせ再び御開帳されたと。
まぁ~、しばらくはお目にかかることはないだろうと思いながら、愛染明王や不動明王、平成4年(1992)にネパールから迎えた五如来など、個性ある仏像を拝観。
そして、本堂内左手の床には、大きすぎる草鞋が敷いてあり、「ギネス更新中」とある。住職さん曰く、原形の藁から綱へと束ね、草鞋へと編み込んでいったと。最初の行程から、つまりゼロから始めたというのがすごく、参拝に来られた方には“大草鞋”に乗ってもらいたいという住職さんの願いもあるようだ。昔、信者さんが、仁王さまが裸足で立っているのを見て、かわいそうだと草鞋を編んで奉納したのが由来であるそうで、この大草鞋に乗ることで、1年間、健康・無病息災、厄除けの御利益があると語り伝えられ、多くの方に乗ってもらうよう年々、大きくしていったそうな。これ以上大きくすると、本堂に置けなくなるので、「ここまでかな…」と住職さんは語っていたが、それにしても、“大草鞋”を履けるのは、“でいたらぼっち”ぐらいしか履けないだろうと想像しつつ、御利益と御朱印を授かり、感謝申し上げるのでありました~

深志神社 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:57:10

横田バス停から市民芸術館前バス停へ移動。あがたの森通りから1本南へ入ると、車の喧騒がなくなり、神社の雰囲気漂う社殿が見えてくる。北参道から入り、拝殿の横にたどり着いたので、正面の西参道からの正式なお参りの仕方ではないが、さっそくお参り。
神楽殿や拝殿が建つ社域は懐かしく、深志神社は2回目の訪れ。松本市では筑摩神社、四柱神社と並び?有名な社である。松本城から見て南東の位置にある当社は、昔、松本城が深志城だった頃の、まだ築城されてもいない以前は、社殿が南面に向いていたらしい。信濃国守護の小笠原真宗公が暦応2年(1339)に諏訪大社より御分霊を受けて、御祭神を建御名方神として創建され、この地の宮村大明神として称えたと。そして、応永9年(1402)に小笠原長基公が京都の北野天満宮より勧請し(省略)、宮村宮と天満宮、両社を重修して、松本南城下町一円の総氏神として祀られ、今日に至っている。
そんな崇敬を集めている当社の境内を散策し、前回訪れた時にお参りをしていなかった南参道付近にある楠公神社や金山神社、愛染神社など多くの摂社を参拝。ちょっとした神苑付近には金色に輝く菅原道真公像が安置され、神社を見守っている。菅公が初めて詩を詠んだ場面を表していて、平成28年(2016)に建立とあるので、まだ新しくピカピカ。ここはパワースポット的な場所なのだろうか、若い娘が写真に収めている。
社務所へ行き、今回は、境内社の富士浅間神社の御朱印を拝受。富士浅間神社は西鳥居付近に鎮座していて、元は、先ほど訪れた里山辺林山の麓にあったらしく、それを天文年間(1532~55)に現在の地に遷宮したと伝わる。この松本の地でも富士山信仰が受け継がれていると思うと、山に囲まれた松本でもやはり、富士山にはあこがれ?の山であるのだろうか…雪が残るあの美しい稜線を思い描くのでありました~

松本城(1) - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:57:58

深志神社西鳥居から天神通りを抜け、本町通りに出てきつつ、松本市博物館バス停から松本市役所バス停へ移動。時間が余ったので、松本城東堀からぐるりと一周する感じで花見を楽しむ。
松本城はそこそこ来ているが、一番の思い出は、城内で各ブースで競い合う“蕎麦フェスタ”の催しに参加し、食したこと。あれは肌寒い季節の頃で、鼻水を垂らしながら冷たい蕎麦をすすった記憶がよみがえる。
そんな思い出の松本城はどこから切り取っても絵になる天守が圧倒的に美しい。もはや仏像のよう?に見え、それは御神像ならぬ“御神城”と云うに相応しい?出立ち。観光客は思い思いに写真を撮り、特に外国人観光客の率が多い中、水面に映える天守は今日も堂々と、輝いている。

松本城(2) - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 11:13:11

簡単にいえば、松本城は永正元年(1504)に築かれた深志城が元で、天正10年(1582)に小笠原直慶が改名。深志城を拠点としていた武田氏の32年間の統治から織田信長が武田氏を滅ぼすと、木曽氏、小笠原氏と城主が変わり、家康配下から秀吉配下に移った石川数正が入封し、城郭の整備や城下町の拡充に着手。その後の城主遍歴は省略するが、現存する天守は戦下の空襲や火災を免れ、国宝に指定されるほどの、今では美しい景観が特徴的なお城である。
そんな松本城をぐるりとめぐり、お堀周りに咲く桜が美しく、小鳥がさえずる。明治時代には消滅の危機があって、市民の力で救われたということからも、地元の支えなくして松本城は存在しえなかったかもしれないと思うと、感謝×2と、しばらく桜とお城のコラボを愛でるのでありました~

また6、長野の旅(1) - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:26:29

暑い日が続く昨今、8月に「大阪メトロ中央線が運転見合わせで万博会場に足止め」のニュースを見、やっぱり予期していたことが起こったと嘆く。災害時での対応が遅く、自販機は売り切れ(後に補充されようだが…)、備蓄されていた水が配られたのは午前4時というから、協会は何をしていたのかと。7月までは通期パスでちょこちょこ万博へ出掛けていて、8月は暑いので行かないことを決めていてよかった~と思いながら、もし自分に降りかかったならと考えるとゾっとする。熱中症や災害のリスクを考えてしばらくは控えるが、会期中、楽しい万博であったといえるよう気を引き締めてもらいたい。
さて、毎度の事、大分遅れまして、4月に訪れた長野県の旅を紹介~

手長神社 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:27:30

諏訪へ行くには特急しなのでJR塩尻駅で中央本線に乗り換え、“普通”でJR上諏訪駅への道程。久しぶりに訪れた諏訪市は、「御柱祭」を観覧した記憶が鮮明にあり、長野県内の中でもちょっと、独特な“市”のイメージが印象強い。
今回のメインは、諏訪大社の祭事「御頭祭」であるが、まずは、JR上諏訪駅から北に位置する手長神社へ向かう。10年以上前に訪れた時、宮司さんから、ひょんなことから“梶の葉”をいただいた経緯で、今も大事にその“梶の葉”を保管しているが、そんな出会いが印象的だった手長神社に再訪し、お礼参りをしたいと訪れた次第。
鳥居から坂道が続く参道石段を上がり、近くの学校の校庭を見ながら、第二の鳥居にたどり着くと、横に長い境内、大木が取り囲む社地へと失礼し、一気に空気感が違う雰囲気を味わう。
手長神社の御祭神は、手摩乳命(てなずちのみこと)。古事記の八岐大蛇伝説で登場する神様で、稲田姫命を、妻の足摩乳命(あしなずちのみこと)と共に育てた話は、奥出雲の旅で訪れた稲田神社を思い出すが、そういえば、信州はそばが有名。稲田神社の社務所で、そば屋を営んでいたことは、何かのつながりがあるのだろうか…と、よだれが出てしまう。
手長神社は、鎌倉時代の文書には「下桑原鎮守」の表記があり、諏訪大社上社の末社として造営され、天正19年(1591)に現在の地から南へ、高島城が築かれると、神社の鬼門に当たるところから、歴代の高島藩主諏訪家から崇敬されたとの歴史がある。
境内には拝・本殿の他に、旧本殿であった弥栄神社、御頭御社宮司社、神楽殿などが建ち、石祠、祝神など町内の昔からあった祠が祀られていて、“鎮守の森”に守られている。
それぞれにお参りし、社務所へ伺うと、本日は宮司さん不在のようで、新たに増えた弥栄神社の御朱印を拝受し、手長の神様に感謝を伝えるのでありました~

高島城跡 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:28:43

地元のコミュニティバス“かりんちゃん”で、駅前から高島城跡バス停へ移動。お城といえば桜。高島城跡は今回で2回目で、前回も桜の季節に訪れている。
堀からの天守、城壁からの桜…と、どこを切り取っても、お城と桜のコラボは“お似合い”で、東の城門から失礼し、すでに多くの観光客が花見を楽しんでいる。
城跡内には、“オンステージ”のような祭事を催す舞台も設置されていて、土日にはカラオケ大会でもあるのだろうと、散策。
天守には上がらないが、前回の時は、東の方角に富士山が見え、しばらく見入ってしまう光景を思い出し、今回はどうだろうかと平地からの眺望はやはり見えないので、想像力だけで済ます。
城跡内には諏訪護国神社があり、さっそくお参り。諏訪市、岡谷市、茅野市より出征されて戦死した英霊たちが祀られていて、明治の西南戦争の戦没者から始まっている。多くの英霊は毎年、花見を楽しむ人たちの姿を見て、平和な世の中であることを嬉しく思っているのだろうと妄想し、社務所で御朱印を拝受。昆布茶もいただき、お礼申し上げるのでありました~

諏訪善光寺 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:29:59

高島城跡バス停からかりんちゃんバスで、里山辺出張所前バス停へ移動。ここは諏訪湖の南側、中央自動車道の北側に位置し、諏訪市にも善光寺がある事を知り、訪れた次第。
集落の坂道を上がり、途中、習焼神社でお参りし、東へ。駐車場には立派なしだれ桜が見頃を迎えていて、思わずパチリ。駐車場から境内へと失礼すると、山門からの眺めが素晴らしく、いつの間に、こんな高い場所まで来ていたのかと、東側に広がる八ヶ岳連峰の頂上はまだ雪が残っている風景をしばらく眺め、これまた本堂前でお参り。
本堂前には一本のモクレンが植えられていて、つぼみの白い花が数多く付き、もうじき咲く準備ができていて、春~といった感じを味わう。
諏訪善光寺は寺伝によると、百済から日本に送られた如来を、本田善光が難波の堀江から持ち帰り、座光寺(現、伊那郡元善光寺)に祀り、その後、孝徳元年(645)に諏訪明神の神事により座光寺から如来がこの地に移されたと。如来をこの地に安置してから7年後、お告げにより、再び水内郡芋井(現、長野市)の富彦神別天神の境内へ移動して祀り、さらに殿堂(現、長野市善光寺)が完成したと伝えられている。
この時、当地の万民がこれを悲しみ、善光は白月摩木(ヌルデまたはカチノキともいう:聖徳太子が蘇我馬子と物部守屋の戦いに際し、この木で仏像を造り、馬子の戦勝祈願を行った伝承から)を以って尊像を造り、当地の本尊としたとある。
その尊像は見ること叶わないが、境内には観音堂、薬師堂、元々この山に棲む松尾大明神も祀られいて、それぞれにもお参り。庫裏で御朱印をお願いし、本堂裏の庭園への撮影許可をいただき、見頃のしだれ桜をパチリし、善光寺如来に感謝申し上げるのでありました~

法華禅寺 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:30:55

諏訪善光寺から西の龍雲寺へ伺うと、住職さんが不在なので、今回は諦めて、再びバス停に戻る。バスが来る間、夕暮れ時であったが、ひょっとして御朱印をいただけるかどうか
法華禅寺に連絡をしてみると、「大丈夫」ということで、上社バス停へ移動。
ここは諏訪大社上社本宮。そのお隣にある法華禅寺は、大社同様、2回目の訪れ。以前訪れた時は不在で、御朱印をいただくことができなかったが、今回は約束を取り付け訪問。
諏訪大社の東側に建つ大鳥居、回廊入口を見ながら、坂道を上がると、朱色?の山門が見えてきて、付近に植えられている桜が見頃を迎えている。
法華禅寺は、伝教大師最澄が弘仁6年(815)、東国布教の際に、この地に開山されたと伝わる。なので、はじめは天台宗であったが、鎌倉時代、幕府に仕えた諏訪蓮仏入道盛重が禅宗の僧、蘭渓道隆を招き、禅宗に改めて中興した沿革。
蘭渓道隆は宋国逝江省生まれ。京都泉涌寺の明観和尚が入宋中に知り合い、その縁で来朝し、京に上って時の執権、北条時頼に招かれて鎌倉に移り、建長寺を開山した人物。帰化した名を御宇多天皇から大覚禅師と賜り、甲州へはちょこちょこ来たことがあって、当寺を中興した経緯がある。
本堂には釈迦三尊像を安置。大覚禅師の尊像も位牌堂に安置されているそうで、訪れた時間帯ではもう遅いので、本堂手前で手を合わせる。
また、当寺には吉良上野介の嗣子、義周(よしたけ)のお墓もある。赤穂浪士討ち入り後、義周は高島城に流され、22歳の若さで心労だったのだろう、病死。高島城南之丸に幽閉されていた義周への処遇は丁重かつ儀礼を尽くしたものであったと伝えられ、その家来たちは供養料として金三両を寺に残し、小さな自然石の墓碑が建てられたという。そのお墓は本堂裏手にあるが、今日は訪れるには遅い時間なので(翌日訪れ、お参りしました)、庫裏へと伺い、大黒天の御朱印も拝受し、遅い時間にも関わらず対応して下さり、お礼申し上げるのでありました~

