寺社仏閣 ご朱印の旅
また3、福井の旅(3) - モリゾーのひとり言
2026/07/29 (Wed) 19:13:58
名古屋は酷暑日が続き、暑い暑い。まだ7月だというのに、8月はどうなってしまうのだろうかと、エアコン連続稼働に壊れないか心配で、停電になったら最悪と、熊本地震のニュースを見て、他人ごとではないと実感する。明日は我が身…何かと負の連鎖が起こらないことを願いつつ、福井の旅の最終日を紹介~
(私事ながら、11月ぐらいまで旅行はしないつもりなので、あしからず…)
金津神社 - モリゾーのひとり言
2026/07/29 (Wed) 19:14:49
3日目。三国の町を去り、最終日は丸岡方面を目指す。今日はあいにくの雨の中、龍翔博物館バス停から芦原温泉行きのバスに乗って、終点の1つ前の金津水口バス停で下車する。
三国町の東に位置する芦原温泉は、昔は、初日に訪れた春日神社で書いた通り、春日社兼興福寺領として発展した場所で、その坪江庄に総社として鎮座したのが金津神社。永仁6年(1298)、春日分神を合祀し、「芦原・大溝神社」または「春日大明神」と奉称される。バス停から1本道を入った参道からは鳥居が建っていて、図書館のような施設が見え、参道途中には河濯(かわそ)神社の小さな社が建ち、穢れを祓う神…御祭神は瀬織津比比賣命、云々と書いてある案内板を見、ここでしっかりお参り。
鳥居から先、徐々に鬱蒼と茂る背の高い木々に囲まれ、石段を上がると、開けた境内、正面にコンクリート製の社殿、左手に市姫神社、金山神社が建っている。拝殿前には立派な灯籠があり、荒れ狂う波に龍がうねっている姿の彫刻が素晴らしく、境内にその存在を示している。
拝殿でお参り。拝所には書置きの御朱印が置いてあり、福井県で催されている「御竜印」もあり、拝受。サツキが見頃を迎える中、コンクリート製の社殿は昭和23年の福井地震の影響なのだろうと、かなりがっちりな佇まいの社殿を拝み、芦原温泉駅へと向かう。
称念寺 - モリゾーのひとり言
2026/07/29 (Wed) 19:15:45
北陸新幹線の開通とともにJR芦原温泉駅はかなりお金を掛けた?整備された駅だと、待機場所が気持ちいいほどに広い。電光掲示板も新幹線、在来線の時刻だけでなく、京福