諏訪大社上社本宮(1) - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:32:05

法華寺から坂道を下り、諏訪大社東鳥居から失礼し、回廊を潜る。
この回廊の入口上を見上げれば、龍の彫刻が素晴らしく思わずパチリし境内へ。東を背に建つ拝殿、その内陣の神域には、明日の「御頭祭」準備のためか、神職の方々が忙しく働いている。
お参り後、北側に建つ鳥居の参道、門前のお土産界隈の景色を眺めては、久しぶりの大社訪れに、「そうそう、こんな感じ」と懐かしさに浸り、いよいよ明日の「御頭祭」を期待し、上諏訪駅近くのホテルで宿泊。

御座石神社 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:33:04

諏訪温泉を堪能し、翌朝、JR上諏訪駅からJR茅野駅へ移動。駅南のバスターミナルから理大行きのバスに乗り、朝の通学の学生で満員の中、中央保育園前バス停で下車。すぐ近くの御座石神社に到着。
交通量の多い道路に挟まれた三角州の土地に境内はあり、木々に囲まれた、ここの社地だけ“異空間”のように空気が違う。
御座石神社の御祭神は、諏訪大社の御祭神、建御名方命の母神にあたる奴奈川姫(高志沼河姫命)とのことで、御頭祭の前に訪れた次第。
御座石神社は諏訪大社の境外社。矢ヶ崎という村落の郷社で、名称のとおり“石”が関係している。御祭神の高志沼河姫命が高志の国(越後)から鹿に乗って諏訪入りをした際、その石に腰掛けて休息したと伝えられ、しかもその石面には鹿の足跡が残っているという。
さっそく拝殿でお参り後、拝殿前の石を見ると、確かに鹿の足跡がある。乾ききっていないコンクリートの上を歩いてしまった靴の足跡のようにくっきりとあり、「へぇ~」と写真に収める。
そして、こちらの神社では御祭神が姫神であることから、御柱を建てることはなく、その代わりに7年ごとに鳥居を建て替えるそうな。「黒丸大鳥居」と呼ばれ、松の丸太の柱で造られ、古式のままで受け継がれているとのこと。
そんな境内を散策していると、あちこちに“石”というか“岩”が配されていて、バラバラのように見えて実は、魔法陣のように形づけられているのではないだろうかと、妄想してしまう。
事ある事に、何か神秘的なことを探してしまう癖は抜け出せなく、それが旅の楽しみの1つであるのだが…
そんなこんなで、境内の一角には酒蔵?があり、当社の例祭でもある「どぶろく祭り」で必要な酒造している建物から蔵人?杜氏?が出てくる姿を目撃し、岐阜県白川郷の白川八幡神社の「どぶろく祭り」と同じだろうかと。
毎年4月27日に行われるということで、祭りの伝承としては、諏訪明神が八ヶ岳山麓に狩りに出かけた折、母神がどぶろく、鹿肉、ウドの粕和えで息子神をもてなしたという話などからきていて、近世では「独活祭」と呼ばれ、「どぶろく祭」と呼称されたのは昭和に入ってからだというので、昔はお酒ではなかったということが分かる。確かに、“酒入鹿肉の粕和え”って、「げぇ~」ってなりそうな感じがして、お酒だけになったのは納得とも思えるのだが…
祭りの日にはお酒が振舞われるのだろう、全国似たような神事があるものだと、何とはなしに蔵を眺め、いつかこの日にまた訪れたいと願う。

福寿院 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:33:54

御座石神社からJR茅野駅を目指し歩く。今日は朝から小雨が降る天候で、降ったり止んだりの中、途中、桜が見事に咲き誇るお寺に遭遇し、立ち寄ってみる。
導かれるように山門近くの桜が見事で、境内へと失礼すると、赤い屋根の本堂、地蔵堂、稲荷堂と配され、そこそこに広い。
さっそく本堂でお参り。HPがあるので調べてみると、福井県の永平寺と横浜の総持寺を御本山としている曹洞宗のお寺のよう。開創された年は分からないが、寛永年間に日州関朔和尚によって開かれ、(省略)諏訪高島藩の初代家老、諏訪美作守頼雄公を開基として8代頼保が中興したとある。諏訪頼保といえば、「二の丸騒動」。諏訪藩は鎌倉時代から諏訪市に仕えてきた千野氏と、初代藩主諏訪頼水の弟頼雄を祖とする高遠藩の諏訪氏家老一族の2つの派閥があり、前者を三の丸に住んでいたので“三の丸家”、後者を二の丸に住んでいたので“二の丸家”と呼ばれていた。
まぁ~、詳しい話はここでは紹介しないが(調べてね…)、要するに、農政改革の失敗がきっかけで対立するわけだが、当時の殿様、諏訪忠厚は無能すぎるし、嫉妬心は強く悪知恵ばかり働く頼保が跡継ぎ問題などを引き起こし、結局、切腹させられてしまうという“お家騒動”は何とも現代のドラマにもありそうな話で、そんな頼保のお墓は罪人という扱いなので、墓標の石は自然石を2つに割り、重ねてその名を隠したであろう造りになっているそうで、この地に眠ってらっしゃるとはつゆ知らず、「へぇ~」と唸る。
たまたま立ち寄ったお寺が「二の丸騒動」ゆかりのお寺であるとは、“福寿”という寺名とはかけ離れたエピソードを知り、オモロイ。
御朱印があるか庫裏で聞いてみると、快く応じて下さり、書置きの御朱印を拝受。お礼を述べ後にする。

諏訪大社上社本宮(2) - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:34:54

JR茅野駅からJR岡谷駅行きのバスに乗って、中神戸バス停で途中下車。北の坂道を上がった頼重院、地蔵院を訪ねるが、不在。御朱印は諦め、再びバス停に戻り、かりんちゃんバスで上社バス停へと向かう。
本日は「御頭祭」当日。何時から始まるのか分からない情報のまま、時刻は正午ごろ。祭事ならばそれなりに人の多さもあるのだろうが、普段と変わらないような…本当にあるのだろうかと思ってしまうほどに静か。
境内に向かうと、鳥の形をした鉾や槍が立てかけられ、内陣にはお神輿が置かれているので、祭事があることは間違いないが、やはり「御柱祭」とは違い、秘密裡に行いたい?という神社側の思惑?だからだろうかと勘繰ってしまう。
お参りを済ませ、まだ始まる様子もない境内で、とりあえずは宝物館の見学でもしようと、社務所で拝観料を支払い中へ。
徳川家が社領を寄進した書状をはじめ、八栄鈴(やさかのすず)、八稜鏡、薙鎌などの展示。大社周辺の古地図を見、昔は神宮寺をはじめ伽藍が広いお寺があったことも分かり、宝物を拝観。40分ほど経過し、再び境内に出ると、まだそれらしき様子もない。暇を持て余すため、境内をしばらく散策する。

諏訪大社上社前宮(1) - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:35:52

御頭祭は本宮に坐ます神霊をお神輿に乗っけて、前宮へと大名行列のごとく移動し(渡御という)、前宮の十間廊という場所で祭事が行われる。各神社で行われる祭事はこれが基本で、移動先を御旅所として神霊を迎える場所があり、いわゆる、神さまをずっと社殿に閉じ込めて?いるのは窮屈?なので、年に1回ぐらいは、旅でもしてもらおう…といったところか(そんな単純な話ではない…)。
そして、前宮の十間廊で行われる「御頭祭」は、動物愛護団体の訴えによってある意味、世間の注目の的として浴びることになる。
古来より御祭神に捧げる神物に、鹿の頭や猪の頭、米や魚や果物などなどがあり、江戸時代の記録には、75頭もの鹿の頭を捧げていたと云う。今は剥製を使用しているが、当時はまな板の上に鹿の生首を乗っけて祭事をしていたというから、相当、血生臭い光景であったことだろう。
稲作が主流になる前の縄文時代以前は(この地域の人々の生業が狩猟であった)、動物や植物などの幸を神に献ずることによって、神と人が一体となり、自然を敬うとともに、共存する、狩猟儀礼、いわゆる「御頭祭」のはじまりであり、多くの魚、鳥、獣を山積みにして神に捧げ、その後、人々と神が共にその肉を食らい、酒を飲んだ…それは自然への畏敬の念を抱くということに繋がる、日本人にとっての“自然崇拝”に繋がっている…のだと考えられる。
そんな祭事が今日、いつ行われるのか…桜を愛でながらもう、前宮へと移動しようと決め、30分ほどで到着。前宮にはそこそこの参拝客がいて、十間廊には垂れ幕も掲げてあり、こちらで待っていればいつか始まるだろうと、とりあえず本殿へと坂道を上がりお参り。
本殿周りの御柱、横に流れる小川、八ヶ岳が望める景色を堪能し、懐かしさにしばらく浸る。
まだ時間には早いと考え、境内から北に見える桜並木を眺め、時間つぶしに行ってみることに。

桜並木 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:36:45

鳥居から北の方角へ行くと宮川があり、堤防沿いには桜並木が続き美しい。
土手に上がり、しばらく周辺を散策。小雨から晴れ間へと変わり、風が強く吹き始め、花びらが舞う光景も良いと、パチリを繰り返す。
地元の方だろうか、毎年見に来ているのだろう、ゆっくりと散歩したり、桜の下では弁当を広げて昼食をする人もいて、そんな姿を見るだけでも楽しく、自分も年老いたなぁ…と、しばらく桜を愛でるのでありました~

諏訪大社上社前宮(2) - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:37:38

13:00頃まで休憩所で待機し、十間廊へ行くと、かなりの人が集まり出している。私も祭壇近くの見える場所に陣取り、その神事を待つ。待つ間、小雨が降りだしてきて、隣にいた人に傘を片側貸してあげて談笑。話を聞いていると、千葉県から来ている方で、映画「鹿ノ国」の出演者だと言う。その話を聞いていた周りのギャラリーが「えっ!『鹿ノ国』に出てたんですか?」と、その人に質問攻め。私は、「鹿ノ国」すら知らなかったのだが、巷では有名なドキュメント映画らしい。(後日、映画館で見ました)
「へぇ~」と、関心を持って聞いていると、どうやら渡御されてきたお神輿が到着し、祭壇に供えては周りが慌ただしくなる。
なぜか雨も上がり、晴れ間が見えてきて、傘を閉じた頃には雨宿りをしていた隣の人もいつの間にか別の場所へ移動したみたいで、とりあえず、神事に集中する。
祭壇には、先ほど説明した米や野菜などのお供え物の中に、鹿の頭や真空パックされた鹿の肉などもあり、「御賀柱」と呼ばれる杉や柳、桧などの枝を飾った柱が登場し、祭壇の中央に置かれる。かつては、この柱に「御神(おこう)」と呼ばれる赤い着物を身に付けた子供を縛り付け、生贄として打ち殺したという話もあるようだが、それは文献の解釈を歪曲してしまった影響で“生贄”が一人歩きしてしまったような気もするが…そんでも、古来は人身御供のようなこともあったというから、真偽のほどはともかくとして、神に捧げる度合いが強い祭りであることは確か。
…で、祭禮者が「皆さま…頭をお下げください」と号令がかかり、そこにいる全員が頭を下げ、下げている間、祝詞を唱える声が聞こえてくる。神さまが“お姿”を現す時なのだろう、誰も見てはいけないこの時間だけが、時が止まったかのように厳粛な空気が漂う。
「頭をお上げください」と声が掛かるまで人々は神に相対することなくひれ伏す。
日本人のDNAには「畏敬の念」が自然と組み込まれているのではないかと思い、「敬う」という心が世界平和につながる壮大なテーマになっているような、そんな想像をしながら神事を見守る。
儀礼は、各村の氏子代表者が神前に出て、二礼二拍手一礼を繰り返し、滞りなく終わり、ミステリアスな?神事に立ち会えたことに感謝。祭りの余韻が冷めやらぬ中、前宮を去る。

神長宮守矢史料館 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:38:49

今回の旅でもう1つ訪れたい場所があり、それが神長宮守矢史料館。距離的にして、本宮と前宮の中間地点にあり、こちらは古くから諏訪大社上社の神長官を務めてきた守矢家一族が数多くの古文書等を残し、伝えてきた史料館。
門から失礼し、南に向かって敷地の左手には祈願殿、右手には4隅に御柱のような木が建つ中の、特徴的な割板の壁に、鉄平石を呼ばれる石を屋根に葺かれていて、テレ東の「美の巨人たち」で紹介されてそうな造りの建屋が配され、さっそく入館。
入館料100円というのは驚きだが、規模が小さいのでそんなもんかと、電球照明のような明かりの中、いきなりウサギの串刺しからはじまる。鹿の脳みそや肉片をレプリカで紹介し、さらに鹿の頭、猪の頭、30頭ぐらいが土壁に飾られていて、事前の情報で知っていたので驚きはしないが、さすがに心に来るものがある。
かつては「75頭…」と独り言ち、何でこんな数をお供えしていたのか…と。この点については私なりに前々から思う所があって、それは、御祭神である建御名方神と、鹿島神宮や春日大社の御祭神である建御雷神の相撲対決が原因ではないかと。勝負に負けた建御名方神は諏訪へと逃げ、この地から出ないことを約束したが、建御雷神の使いである鹿を喰らうことで、恨みを晴らしていたのでは?と。作家の高田宗史氏の小説(「諏訪の神霊」)を始めて読んだ時、同じ考えであったことに驚き、「そうだろう、そうだろう」と唸ったものだが、ある意味、建御名方神は未練たらたらの神じゃないか…と。
そんなことを考えながら、御賀柱、上社の古地図、祭器や鉄鐸、武田信玄や真田昌幸の書状、鹿食免の版木(鹿を食べて良いという許可書)などの展示を見学し、中々内容が濃い。
インパクトありすぎな鹿の頭は、建御雷神に対するアンチテーゼ?レジスタンス?(妥当な言葉が分からん…)かと、御頭祭の世界を知ることができ、満足×2。

ミシャグチ社 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:39:45

史料館を後にし、敷地内を散策。石垣で造られた一段高い所に祠があり、ミシャグチ社が祀られている。「ミシャグチ」を漢字表記にすると、「御左口神」とも「御社宮司」とも示され、建御名方神が諏訪に来る前から坐た地主神(産土神)で、一説には、建御名方神とミシャグチ神との戦いがあり、前者が勝って諏訪を支配したという説がある。ミシャグチ神が負けたことから建御名方神を守るための御柱を生贄としてミシャグチ神に求め、これが4角に建てた御柱のはじまりとする説もあるが、そこまで昔の真偽を確かめる術はないので“わからない”が答えである。
社に手を合わせ、南には墳丘の古墳、その背後には御射山(みしゃやま)が聳え、何だか今も、地元民はミシャグチ神を崇敬する派閥?があるかのような空気感というか、この地に来ないと口では言い表せない雰囲気が…ミシャグチ神は“存在”していると感じる。
ミシャグチ社から右手には大祝諏訪家のお墓が並び、桜が見頃を迎えていて、この地方で連綿と続いてきた風土や歴史が、たまに吹く風と共に香ってくるかのように、しばらく桜を愛でるのでありました~

諏訪大社上社本宮(3) - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:40:46

史料館から北へ大通りに出ると、ちょうど前宮から本宮へ戻る渡御行列に出会い、警察の誘導で車道を規制していて、一緒に本宮まで歩く。写真や動画を撮影するため、東鳥居前へ先回りして待ち構え、黄色い装束に身を包んだ方たちはお神輿を担いてきて、回廊前で一旦休憩。渡御途中、休憩を入れながらも40分ほども担いで歩いてくるなんて、大変だぁ~と見守りながら、再び回廊入口へと腰をかがめてお神輿を運んでいく。
本宮内陣に到着し、回廊内から神事を見守り、社殿へと神さまが御移りになるので、「頭をお下げください」号令に従い、ここでも頭を下げ、儀式を拝見。御頭祭がようやく終了し、今日一日、歴史ある祭事に立ち会うことができて感謝し、諏訪の地を去るのでした~

つづく…

また21、滋賀の旅 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:50:10

5月下旬に大阪万博に行ってきました。予想はしていたものの、かなりのすごい人人人に圧倒されないように気合を入れ、まずは人気のアメリカ館を目指す。早朝、東ゲートに7:30に到着したのだが、もうすでに100人以上は並んでいて、9:08にゲートを通過したにもかかわらず、アメリカ館はすでに行列…「こんだけ朝早く来たのに…」
この日は諦めて、お隣のフランス館へ入りましたが…。2日目。リベンジということで、今度は朝6:30に来ると、私の前に50人ほど並んでいて、結局、一番にアメリカ館に入れましたが、“並ばない万博”のテーマはどこへ行ってしまったのか…
…てなことで、体験してしまえば楽しいもので、通期パスも購入してしまい、今年は大阪通いが続くこと間違いなしで、御朱印の旅はお預けかも。
…で、4月上旬に訪れた滋賀県の大津市の旅を紹介~

膳所城跡 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:51:28

名古屋から大垣、米原、石山と、JR東海道線を乗り継いで、京阪電車に乗り換えて、膳所駅に到着したのはお昼過ぎ。駅から東へ下る道の途中には、膳所神社があり、かつて御朱印を頂いたこともあり、懐かしい。鳥居前の桜が見頃を迎えていて、広い境内を進みお参り。
立ち寄った後、再び東へと下ると、交差点の先、信号待ちをしている間に遠くに見える城跡門が威風堂々と構えていて、その奥の桜が鮮やかに城跡を染めている。
ここは大津市の東に位置する琵琶湖に突き出た土地に、かつて徳川家康の命で藤堂高虎が築いた膳所城があった場所。「琵琶湖の浮城」と呼ばれた水城で、東海道の抑えとして江戸幕府が諸大名に号令し築かせた第一号である。それも明治に入れば、廃城として扱われ、その後は城跡公園として今に至っているが、桜の名所であることをつゆ知らず、今回、訪れた次第。
城門から失礼し、すでに人の賑わいに、春の陽気が漂う空間が広がり、桜も見頃。写生している人もいれば、お弁当を広げている人、犬の散歩、カメラを構える人等々、そんな中で、ゆっくりと私は散策し、湖の畔は整備された湖岸となっていて、風が心地イイ。
なんせ、ここの良い所は、ブルーシートを敷いてどんちゃん騒ぎをしている輩はおらず、花見を純粋に楽しむ人々で、やはり、花見はこうでなくっちゃいけない。
今年初めての花見を滋賀県で迎えるとは…十分に楽しむのでありました~

和田神社 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:52:52

膳所神社まで戻り、北へまっすぐ歩く。高校の校舎がある脇道を進み、膳所の町並みを拝見しながら和田神社に到着。
かつて、膳所城を中心に栄えた城下町は、本多氏6万石の支配からなる古い町家が並び、大津へと繋がる東海道の旧道は旅人が通り、賑わいを見せていたことから比べると、今は静かな佇まい。
鳥居からの境内は、西を背に本殿が建っていて、屋根が手裏剣のような形をした、現代的な収蔵庫、大きなイチョウの木が印象的な御神木?があり、さっそく拝殿でお参り。
和田神社は白鳳4年(675)に創祀されたと伝えられ、持統天皇の御代、朱鳥元年(686)頃には元天皇社、あるいは八大龍王社と呼ばれ、承和2年(835)には正霊天王社とも称されたという。明治に入り、この地が和田浜や和田岬と呼ばれていたことから和田神社と改称され、御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)、つまり海津見(わだつみ)神で、境内には稲荷社や天満宮、山神社も祀られている。
中でも、大イチョウの木の言い伝えがあり、天下分け目の関ヶ原の戦いの頃、敗戦となった石田三成が伊吹山中で捕縛され京都に護送中、小休止した際に繋がれていたのが、このイチョウの木であったとのこと。イチョウは大津市の天然記念物として指定され、今では樹齢約600年というから、室町時代ぐらいに植えられたのだろう、かつては湖上を行く船の目印にもなっていたというから、江戸時代ぐらいにはかなり成長していたことが想像できる。
そんな大イチョウは、今は枯れ枝となっていて、これから夏にかけて葉が芽吹くのだろう、神社を守るかのようにシンボリックに佇み、何とはなしに見上げる。
社務所で御朱印を授かり、次に向かう石坐神社の行き方を教えてもらい、お礼を述べ後にする。

石坐神社 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:53:54

和田神社から北西方向へ歩いていくと、途中、ちょっとした公園に咲く桜を愛でる地元の人たちがいて、私もカメラに収める。その公園から西へ向かうと石坐神社があり、初め、「石坐」を「いしざ?」「いしくら?」と、読み方が分からなかったが、「いわい」と読むことを知ったのは和田神社さんのおかげで、こちらの神社も八大龍王神が祀られている。
八大龍王神は主に淡海、つまり琵琶湖のことだが、琵琶湖に坐します神様で、琵琶湖周辺には「淡海龍王神」を祀る神社が多々ある。当社もその1つで、昔は八大龍王宮とも、粟津八宮とも称され、また、さらに遡ること、天智天皇が湖中より、龍の飛来を見、膳所の御霊殿山の磐座に小祠を建て、石坐大神を祀ったこと、これら2つが創始の事の起こりで、正霊天王宮(東殿)と八大龍王宮(西殿)の両殿が朱鳥元年(686)に創建されたという。
境内は広く、境内社がいろいろ祀られていて、まずは拝殿でお参り。ぐるりと本殿を一周すると、特に七福神を祀る社が点在していて、大国主や事代主、毘沙門天、寿老人など祀られていて、七福神すべてお参りできるようになっている。
桃の花が咲く中で、御霊殿山への遥拝所が南東の方角に祀られていて、こちらもお参り。モミジの艶やかな新緑、桜も添え、社務所で御朱印を拝受し、お礼申し上げるのでありました~

琵琶湖疎水 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:55:00

京阪三井寺駅まで歩き、電車で北上。三井寺駅で降りる乗客は、私を含め、ほとんどが花見目的である。三井寺に向かう道中には、琵琶湖疎水があり、春の季節は桜の名所となっている。
琵琶湖疎水は、いわゆる、京都への“水ライフライン”で、TVの“ケンミンショー”でも京都が潤っているのは滋賀のおかげ!?というジョークで、京都VS滋賀のバトルが取り上げられていたが、そんな疎水運河を造ったのは明治時代。皇室が東京へ遷都して以来、京都の人口や産業は衰退を辿る道に陥り、当時の第3代京都府知事が、京都と大津を結ぶ運河を造ろうと計画を立てたのが始まり。まぁ~、そのトンネルを掘削する工事は、難攻を極めたことは想像の域だが、しかしまぁ~、繋がった時には、計り知れないほどの驚嘆であったことだろう、その努力はスゴイ!と言わざるを得ない。
今では桜を囲む素晴らしい景観が見て取れ、河には小舟が2艘浮かび、桜景色に添えている。橋の上では大勢の観光客は順番にスマホで撮影していて、入れ違いに、そこは暗黙のルールで、協力的に“景観”を分け合っている。
桜を愛で、そのまま疎水沿いの坂道を上がり、三井寺観音堂へ移動。

三井寺観音堂 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:56:07

三井寺は久しぶりの訪れ。紅葉の時期に訪れたことがあるが、とにかく境内が広いという印象が強い。境内は自分の感覚では、南エリアと北エリアに分かれていて、まずは観音堂がある南エリアから。
拝観受付を済ませ、入口すぐの水観寺でお参り。本堂は開け放たれた状態で、本尊の薬師如来立像や脇侍の日光月光菩薩、十二神将などをじっくりと拝観し、新たに御朱印が追加されている弁財天、大黒天、毘沙門天を授与所で拝受し、観音堂に向かう長い石段を上がっていく。
上りながら振り返ると、徐々に琵琶湖と大津市内の風景が見えてきて、桜も見頃を迎えた中で、コラボ写真を撮る。観音堂が建つ敷地に到着すると、参拝客がそこそこいて、映えスポットである“能舞台床”には行列ができている。磨き上げられた床に、桜が反射して映る風景が人気で、よるにはライトアップされ、HPにも載っているが、京都岩倉実相院の“床モミジ”を真似ているのか…と、ちょっと思ってしまう。
観音堂内に失礼し、お参り。お線香の煙や匂いが立ち込める…久しぶりのお寺~と言った感じの光景に、少し懐かしさを感じ、人それぞれにお参りをする姿、お守りを買う人等々、この空間がお正月のようでイイ。
観音堂は延久4年(1072)に、後三条天皇の病気平癒を祈願して創建され、本尊の如意輪観音座像は33年ごとに開帳される秘仏。なので、見ることはたぶん、叶わないが、写真パネルがあり、中々の威厳を保っているそのお姿をみては、もう一度手を合わせる。
お参り後、展望台へと上がり、観音堂のある境内、琵琶湖などを見降ろせる風景が広がり、しばらく明媚な景色を楽しむのでありました~

微妙寺 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:57:23

観音堂から北へ、案内看板通り、坂道を下り、ポツンと1つの立派なお堂が建っていて、堂前には手水鉢に綺麗な花を浮かべ、“映え”を求め、人だかりができている。
ここは、三井寺の別所として存在する微妙寺。別所とは、平安期以降、広く衆生を救済するために本境内の周辺に設けられた別院のことで、他に、先ほど訪れた水観寺や近松寺、尾蔵寺、常在寺があり、総称して「三井寺五別所」と言われている。
微妙寺は慶祚阿遮梨によって、正暦5年(994)に開基されたと伝わり、元々は長等公園の南の山上にあったが、昭和54年(1979)に現在地に移築され、今に至っている。
本尊は十一面観音像であるが、堂内に失礼し、目の前に立つと、何とも可愛らしいというか、仏像というよりかは“人形”である。いや…人形ではない…何とも説明が難しいのだが、アニメでいう等身大の姿からデフォルメして小さくなったキャラクターのような…
そんでも、そのお姿は異彩を放ち、人々を救って下さる菩薩さまであると、その存在感自体が紛れもなく、どこか違う。
そんな十一面観音さまに手を合わせ、授与所で御朱印を拝受。以前、こちらで祀られていた“尊星王”は金堂へ移動されたということで、お礼を述べ、三井寺金堂へ。

三井寺金堂 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:58:56

金堂へ向かう道幅の広い参道を歩くと、脇に咲く桜が見頃を迎えていて、すばらしい。多くの参拝客が桜並木に立ち止まり、写真を撮ったり愛でたりして楽しんでいる。
正面に見えてきた金堂は、立派な佇まいを醸し、現在の金堂は秀吉の正室、北政所によって再建されたもので、“三井寺ここにあり”と言わんばかりに、その威容さが伝わってくる。
三井寺の正式名称は「長等山園城寺(おんじょうじ)」。1200年以上の歴史の中で、源平争乱や南北朝、戦国時代と、焼き討ちに遭う…まさに災難続きのお寺というイメージが強い。幾多の苦難を乗り越えてきたことから、「不死鳥の寺」とも呼ばれていて、天台宗として中興した知証大師への信仰心に支えられた人々によって、維持されてきた歴史ある寺である。
金堂内に失礼すると、階段には季節の花が色鮮やかに添えられていて、目の保養になり、本尊の弥勒菩薩にお参り。
内部は外陣、中陣、内陣と分かれていて、内陣の両側に脇陣を設け、内陣以外の床は板敷とするのに対し、内陣は土間のままで、この形式は、天台宗の本堂に見られ、比叡山延暦寺の根本中堂と同じだと、延暦寺に訪れた時の、“不滅の法灯”を見たことを思い出す。
格子で仕切られた内陣を、隙間から覗き込み、仏像群のお姿を拝むが、中は暗くよく見えない。そんでも、手を合わせ、ご加護をいただき、納経所で御朱印を拝受。微妙寺から移動した尊星王も御朱印として拝受し、いつのまにか、御朱印の種類が増えている三井寺を訪れ、満足×2。

三井寺鐘楼 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:00:16

金堂の周りには「あかいの井戸」や「弁慶の引きずり鐘」などの伝説的スポットもあり、ここでは割愛。鐘楼も御朱印がいただけるという情報により、立ち寄ってみると、鐘楼の横に、案内するお堂なんてあったっけ?と、以前来た時は、鐘楼しかなかったような気がしたが…。
鐘は、「三井の晩鐘」と云われ、「弁慶の引きずり鐘」の後継として、豊臣家による当寺復興事業として鋳造されたもので、鐘の上部には108の“乳”といわれる突起物があり、江戸時代に流行する“108の煩悩”にちなみ、“108乳を持つ鐘”の、最古の作例となっている。
そんな鐘を1突きすると御朱印を授かる仕組みになっていて、鐘楼の柵を開け、鐘を突く…
「ごぉぉぉぉーん」
鐘の下でその響きを体感し、穢れが払われていく…
久しぶりの鐘突きに、心に沁みるというか残響がここまでスゴイとは…感動で、鐘突きもイイものだな…と、一瞬、「安珍伝・清姫伝説」を思い出し、鐘が落ちてきて閉じ込められたらどうしよう…と、妄想してはお堂へと戻り、御朱印を拝受。
寺に響く鐘の音は私だけでなく、人々の心を洗う…そんなご利益もあるのだろうかと、余韻に浸るのでありました~

三井寺釈迦堂 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:01:25

時刻は15:30。最後は釈迦堂へと足を運ぶ。石段を下り、仁王門の脇に建つ釈迦堂も異彩を放っている。
御朱印の最終時刻が迫っていたので、なるべく急いで堂内に上がり、お参り。
釈迦堂は室町時代に建立されたと伝わり、「園城寺境内古地図」には、食堂(じきどう)が描かれており、この堂も移築されたものとされる。
本尊は清凉寺式の釈迦如来像。衣のシワの線がストレートに足の裾まで延びているのが特徴で、この類の仏像を見ると、毎回、ジュディ・オングの「魅せられて」の衣装を想像してしまう。「ジュディ・オング=釈迦如来」なのかと…
そんな妄想を浮かべては、じっくりと拝観し、納経所で御朱印を拝受。この頃にはもうすでに、堂内の板戸を閉める作業に入っており、遅い時間になってしまったが、何とか拝受し、お寺の方にも感謝×2。
仁王門を潜り、三井寺を後にするのでした~

写真は釈迦堂すぐ近くの仁王門

立木観音 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:02:35

翌朝、JR石山駅に降り立ち、バスターミナルから大石中学校行きのバスに乗車し、立木観音前バス停で下車。以前、ここから南にある佐久奈度神社を訪れた時、このバス路線の車窓から気になっていたお寺。あれから10年以上経っているが、未だに忘れもせず、いつかは…と、憶えていて、今回、訪れた次第。
バス停から屹立した山が聳える麓には、荷物を運ぶためのケーブルのレールが備えていて、かなり頂上まで距離があることを認識しつつ、上へと続く石段を見上げては、朝一発目からハードな?登り運動を開始。
参道石段は、歩きやすいように整備されていて、観音霊場のように石仏が脇に祀られていて、休憩がてらお参りをして、また登る…考えられた道程となっている。
とにかく、木々が生い茂る森の中を上がるので、周りの景色は拝めず、ひたすらこの状態が続く。途中、日頃から鍛えているであろう地元のスポーツマンとすれ違い、挨拶をし、軽快に駆け下っていく姿を見ると、うらやましい(これが若さというやつか…)と思いつつ登る。
ようやくたどり着いた境内。本堂ならびに回廊、庫裏等々、きちんと整った雰囲気の中、お参り。
「奥之院」への案内看板もあるので、そこから再び5分ほど石段を上がり、ここでもお参り。
ようやく、ホッとできるような眺めが見渡せるかと思いきや、今日は曇り空なので、全体的に陸地も白く見え、本来なら瀬田川や南に広がる海原も見えるはずなのだが…とりあえず休憩。
立木観音は弘法大師が42歳の厄年の時、瀬田川の急流で渡れずにいた折、白い牡鹿が現れ、大師を乗せて川を飛び越え、山に光を放つ霊木の前まで導き、それが観音さまの導きだと悟った大師は、立木のまま霊木に観音菩薩を彫り、弘仁6年(815)に堂宇を建立したという縁起がある。
牡鹿はいったい何者なのだろうか…この手の話は、老翁が現れたとか、光を放つとか、良くある話だが、この鹿は春日大社の使いの者なのか?とか、そもそもシカに乗れるのか?とか立木のまま彫ったということは、地面と繋がっているのか?とか…妄想がとまらん。
まぁ~何にせよ、こんな屹立した山にお堂を作ろうとする“弘法大師あるある”の不変に触れ、納経所で御朱印を拝受。
本堂の垂れ幕には本多家の家紋が描かれていて、かつて庇護していたであろう想像はつき、再び800段ぐらいある石段を下る。

写真は奥之院

石山寺 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:04:09

立木観音前バス停から石山駅行きに乗り、石山寺山門前バス停で下車。こちらも三井寺同様に、10年ぶりぐらいの訪れ。昨年のNHKの大河ドラマでは“紫式部フィーバー”で、石山寺ではゆかりの寺ということもあって、盛り上がったことだろう。
駐車場、そして東大門から横に続く塀の垣根から見頃の桜が顔を出し、境内に花を添えていて、さっそく門から先、石畳が続く参道を歩く。
参道にはほとんど、モミジの木々が植えられているので、今は青モミジになりかけの葉であるが、真っ赤に彩られたモミジの時に訪れた、当時のことを憶えていて、それぞれの塔頭寺院の山門から覗いては、モミジを愛でた記憶がよみがえる。
志納所に到着し、拝観料を支払い、しばらく歩いた右手側の石段を上がり、メインの境内へ。敷地には観音堂、蓮如堂、毘沙門堂、御影堂が建ち、それぞれにお参りして、正面の「硅灰石(けいかいせき)」を望む。
硅灰石は、石灰岩に花崗岩が接触した際に生じる熱作用によって変成した岩で、「石山寺」の寺名の由来となっていて、奥に見える多宝塔がより、景観を良くしてくれている印象。イメージとして「滝」が流れていればなお、風情を感じられるのになぁ~と、カメラに収め、左手の石段を上がる。
本堂への石段途中からは、斜面に建てられているのが分かる、いくつもの柱で支えられた、清水寺方式?が見て取れ、本堂脇に到着すると、いきなりの紫式部人形がお出迎え。「源氏物語」の着想をここで得たという云い伝えを表し、紫式部の奥には1人の侍女?付き人?が従えている。
堂内に入り、まずはお参り。外陣、内陣で隔てられた堂内では、内陣に安置されている本尊の如意輪観音半跏像にお参りできるのだが、その拝観券は支払ってないので、外陣からの“格子覗き”をし、肝心な本尊は秘仏なので、立っている観音さまはお前立である。33年に一度の開扉なので、拝めるかどうか…お前立の背後にある厨子に納められているのだろう…その厨子も立派で、「宮殿」という名称らしく、その名に相応しい造りとなっている。
ちなみに、このお前立の観音さまは、かつては、あの淀殿が寄進されたお前立で、現在は別のものだそうで、まぁ~何せよ、ここに訪れたことだけでも感謝を伝える。
本堂でのお参り後、多宝塔から月見亭へと移動し、桜が見頃を迎えていて、月見亭では「石山寺縁起絵巻」にも、湖面に映る月を眺める紫式部が描かれているが、ここからの風景を眺めたのだろうと、しばらく、瀬田川や大津市の景観を俯瞰する。
境内を散策し、豊浄殿では「石山寺と紫式部展」が催されているが、ここも支払ってないのでパスし、桜を愛でるだけにして、久しぶりの石山寺…境内の雰囲気を堪能するのでした~

写真は月見亭付近からの瀬田川

平野神社 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:05:31

石山駅に戻り、京阪電車で石場駅へ移動。駅から南へ5分ほどにある平野神社に到着すると、町の中の地元の神社~という雰囲気の中、境内には車が数台駐車されていて、月極駐車場として利用しているのだろうかと、その境内兼駐車場に舞殿が配され、さらにその敷地から一段高い石段上に本殿やお稲荷さんの境内社が祀られているのが見える。
桜も数本植えられていて、満開の季節で華やぐ境内の中、拝殿でお参り。
平野神社は由緒によると、平野大明神(仁徳天皇)と精大明神(猿田彦)の御祭神が祀られていて、天智天皇が近江大神宮に遷都された際に、都の守護神として668年(和暦ではまだ元号が定められていない)に鎮座されたと伝えられている。精大明神は元々、現在の本宮2丁目に祀られていた頃、応仁の乱で社殿等を焼失し、天正元年(1573)に平野大明神を祀る現在地に遷座され、今に至っている。
この精大明神が蹴鞠の神様として有名のようで、例年8月の申の日、申の刻に「蹴鞠祭り」が催されていて、滋賀県ではここ、平野神社が唯一とされている。“けまり”といえば、奈良県の談山神社や京都の白峰神社を思い出すが、その蹴鞠をしている姿は一度も見たことがないので、いつかはどこかで見てみたいと思っている。
境内には至る所に、蹴鞠のモチーフが散りばめられていて、提灯や床板、垂れ幕などに見ることができ、幕末から「蹴鞠之神社」と呼ばれるほどだったらしいので、滋賀県では有名だったにちがいない。リフティングはあまり得意ではないが、平安絵巻を彷彿とさせるような“妙技”が境内のステージで披露される祭りをイメージし、社務所へ。
事前に連絡をさせていただいていたので、スムーズに御朱印を拝受し、大津市の桜の旅はここまで。

目田川桜並木 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:06:41

JR東海道線を北へ、守山駅へ移動。前から気になっていた守山市内の桜並木を見に行く。駅の観光協会でレンタサイクルを借り、走ること15分ほどで目田川に到着。
目田川はかつて、宿場町として栄えた中山道、守山宿の重要な水路として、歴史と文化に深く関わっている。今でははホタルの鑑賞スポットとして、昔ながらの風情が残る名所として知られている。
そんな目田川の堤防沿いを歩き、満開に咲いた桜を愛でる。そこそこの人の姿もあり、犬の散歩や子供の遊ぶ姿を見、地元の馴染みの桜の名所といった感じを受ける。
それぞれに楽しみ、今日は曇り空であったけど、今日の旅の最後は桜並木で締め、春を満喫するのでありました~

また41、京都の旅 - モリゾーのひとり言

2025/05/22 (Thu) 09:26:13

いろんな問題を抱えながら、大阪万博が始まりましたが、私は5月下旬に行く予定。愛知万博の時は地元ということもあって、通期パスを使い何回も訪れたものだが、この時の万博がきっかけ?で、御朱印めぐりをしだしたのは、やはり、スタンプパスポートが影響している。各パビリオンに設置してあるスタンプを集めていく…これが、私の原点…とまでは言えないが、各国の人たちとの触れ合いの中で、経験した宝物は今でも忘れないでいる。
今回も、スタンプパスポートを購入してしまった(名古屋唯一の公式店、丸善で)が故に、通期パスを買おうか買うまいか…悩みどころだが、今年は万博イヤーということで、楽しみたいと思っている。
さて、今回は2月下旬に行った「京の冬の旅」~

頂法寺六角堂(1) - モリゾーのひとり言

2025/05/22 (Thu) 09:27:20

今年で59回目を迎える「京の冬の旅」企画。毎年、非公開の文化財が特別拝観できる催しを期待し、今回は16ヶ寺開かれる内の3ヶ寺を拝観する。
JR京都駅に13:00頃に到着し、地下鉄烏丸線で、烏丸御池駅で下車、南へ数分歩く。オフィス街の中を東へ折れ、六角通りをしばらく進むと、立派な山門が現れ、多くの参拝客で賑わっている。
頂法寺六角堂は、2、3回は来ている。聖徳太子が創建し、小野妹子が始祖である「池坊」は、代々住職を務めてきた、あの“いけばな”で有名な「池之坊」で、ここが本拠地である。
久しぶりの訪れであるが、何となく境内の雰囲気は憶えていて、本堂でもある六角堂は健在。外陣にある赤い大きな提灯も、私の記憶を呼び覚ましてくれるほどにインパクト大で、そこにぶら下がっている。さっそく拝観受付で手続きを済ませ、本堂内へ。
本堂内陣に安置されているのは、お前立ちの如意輪観音像。その背後の厨子の中に秘仏があるのだが、この特別拝観でも非公開となっている。じゃあ、何が特別拝観なのか…というと、当寺には2体の如意輪観音像があり、1体は弘法大師作と伝わる如意輪観音さま、もう1体は建礼門院が寄進したと伝わる如意輪観音さまで、前者は後ほど訪れる、いけばな資料館に展示されていて、後者はお前立ちの傍らに小さく安置されている。
まずはお前立ちの如意輪観音像にお参り。頬杖を右手でついている優しいお顔立ちで、顔の周辺だけ金箔が残っているのが印象的。そして、傍らにある如意輪観音さまは覗き込む形で見るので、はっきりとは見えない。購入したガイドブックには写真が載っていて、それを見ると、蓮の台座に散りばめられた装飾、船形光背が網目状に細かくなっていて、右ひざを立て、右手で頬杖をついているリラックスした姿。建礼門院の想いが乗った如意輪観音像に手を合わせ、仏像だけでなく、厨子も立派。唐破風の屋根が荘厳さを増し、金箔がより輝いて見える。その厨子の中には秘仏がいて、秘仏から5色の紐が拝所の台の独鈷に繋がり、それに触れ、如意輪観音さまのご加護をいただき、本堂内での拝観を終了。
次はいけばな資料館へ。

頂法寺六角堂(2) - モリゾーのひとり言

2025/05/22 (Thu) 09:28:18

本堂左手からいけばな資料館へ移動。石不動尊や赤い帽子を被ったお地蔵さんにご挨拶し、池…というか、ビルの一角にあるオブジェのような大理石で囲まれた水槽?を眺めては、聖徳太子が身を清めたという池が「これなのか…」と、水浴び?をしている聖徳太子をイメージするが、現代的アートに造られた“池”が想像を超え、「本当なのか?」と疑ってしまう。
そんな妄想を楽しみながら、立派なビルに入りエレベーターで3階へ。
池坊の宝物が展示されている資料館には、花器と呼ばれる生け花に使用される受け皿や花瓶から始まり、立花図屏風、御所や貴族の屋敷で立てたものを描いた「池坊〇好立花図」(〇忘れた…)、前田邸の大砂物の写真パネル、伊達政宗の書状や橋本関雪作の梅の精を描いた「梅月相思図」などなどを拝観。ちなみに、「立花」とは、「仏前供花」を源流とする大自然の姿を器の上に表現する様式で、池坊いけばなには他に「生花(しょうか)」「自由花」の3つのスタイルが確立されている。
そもそも、朝夕の仏前に花を供えていたことから華道が始まったという、花を生けることで“悟り”を得ることができると、室町時代後期に池坊専応が確立した、ある意味、哲学に昇華した日本文化は今も継承され、発展していることは言うまでもない。
そして、弘法大師作の如意輪観音さまも展示してある。この如意輪観音さまの背中がパカっと開いていて、仏像の中に秘仏が安置されている構造になっていて、「鞘仏」とも呼ばれていて、蓮の台座に右膝を立て右手で頬杖をしているポーズは相変わらずで、じっくりと拝観。頭の上に“天使の輪っか”を乗っけた如意輪観音さまをじ~っと見ていると、昔、歌手の梓みちよが座って唄っていたポーズに似ている…と妄想し、梓みちよ→桂三枝→“いらっしゃ~い”と、如意輪観音さまが歓迎している?ように見えてきて、「こちらこそ、ありがとうございます」と心の中で“ご挨拶”。
当寺の寺宝を拝観し、再び境内へ行くと、六角堂の白鳥が二羽、優雅に毛繕いをしていて、「そうそう、白鳥!」と思い出す。私が訪れた当時はこんなに大きかったかな?と、その白鳥の成長ぶりに親目線でじ~っと見続け、限を付けて寺務所へ。「石不動尊」と「太子守」の御朱印を拝受し、池坊の歴史に触れるのでありました~

平等寺因幡堂(1) - モリゾーのひとり言

2025/05/22 (Thu) 09:29:15

六角堂から南へ、四条まで歩き、繁華街の中心地にある平等寺へ移動。東へ松原通りを進むと、提灯が並ぶ入口が見えてきて、「そうそう、これこれ」と懐かしく思う。
平等寺因幡堂はお薬師さんを本尊とする、動物やガン封じに御利益のあるお寺。その薬師如来立像や2躰の十一面観音他、宝物が拝観できるということで訪れた次第だが、平等寺も過去にそこそこ来ているにもかかわらず、本尊のお姿を見たことがない。
さっそく受付で拝観料を支払い、まずは本堂でお参り。案内の方により収蔵庫に入り、ある程度の参拝客が集まってからガイドさんの説明が始まる。
厨子に収まっている薬師如来立像は、因幡国(鳥取)から飛来してきたと伝わる。天徳3年(959)、貴族であった橘行平が村上天皇の命で赴いた因幡国で病になり、ある夜、夢に現れた僧から「因幡国の賀留津という所に1つの浮き木があるから、この木を供養しなさい」と告げられ、海中よりその木を引き上げると、5尺余りの薬師如来であったと。この薬師如来像を安置するための革堂を建て供養すると、病はすっかり治り、革堂は座光寺として護られ、行平は帰郷の途に着く。京都に戻った行平の夢枕にまたまた僧が現れ、「あなたとは宿縁があるから、重ねて事を示す」と告げ、目を覚ますと屋敷に「因州の僧」と名乗る人が訪ねてきて、門を開けると、そこには薬師如来像が立っていた…(怖…)。その後、屋敷をお堂に改め、「因幡堂」と名付け、都でも評判となり、時の一条天皇も信心され、皇室の勅願所にまでなったとのこと。なお、「平等寺」という名称は、高倉天皇の勅願により命名されたというから、源平争乱の時代、「平等」という名称に願いをこめた天皇の想いが何となく伝わってくる。
ちなみに、この薬師如来さんは「日本三如来」の1つとされていて、あとの2つは善光寺の阿弥陀如来、清凉寺の釈迦如来なんだそう。
そして、薬師如来像を収めている厨子も変わっていて、火災の際にはすぐに運び出せるように、車輪がついていて、運び出す際に、厨子のてっぺんに頭をぶつけてしまうので、衝撃を防ぐため頭巾を頭に被せていると。「へぇ~」と、お薬師様の縁起を知り、「因幡からねぇ…」と、はるばる京都まで来た理由は、ホントのところは何だったのだろうか…と、いろいろ想像してしまう。インパクトありすぎのお薬師様に手を合わせ次へ。

平等寺因幡堂(2) - モリゾーのひとり言

2025/05/22 (Thu) 09:30:10

観音堂へ移動。こちらには2躰の十一面観音菩薩坐像を安置。室町期と江戸期の十一面観音さまは、洛陽33観音霊場の本尊で、普段は厨子に納められ見ることはできないが、今回は間近で見ることができる。他にも役行者像や如意輪観音など、清凉寺の釈迦如来像に模した如来像もあるのだが、どこかの美術館に移動していて、ここには今はないとのこと。
十一面観音さまのお姿を見、どこか中性的なお顔立ちの、左手に持つ花瓶?の手先が“キツネ”のようになっていて、「飛びます飛びます」と、坂上二郎を思い出し、先ほどのお薬師さまが鳥取から京都へ移動する姿が…妄想が止まらない。
観音堂でお参り後、境内裏手にある伝承館へ。その途中、閻魔さまや毘沙門天などの石像に“あいさつ”し、「こんなのあったけ?」と、私の記憶にはないが、これも何かのご縁とお参り。
伝承館ではお薬師さまの「縁越絵巻」をはじめ、今にして思えば、何が展示されていたか忘れてしまって…が、唯一覚えているのは“人毛真言”と“琴”である。いずれも、高倉天皇に寵愛された小督局に纏わる品で、“人毛真言”は正式には「毛髪織込み光明真言」という。
そうです…その名の通り、髪の毛で織り込んである真言がずらりと書き並べられている(怖…)。
小督局は藤原成範の娘で、時の帝、高倉天皇に寵愛され、琴が上手く、京都一の美貌といわれるほどの美人さん。が、高倉天皇には中宮(后)、平清盛の娘、徳子がいて、小督局のことを知った清盛は小督局に圧力をかける。
自分の身が危ういことを知った小督局は、密かに宮中を去り、嵯峨野に隠れてしまい、高倉天皇はその安否を心配され、源仲国に捜すように命じた…その様子が「平家物語」に描かれていて、嵐山の渡月橋には「琴橋跡」の碑もある。
そんなこんなで二人は逢瀬を重ね、中宮徳子よりも先に子供を産んでしまったことから、またもや清盛から怒りを買い、小督局は出家させられ、引き裂かれてしまう。しかも、高倉天皇が21歳の若さでこの世を去ると、東山の清閑寺に葬られ、小督局も近くに住んで、菩提を弔ったと伝わり、小督局のお墓は高倉天皇陵に寄り添うように建てられているというから、相愛の念が叶ったということか。
ちなみに、小督局の娘、範子は建礼門院徳子の養女となり、賀茂斎院の斎王に、最後は土御門天皇の准母となる。
…ということで、“真言”といっても何が書いてあるのか素人にはよく分からないが、高倉天皇への真実の愛を唱えた“真言”なのであろうかと、“人毛真言”と黒く変色した琴も拝観し、小督局の人生に触れるのでありました~

清水寺随求堂 - モリゾーのひとり言

2025/05/22 (Thu) 09:31:10

2日目。地下鉄九条駅近くのホテルで一泊し、市バス207系統で、清水道バス停で下車。朝8:30からすでに東山界隈は活気がある。人気の観光スポット、清水寺への道のりは、緩やかな坂道を上がるのだが、もうすでに外国人観光客の姿が目立ち、通りのお店も早いもので開店している所もある。
清水寺は桜・モミジの季節と、それぞれの夜間拝観で、あの清水の舞台とのコラボ写真を撮影し、何回も訪れているが、とにかく人が多いので、しばらく避けてきたのだが、「京の冬の旅」で、清水寺随求堂が公開されるとあって、朝9:00に到着するように早めに出てきた次第。
相変わらずの仁王門の石段を上がり、三重塔近くの随求堂にはすでに4、5人の先客が並んでいて、案内スタッフの数も多い。
随求堂は享保20年(1735)に建立。本尊の大随求菩薩坐像が特別開帳された2018年に一度公開されているが、それでも約22年ぶりというから、相当レア度高めな仏様である。衆生のあらゆる願いに随い、叶えてくれる功徳があるということで、1つだけ願いを聞き入れてくれるそう。
そんなありがたい仏様を、さっそく内陣へと上がらせていただき、拝観。
ガイドブックの説明によると、江戸中期に造られた高さ約1.1mの、身体は金泥、衣は金箔で施され、頭にはきらびやかな宝冠、8本の腕には剣や朔杖などの法具を持ち、手には羂索(けんじゃく)ではなく“蛇”をつかんでいる。円形光背には「大随求陀羅尼」の梵字が描かれ、台座は獅子連座と呼ばれる、獅子が台座の下で伏せている彫刻が見られ、見事な細工が施されていると。台座付近をよく見ると、薔薇なのか牡丹なのか、植物も描かれていて、かなり手の込んだ作品であることが分かり、お参り。
安らかなお顔立ちをじ~っと見入り、人々の願いを受け入れて下さる菩薩さまは「エライなぁ~」と、そのお姿を見れただけでも感謝し、一礼する。
内陣には「大随求陀羅尼」の銅板も飾られ、それを元に版画印刷された、大体45cm四方の紙も販売されていて、物珍しく見るだけにする。
もう1つ、堂下の暗闇をめぐる“胎内めぐり”がある。菩薩さまの真下(地下)に梵字で書かれた石があり、それに触れれば心願成就するという。いわば、長野善光寺の“あれ”と同じである。手すり兼数珠を頼りに、暗闇の中を進み、梵字の石のあるところは、有難く照明が灯っていて、触り、とにかく人が多いので、流れ作業のように移動。イベントを楽しむだけに集中しすぎて、気づいたら願い事はせずに終了~。
まぁ~何にせよ、菩薩さまにお会いできたことだけでも良しとし、ここに訪れることができて、感謝申し上げるのでありました~

清水寺経堂 - モリゾーのひとり言

2025/05/22 (Thu) 09:32:03

清水寺はこの日、経堂で「大涅槃図」を無料で公開していて、堂内へ失礼する。参拝客のほとんどが清水の舞台への拝観だが、経堂にはほとんどいない。
「大涅槃図」は3月15日、釈迦入滅の日(旧暦2月15)に公開される寺院が多い中、清水寺では2月に公開している。
昨年だったか、東福寺、泉涌寺、真如堂等の「大涅槃図」めぐりをしたものだが、あんな?バカでかい…いや失礼…大きすぎる「大涅槃図」よりは清水寺のは普通の?サイズである。
…と、その前に、まずは釈迦三尊像にお参り。宝冠釈迦如来の脇侍には、象に乗った普賢菩薩と、獅子に乗った****菩薩が安置され、天井を見上げれば、岡本信基作の「龍」が描かれている。この「龍」が夜になると、音羽の滝の水を飲むために経堂から抜け出すという云われがあり、清水寺の七不思議とされている。
そんな龍が頭上から釈迦三尊像を見守っている経堂は、平安時代、一切経を所蔵し、全国から学僧が集まる講堂として栄えたと伝えられている。室町時代の「清水寺参詣曼荼羅」には経堂が描かれていないので、応仁の乱によって焼失し、曼荼羅が描かれるまでの間は、建立されなかったことが予想されていて、現在の建物は、寛永10年(1633)に再建されたもので、平成12年(2000)には解体修理されたという歴史がある。
「大涅槃図」は、山田雪渓が描いた作で、東福寺や真如堂などに比べれば「大」とはいえないが、動物たちや弟子たちの嘆き、悲しむ姿や木に引っかかっている薬壺など、釈迦がお眠りになっている姿は変わっていない。「大涅槃図」を見、今年もお釈迦さまの姿に出会えるとは、もう一度手を合わせるのでありました~

八坂庚申堂 - モリゾーのひとり言

2025/05/22 (Thu) 09:33:12

清水寺から産寧坂、二年坂を下り、法観寺の五重塔が見えるとこまで来ると、そういえばこの辺に八坂庚申堂があったことを思い出す。以前訪れた時には、御朱印はなかったのだが、最近のネット検索で御朱印が授かれる情報を知り、立ち寄ってみることに。
グーグル地図を頼りに、清水寺への参拝客の人ごみを避けながら八坂庚申堂に到着。ここがいつも繁盛している理由は、カラフルな「くくり猿」の、インスタ映えする影響なのだろう、私も最初はその“節”だったのだが、ちゃんとした由縁のあるお寺であることは、「庚申」という言葉を知ってからである。「庚申」とは、干支の庚(かのえ)、申(さる)の日を意味し、この日、人間の体の中にいる三戸の虫が寝ている間に、体から抜け出して、天帝にその悪行を告げ口に行く。天帝は寿命を司る神なので、悪いことをした人に罰として寿命を縮める力が。ところが、三戸の虫は人間が寝ている間にしか体から抜け出ることができないため、抜け出せないように庚申の日は徹夜をし、告げ口を防ぐ…これを「庚申待ち」といい、平安時代の初期は、青面金剛を本尊として拝み、これは青面金剛が三戸の虫を喰う力があると信じられていたから、この日に睡眠を捧げて、一晩中一心に願い続ければ願いが叶うとされている風習があると。
…ということで、山門の屋根にいる“見ざる言わざる聞かざる”の猿たちに挨拶し、境内へ。あいかわらずのくくり猿がいくえにもカラフルにぶら下がっているお堂をカメラに収めては本堂に向かう。本堂ではTVクルーが撮影していて、何かあるのだろうかと、お参りを躊躇していると、僧侶が私に話しかけてきて、「今日は本堂内に上がれますのでどうぞ…」と促され、靴を脱いで中へ。「今日は…」ということは、普段は入れないということか、内陣の方まで案内して下さり、青面金剛像の前まで上がらせてもらうことに。
「いいんですか!?」と問いかけると、「今日は庚申の日なので…」と言い、「えっ…そうなの?」と納得。偶然訪れたこの日が、今年最初の庚申の日だったようで、ありがたくお参り。
わずか20cm程度のお前立が安置されていて、その背後には厨子があるので、青面金剛像は秘仏ということか…
青面金剛は、末法に乱れた世の衆生を救おうと、お釈迦様と阿弥陀如来様と薬師如来様が相談され、青面金剛となって現れた仏様。元は「夜叉」で、お釈迦様に出会ったことで仏教に帰依するようになり、善神となったと云われ、仏教を信じる人を全力で守るとのこと。飛鳥時代には秦河勝が秦氏の守り本尊として招来したとも。
脇侍には四天夜叉の他、不動明王、弁財天などが祀られていて、じっくりと拝観。
僧侶さんから「こんにゃく炊き」の接待をされ、本堂横の待合所へ。“お気持ち”を支払い、北の方角に向いて食す…今日は何だか、ここへ導かれたような気がして、これも何か“ご縁”ということか、御朱印も拝受し、お礼申し上げるのでありました~

高台寺 - モリゾーのひとり言

2025/05/22 (Thu) 09:34:11

八坂庚申堂から高台寺へ移動。高台寺でも「涅槃図」を公開しているということで拝観。久しぶりの高台寺は、紅葉狩りで夜間拝観に来たことが記憶にあり、もう2、3回は訪れている。豊臣秀吉の菩提を弔うために正室の北政所ねねさんが祈願し、家康がこの土地を整備して創建されたお寺。
さっそく拝観手続きをし、書院へ。いきなりの「涅槃図」の拝観となり、案内の方と談笑。話題はやはり、3月15日に催される「大涅槃図」公開の東福寺や真如堂などの話に。大きさは比べ物にならないが、釈迦入滅をきっかけに、慈しむ心を学ぶ機会であると「涅槃図」を見、手を合わせる。「涅槃図」の隣の部屋には、宝冠釈迦如来坐像が安置されていて、お参り。方丈の縁側から広がる枯山水庭園「波心の庭」を眺めては、一旦、方丈から退出し、小堀遠州作の庭園を見ながら開山堂へ。
開山堂には当寺を開山した三江紹益禅師の坐像、北政所の兄である木下家定の木像、当寺造営普請に尽力した堀直政像が安置されている。外陣の欄間には、朱雀なのか鳳凰なのかの絵が描かれていて、向かって右手側の「鳥」が、特に羽の部分が浮き上がっているように見えてすばらしい。
開山堂から霊屋(秀吉夫妻の坐像を安置)でお参り後、丘を上がるように散策路を歩けば、茶室「傘亭・時雨亭」があり、質素な佇まい。そして、緩やかな坂道を下り、竹林ゾーンへ。以前に訪れた時の夜間拝観ではライトアップされた竹の、直線的な陰影が芸術性を増し、素晴らしい光景を体感したが、昼間でもうす暗い竹林は、外国人観光客の映えスポットとなっていて、カメラに収めている姿を見、拝観終了~。
久しぶりの高台寺を訪れ、「涅槃図」にもお会いし、京都らしい風情を楽しむのでありました~

建仁寺西来院(1) - モリゾーのひとり言

2025/05/22 (Thu) 09:35:14

高台寺から東山安井の交差点に出てきて、西に下る。「京の冬の旅」企画に参加している建仁寺の塔頭寺院、西来院へ移動。建仁寺の中でも、一回も訪れたことがない西来院。初公開となる今回は、龍の天井画がメインと、ガイドブックにも載っていて、果たしてどんな寺院なのか期待が膨らむ。
建仁寺北側の北門から入ってすぐの参道坂道を上がり、山門まで来ると、京都らしい小庭に迎えられ、さっそく受付で手続きをする。書置きの御朱印が数種あり、受付の人に聞いてみると、これから拝観で見る屏風を描いた人がデザインしたもので、かなり数がある。私は本尊などのシンプル御朱印を3種拝受し、そのまま室内へ。
その屏風絵は全面金箔を背景に、唐獅子の絵が描かれていて、作者は陳漫(チェン・マン)氏。「どこかで見たような…」と、ネットで調べてみると、建仁寺霊源院でも過去に展示していて、「なるほど…」と納得。メインの天井画「白龍図」も手掛けているとのことで、それは後にして、まずは中庭や枯山水庭園を眺める。
南側の枯山水庭園は、中国の世界遺産「山我眉山」から運び込まれた巨石を揃えたもので、中央の長細く苔が生えている低い築山の周りを、白砂の波が8文字のように描かれていて、“雲”を表しているのだろうか、その背景には岩やモミジ、草木などが生えていて、2023年に作庭したというから、まだ新しい。
中庭は、正方形の空間に竹が数本、白砂から突き立ち、石甕や鉄甕を配し、中には胡蝶蘭かシクラメンかの花びらを沈めていて、作庭は梁雅臣氏と書いてある。建屋の中央に庭に光が射し込む…京都らしい佇まいを見、次の間へ。

建仁寺西来院(2) - モリゾーのひとり言

2025/05/22 (Thu) 09:36:05

横に長い広間には、本尊の地蔵菩薩、建仁寺を創建した中国の禅僧、蘭渓道隆の像があり、説明案内がある。蘭渓道隆像の中に、本人の木像の肖像彫刻の頭部が納められていると。一瞬、写真で見ると、“デスマスク!?”と思ったが違うようで、鎌倉の建長寺に安置されている同像の顔、特にくちびるが同一大であることが分かり、何のために納められていたのか…仏師の置き土産…と、最近の調査で発見されたとのことなので、面白い。
そして、天井画の「白龍図」が13m×6mの大きさで描かれている。計算したら約43畳分ということなので、かなりの大作である。陳漫氏は中国北京出身。地元の美術学校を卒業してから世界で活躍するアートディレクターの肩書を持っているらしい。
西来院は写真撮影が大丈夫なので、参拝客は寝転んで天井画をカメラに収めたりして、リラックスムード。しかし、天井ばかり見ていると、首が…ってなことになるので、限をつけて方丈へ移動。方丈にはいろんな芸術作品が展示されていて観賞。「涅槃図」「双龍図」他現代アート的な作品を見、「なるほど~」と、自分自身よくわかっていないが、わかっていないことも芸術と捉え、少しインテリジェンスな自分に酔う(なんてね…)のでありました~

にしんそば - モリゾーのひとり言

2025/05/22 (Thu) 09:36:58

昼飯タイムなので、建仁寺北門からすぐのそば屋さんへ入店。店先の看板に、レモンそばに興味を惹かれたのだが、メニューを見ると、にしんそばもあり、今日は寒いので、“レモン”じゃないな…と、にしんそばを注文。
祇園近くで食べたにしんそばと同様に、にしんの身が柔らかく、にしんの上に星形の大根が乗っていてオシャレ。感想は「旨い」のは当然で、あっという間におツユまで飲み干し、“レモン”はまた次の機会にということで、ごちそうさま~

北白川天神宮 - モリゾーのひとり言

2025/05/22 (Thu) 09:37:56

東山安居バス停から北へ、市バスを乗り継いで銀閣寺道バス停へ。以前訪れた銀閣寺近くの八神社さんと連絡が取れ、約束の時間に待ち合わせ。時間前に境内で参拝し、社務所で御朱印を拝受。アメちゃんも頂き、感謝を伝え、前の旅もこの後、北白川天神宮に寄ったのだが、宮司さんとは会えず、前々から出会えない噂もあり、御朱印はいただけなかったのだが、試しに連絡してみると、大丈夫とのことで、「うそ…」と何だかキツネにつままれたよう。
お約束の時間前に境内にたどり着き、相変わらずの広い境内を散策しお参り。社務所で宮司さんとお会いし、御朱印をお願いする。
待っている間、何気なしに鳥居に掲げられている扁額を見て、「天神宮」の「天」の字が違う。写真の通り「い」の作りが入っていて、宮司さんにそのことを聞いてみると、
「寛文13年(1673)に後陽成天皇を父に持つ照高院道晃法親王が鳥居を建てた」ということで、「昔は、あ~いう書き方もあったのではないかなぁ~」と、本当のところは分かっていないようで、何か意味があるのだろうか…
最初に建てる柱を「いの一番」ともいうが、御祭神の少彦名命は医療や医薬に御利益があるから「医=い」にしたのか…「い」ではなく「平」と考えたら、平和な世の中を望む願いが込められているのか…「夭」という字を間違えないためにしたのか…(これはない)と、妄想がとまらん。
この謎は、私の一生のどこかできっと、シナプスがつながることを願いつつ、宮司さんにお礼を述べるのでありました~

地蔵院(椿寺) - モリゾーのひとり言

2025/05/22 (Thu) 09:39:02

銀閣寺道バス停に戻り、205系統で西へ。北野白梅町バス停まで移動し、南へ下り一条通り(だったかな…)を東へと入ると、椿で有名な地蔵院がある。3月中旬から4月上旬ぐらいに、境内の椿が散るのだが、普通の椿は花ごとポトンと落ちるのに対し、当寺の椿は花びら一枚一枚落ちる珍しい椿。それを過去に見たことがあったが、今回、当寺の寺宝が拝観できるということで、2回目の訪れとなる。
山門を潜り、拝観受付で支払い、境内に失礼すると、本堂の前の「散椿」が立派に植えられていて、2月上旬ではまだ花どころかつぼみさえない状態。花が咲くのもまだまだ先と行った感じで、本堂に上がらせてもらう。
本堂内では学生ボランティアによる説明が行われていて、しばらく聞き耳を立て、初々しいというか、たどたどしいというか、ほぼ暗記したことを話している程度で、私を含め参拝客は温かく見守って拝聴している。
内陣に安置されている本尊、五劫思惟阿弥陀如来坐像は、アフロヘア―の阿弥陀さま。奈良県の五劫院や京都の金戒光明寺などで拝観したことがあるが、こちらの阿弥陀さまは顔の表情が少し微笑んでいるように見える。如来になる前の修行中の阿弥陀さまは、まだ“煩悩”があるのだろうかと、その微笑んでいる“思惟”に面白いことを想像しているに違いない。
そして、珍しい特徴は顔がふっくらとしていて、あのアフロヘア―(螺髪という)が肩にかかり、背中まであるというから、相当考え込んでいるということか…しばらく、じ~っと見ていると、ライオネル・リッチーか!(古い…)はたまた、若い頃のコロッケか!と、ツッコミを入れてみたくなるほど、あの“微笑”は、私の妄想を引き出す力があると、“微笑返し”で手を合わせる。
地蔵院は神亀3年(726)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が摂津国、昆陽池の畔に創建したと伝わる古刹。その後、京都の地に移されるが、(省略)焼失を経て、室町幕府将軍の足利義満によって地蔵菩薩を安置。秀吉の時代では、秀吉の区画整理によって現在の地に移ったとされる。
境内にある「散椿」は、北野天満宮で行われた「北野大茶会」が縁で、秀吉から寄贈された椿。一本の木に色とりどりの花が咲くことから「五色八重散椿」ともいう。
そんな「椿寺」とも呼ばれている寺宝は、“アフロの阿弥陀さま”の他に、本堂横の観音堂に安置されている十一面観音も、慈覚大師円仁による一木造りの作で、両脇には雨宝童子(左)と春日龍神(右)が祀られていて拝観。
外に出て、地蔵堂にもお参り。田畑の水を独り占めしようとした農民の一人が、鍬で頬に傷をつけた老翁、すなわち地蔵菩薩であったことを知ってから、心を改めたとする話が残る地蔵菩薩立像…実際に、頬に傷があったらしいが、修復工事でその傷はきれいにされたんだとか。
そして境内には、赤穂浪士を影で支えた大坂商人の天野屋利兵衛のお墓もあり、お参り。数々の寺宝を拝観し、当寺の歴史を知ることができて満足×2。庫裏で御朱印数種を拝受し、京都の旅はここまで~

写真は地蔵堂

また2、飛騨高山の旅 -  モリゾーのひとり言

2025/05/16 (Fri) 10:40:04

この間、宗教法人の売買が水面下で行われている情報をテレビで見たが、文化庁が調べた「不活動宗教法人」が全国で4431件あるという。お寺や神社も経営難や後継ぎがいない、後継者不足が原因で、第三者への譲渡が増えているらしい。ここにかこつけて、ブローカーが仲介ビジネスを展開し、相続税逃れやマネーロンダリングに悪用され、犯罪収益を寄附という形できれいなお金に換えている、いわば犯罪の温床となっているとのこと。地方自治体も「解教」させる取り組みをしているそうなのだが、現実は追いついてないと。
…こんな話を聞くと、寺社の経営も大変だぁ~と同時に、寺社を購入し、脱税逃れで、神仏を偽ってお金を貯める輩はいい死に方はしない…と思ってしまう。哀しい世の中ですなぁ~と、ちょっとダークな話になってしまいましたが…
さて、今回は1月上旬に訪れた飛騨の旅の紹介~

山王宮日枝神社 -  モリゾーのひとり言

2025/05/16 (Fri) 10:41:44

JRワイドビュー飛騨で高山駅に降り立つと、当たり前だが、去年の10月に訪れた時とは違い、雪も降り、寒さが身に染みる。訪れるにあたり、降雪は十分、計算の内で、ロングコートに登山靴を用意し、それなりに“暖”対策をバッチリにして来ている。
長野県松本市に1年間住んでいたこともあり、雪対策にはそれなりに対応できているはずだが、油断はならない。
1日目は前回訪れた一本杉白山神社へ再訪し、お参りをしたが、書置きの御朱印は置いておらず、社務所のポストに用意していた手紙を入れ、送って下さるようお願いする。(後日届き、その節はありがとうございました)
そこから山王宮日枝神社へ移動。春の高山祭は2回も訪れているのに、肝心な例祭を行なっている日枝神社には訪れたことはなく、こんな雪の日に訪れることになるとは…と思いながら、積雪の上をザクザクと進む。
東へと伸びる広い参道、両側に大きな杉の木々が立ち並び、人の歩いた足跡が奥へと幾重にも続き、かなり大きい神域であることが分かる。雪景色もいい具合に風情を醸し出し、時折、枝に積もった雪が落ちる…神霊が降り立つ合図のような?妄想をし、境内へ。
山王宮日枝神社は永治元年(1141)飛騨守平時輔朝臣が近江の日吉大神を勧請したのがはじまり。文禄4年(1595)、金森長近父子が飛騨に入国し、城の鎮護守として現在の地に奉還、山の神である大山咋神を御祭神として、「山王さん」と地元では親しまれている。ちなみに、「大山」は日枝(比叡)を意味し、「咋」は主(あるじ)の意味と考えられている。
参道を進み、正面には社務所、その左手に朱色の第2の鳥居が建ち、石段が上へと続いている。手水舎で身を清め、石段を上がると、御神木である大杉が出迎え、雪にも耐えている大杉は幹周りが7m、高さ43mもあると云い、存在感ある大木。
そして拝殿の前にはお正月バージョンの装いで、建屋があり、正面から見るとまるで、ガンダムのフルアーマー使用な?容姿に見え、思わずほくそ笑む。
拝殿でお参り。拝殿の左手には天満社、稲荷社、右手には産土社、富士社とあり、どの社も屋根に雪が積もる風情と化し、静寂がより厳かな雰囲気を醸し出す。雪景色が清浄を表しているかのように、身が引き締まる想いで、今年一年無事で乗り切れることを祈り、社務所へ。2種類の御朱印を拝受し、冬の日枝神社…大山咋神に感謝申し上げるのでありました~

飛騨天満宮 -  モリゾーのひとり言

2025/05/16 (Fri) 10:42:52

山王宮日枝神社から南へ移動し、飛騨天満宮を訪ねる。今回で2回目。交差点にある天満宮は何だか忙しい交通量も相まって、びしゃびしゃの灰色の雪が散らばり歩きにくい。鳥居から失礼すると、境内の地面もシャーベット状になっていて、かなり足元を気にしながら歩く。
こちらはそこそこの参拝客がいて、やはり受験シーズンの年代の方々が合格祈願で訪れている。
お正月用にスロープが設置してあるが、それが返って滑りやすくなっていて、“滑る”というワードをひとり言で言わないように脳裏をかすめ、慎重に玉垣内へと立ち入り、拝殿でお参り。
御祭神はもちろん菅原道真公であるが、当神社は道真公の3男(?)兼茂公が絡んでいる。道真公が大宰府に配流となった折、兼茂公も飛騨権掾(「掾」とは、国司の第三等官、いわゆる政府における「判官」を意味する)として謫居されたそうで、延長元年(923)に道真公をはじめ、一族の無実が認められ、勅許をもって帰都の際、飛騨の里人にいつまでも祭祀が継続するように懇願され、本官に復帰し、創建されたのが始まり。
ちなみに、3男で「?」を付けたのは、菅原一族を調べてみると、兼茂公は3男でなく、8男になっている。飛騨天満宮関連で検索すると「3男」として出てきて、なぜ「3男」なのかは分からないが、飛騨地方では異説として示されているのだろうか…と、まぁ~何にしろ、道真公の御遺徳にすがりたい?…いや失礼…地元の方の崇敬によって成り立っているのは間違いない。
雪の中でのお参りはちょっと身に沁み、引き締まる。拝所には「桧木の御朱印」の貼紙があり、社務所へ伺うと、ペラペラの紙のように薄い桧の木の材質の、書置き御朱印があり、それを拝受。お礼を述べ後にする。

飛騨護国神社 -  モリゾーのひとり言

2025/05/16 (Fri) 11:01:40

さて次は、前回も訪れた飛騨護国神社であるが、実はその時にお願いした御朱印が違っていて、よく確認せずにそのまま立ち去った私が悪いのだが、後で気づき、今回も再訪。
飛騨天満宮からバスで…と、時刻表を見るが、時間に合わず、歩いていくことに。この行動が結果、靴をダメにしてしまうことになるのだが、びちょびちょの足先を我慢して北へ向かい、20分ほどで飛騨護国神社に到着。
3ヶ月と経っていない再訪だが、一面雪景色の境内は、また違った雰囲気を醸し出し、それぞれの拝所でお参り。社務所へ伺うと、また1つ御朱印の種類が増えていて、新たに飛騨匠神社を含めた全4種類に。前回、書いて下さらなかった黄金神社と久和司神社を間違いなくお願いし、拝受。こう何回も訪れるということは、何かのご縁があるということか…深々と降り積もる雪の中で、英霊たちに今回も感謝申し上げるのでありました~

-  モリゾーのひとり言

2025/05/16 (Fri) 11:04:24

まちの博物館前バス停からバスに乗り、車内で気づいたら、靴はずぶ濡れ状態。冷たい感覚に「これはいかん!」と、高山市内の靴屋をネット検索し、バス路線上の市民文化会館バス停近くに靴屋がある事を知り、立ち寄る。
防寒・防水の靴コーナーのエリアへ行くと、「あった!」と、さすが豪雪地域の靴屋は豊富にそろっていて、長靴や雪道専用の靴まである。この高山の旅に出掛ける前に、名古屋市内の靴屋で雪道用の靴を探したが、どこも長靴ばかりで、仕方なく登山靴で大丈夫かと履いてきたが、その登山靴も使い古した感のある靴なので、もう寿命であったことは明白で、雪道を舐めていた私が悪いのだが、もう買うこと決定の、値段を見ると、正月セールなのか、そこそこに安い。
現地で靴を買うことになるとは、しかも履いていた登山靴は〇〇〇円で引き取ってくれるという、なんてありがたいサービスなんだと、靴屋さんの温情に感謝し、新しい靴で復活。
今日はもう、駅近くのホテルに泊まるだけだが、その前に明日行く、白川郷への高速バス予約をしないといけないので、飛騨バスターミナル受付へ移動し、手続き。高山発9:00のバスは満席、始発の7:20だと空いているという。仕方がないので、始発を選択し、やはりこの時期の白川郷は人気の観光スポットなので、とりあえず席を確保でき一安心。ホテルで一泊し就寝…。

写真は飛騨天満宮の手水舎

白川郷展望台 -  モリゾーのひとり言

2025/05/16 (Fri) 11:05:38

翌朝。富山行き7:20発のバスに乗るため、15分前ぐらいにバスターミナルへ行くと、行列が。そのほとんどが外国人で、ほとんどというか、私以外日本人はいない。そんな始発なのに、満車状態のバスは揺られること50分ほどで白川郷に到着。
この日も止むことない雪の中、まずは展望台を目指すのだが、方向感覚が分からず、バスの運転手に聞いて、指し示す坂道を教えてくれ、お礼を述べ向かう。
観光客向けに、かなり整備された道路や立て看板が設置されていて分かりやすくなっていて、合掌造りの家々を眺めながら中腹へと向かう坂道をひたすら上がる。20分ほどで到着。晴れていれば絶景が拝めたであろう今日の天候は、朝から降雪が続く気配で、ホワイトアウトまではいかないが、全体が白くぼやけてしまうほど、くっきりとは見えない。
観光協会の判断で降雪量が多いと、展望台は封鎖されてしまうので、まだ来れただけでも良しとし、しばらく白川郷の風景を楽しむ。展望台には飲食のできる施設もあるが、早朝ではまだ営業しておらず、限をつけ下山する。

白川郷界隈 -  モリゾーのひとり言

2025/05/16 (Fri) 11:06:28

白川郷は地図を見ると、おみやげや食事のできる表街道と、集落を散策できる裏街道があるようで、裏街道を進む。道路の脇には水路が流れ、水の透明度から良い水質と分かるくらいに、しかも雪解け水の冷たい感覚が視覚だけで伝わり、一向に降り止まない雪がより寒さを助長させるような、そんな中で、同じ方角を向く合掌造りの家々を眺めては、整備された道路には雪は積もっておらず、地熱式の特別仕様の道路なのだろうかと思いながら、観光地としての“おもてなし”を感じ、まだ人の賑わいのない静かな雪景色を堪能。
雪だるまも手を広げ、“歓迎~”と言っているような陽気な笑顔でいて、こちらも自然と笑顔がこぼれる。
白川郷は飛騨地域の中でも険しい地形に、急斜面地を縫う庄川が流れ、その流域に形成された集落。夏は涼しく過ごしやすいが、冬は積雪170cm以上になる豪雪地帯で、そんな中で住民同士の相互扶助の営みが根強く、「結」の心を大切にしている。厳しい自然条件の中で、村をあげてみんなで協力する…特に茅葺屋根の吹き替えなどは、先人たちの生活の知恵を取り入れ、木の梁を山型に組み合わせて建てる…それは、掌を合わせる「合掌」に見えることから“合掌造り”と呼ぶようになり、雪質が重い白川郷の自然環境に適した構造となっている。急勾配の屋根は雪下ろしの作業軽減もあるのだろうが、それにしてもよく造れるものだと感心し、散策は続く。

明善寺鐘楼門 -  モリゾーのひとり言

2025/05/16 (Fri) 11:07:24

道なりに進むと、明善寺の庫裏まで来たが、まだ開いておらず、入館するにはまだ早いので、先の鐘楼門、本堂の境内へ移動。境内と言っても雪に埋もれているので、どこまでの範囲が境内なのかも分からず、建物だけを頼りに向かう。
まず、道沿いにある鐘楼門。中々、味のある造りで、屋根は茅葺き構造、4本の柱に支え木で2本、計6本で支え、明善寺創建以来の建造物らしい。人足、1425人を要したと記されていることから、ここでも「結」の精神が生きづいている。大晦日には除夜の鐘でも鳴るのだろう…雪深い中での“ゆく年くる年”が想像でき、「風情あるなぁ~」と見上げる。
鐘楼門を潜り、本堂へ。本堂は屋根から落ちる雪除けのためか、本堂側面にビニールを張り付けて久を造り、その周りは雪が本堂を取り囲むように雪深い。
本堂は飛騨高山の国分寺の七重塔建立を手掛けたあの棟梁が建築。屋根はもちろん茅葺きで、こちらは9192人の人足であるというから、村総出で手伝ったに違いない。
本堂でお参り。雪の中でのお参りは、こうも厳粛な気分にさせる効果があるものなのかと、座禅をしたときの感覚に似ていて、スッキリした状態で次へ。

白川八幡神社 -  モリゾーのひとり言

2025/05/16 (Fri) 11:08:20

明善寺から表街道に出てきて、白川八幡神社へ。鳥居の先の境内は明善寺同様、積雪で境内の広さが分からない。本殿の他、2つの建造物が配され、とりあえずは手水舎で身を清める。
冷たすぎる水の“洗礼”を受け、周りの空気がこもっているかのような静けさの中、こちらも拝殿にビニールの囲いがしてあり、少しは暖かい空間でお参り。
白川八幡神社はネットによると、正確にはいつ創建されたのかは分からないが、かなり古い起源であるとのこと。歴史の記録に登場した最初は、17世紀に内ケ島の代わりに萩町を統治した武将の山下氏勝によって再建された時で、本殿の隣に建てられている釈迦堂も同じ時代で、神仏習合の名残が表されている。釈迦堂は寛永4年(1627)に山下氏によって建立されたが、山下氏が徳川家康から名古屋城築城の命を受けた際に、諸国の彫刻家に彫らせた阿弥陀、釈迦、日輪、月輪の4躰の像が山下家の氏神として崇敬されてきたと云われていて、この4躰が安置されているかどうかは、中を覗くことができないので分からないが、案内には“納められている”とあるので、安置されているのだろう釈迦堂にもお参り。
本殿の左隣には「神酒殿」という建造物もあり、そこで神社のお神酒が造られ、毎年10月14、15日に行われる「どぶろく祭り」が有名で、農業シーズンの終わりに収穫を神に感謝するための“祝い”の祭りで、当日は参拝者にもお神酒が振舞われるという。この祭りを前々から行きたいとは思っているのだが、タイミングが合わず、いつかまた訪れたいと願う。
積雪の中の境内…ネットの写真を見るまでは、境内の敷地が狭いと思っていたが、やはり雪の視覚効果は計り知れないと、この時期の冬景色を楽しむのでありました~

であい橋 -  モリゾーのひとり言

2025/05/16 (Fri) 11:09:13

白川八幡神社の社務所には、御朱印の郵送依頼は受け付けていないと貼紙があり、どぶろく祭りの時だけにしか頒布してないので、仕方がない。諦めて表街道へ移動し、道標に従い、次の目的地、「合掌造り民家園」へ行くため、庄川から西のエリアに架かる橋を渡る。
かなり長い吊り橋であるが、足元はコンクリート製で揺れも感じないほどに、足元が竦むほどの高さでもなく、快適に渡れる橋だが、人の多い観光地…大勢乗ったら…100人乗っても大丈夫…的なことなのだろうと、一休さんのように“気にしない~”と渡る。
周りの景色を眺め、“山河”とはこういう景色を言うのだろうと、素晴らしい景観を拝み、せせらぎ公園へと向かう。

合掌造り民家園(1) -  モリゾーのひとり言

2025/05/16 (Fri) 11:10:12

広い駐車場には、観光バスからぞくぞくと降りてくるツアー客がいて、ツアーコンダクターが率いる団体がであい橋へと誘導し、その姿をしばらく見る。橋は大人数でも本当に大丈夫なのだろうかと…それにしても、外国人率が高い。この間、テレビのニュースで、札幌雪祭りのスタッフに雪玉を当て、どんな反応があるかを撮影していた外国人がいて、それを見ていた同じ外国人が注意し、その日本人スタッフを宥めていた動画を見たが、不愉快極まりない行為に腹が立つ。外国人のフォローがなければ、どうなっていたであろうかと。こういうマナーのない外国人(に限ったことではなく、日本人もそうだが…)は、その国のルールくらい学んでから来日して楽しんでいただきたいものだと思う。
…と、話が逸れてしまったが、駐車場から民家園へ向かう途中には、おみやげ屋やお食事処があり、まだ営業時間にもなっていないのでスルーして正門へ。
園内の受付で手続きを済ませ、傍らには長靴のレンタルなどの対応も充実していて、さっそく中へ。
合掌造り民家園は、かつて岐阜県と富山県の県境にあった馬狩集落はトヨタ自動車に買収され、加須良集落は昭和42年(1964)に集団離村したことにより消滅し、合掌造りなどの建造物をここ、白川郷に移築。全25棟他、水車小屋や神社など、当時の暮らしや文化をそのまま伝えている“野外博物館”と謳っている。
道順通り緩やかな坂を進むと、まずは“かたりべの館”と呼ばれる一般民家の合掌造りから失礼し、室内の1階はビデオ観賞、2階には養蚕の道具やレプリカ模型が展示、3階は大きな梁の骨組みが分かる“屋根裏部屋”…といっても、かなり広いスペースとなっているが、雪国で暮らす生活の知恵が垣間見える。

合掌造り民家園(2) -  モリゾーのひとり言

2025/05/16 (Fri) 11:11:02

そんな合掌造りがいくつも配されている園内を廻り、凍った池の表面に雪が降りしきり湯気が出ている光景や、茅葺屋根に積もる雪の風景など、どこから切り取っても絵になる景色が拝め、中々良い雰囲気。
意外と人が少ない園内は、ゆったりと自分のペースで散策することができ、久から覗き込んで屋内に入れるかどうかを繰り返し、いつしか、“お休み処”という家屋に。
中に入ると、火の点いた囲炉裏をステージに、おばちゃんが「どうぞどうそ」ともてなしてくれ、ちょっとした軽食にぜんざいをお願いし、食す。やさしい味のぜんざいを味わい、ホッと一息。囲炉裏の火がより暖かさを増し、田舎風情の伝統が感じられる良さを体感。
その後も園内を散策し、静かなる冬景色を堪能するのでありました~

明善寺庫裏 -  モリゾーのひとり言

2025/05/16 (Fri) 11:12:09

民家園から来た道を戻り、であい橋では、来た時よりも多くの観光客がひっきりなしに往来している。白川郷界隈からもう一度、明善寺へ移動し、営業時間中の庫裏へ失礼し、受付を済ませる。
明善寺の縁起によると、延宝8年(1680)に白川村の本覚寺が真宗大谷派から本願寺派へと転化した際に、大谷派本山は阿弥陀如来と名号を取り上げて、村内の大谷派の門徒に与えた処置をする。元文元年(1736)、玄西が再び大谷派の寺院を創建したことにより、延享元年(1744)、本山より寺号を許されて明善寺と称すようになる。
そんな中で文化12年(1817)に庫裏は建立され、飛騨高山の棟梁や地方の村民の協力のもと、3年の歳月で完成したという。針や鎹(かすがい)を一切使わず、雪を落とすための60度に近い傾斜を保つ切妻屋根は、茅葺きで施し、合掌造りそのままの特徴を生かし、強固な建造物としての“郷土館”として残っている。
こちらの庫裏は白川郷の中でも、5階建ての最大のもので、檜の柱に焚火の煙で漆塗りのような光沢を放っているほどだと。
さっそく順路通り進み、2階以上、養蚕で使われた器具や農具が展示され、1つ1つ見学していく。内部の造りは民家園で見た合掌造りとほぼ同じ構造で、その雰囲気を楽しみ、1階へ移動し仏間へ。
阿弥陀如来さまにお参りし、堂内の障子の上に描かれた絵の数々。人間国宝(だったかな?)浜田泰介作のいろんな富士山の絵が描かれていて、一種のアトリエのように観賞。囲炉裏の居間へと移動し、小休止。四角い囲炉裏の周りに置かれた薄い座布団に座り、周りを見回す。
天井は煙が屋根裏まで届くようにスノコ状になっていて、煤でいぶされた梁や板間は黒く、住居の耐久性を高める生活の知恵があり、囲炉裏の上に吊ってある「火天(ひあま)」という板が、立ち昇る火の粉を遮断し、熱と煙を分散させる機能があることを知り、昔の人はよく考えているものだと感心する。
白川郷での生活は、豪雪に耐えられる先人たちからのアイデアによって引き継がれていることを内覧で知り、この囲炉裏の空間を肌で体感。白川郷の歴史を垣間見るのでありました~


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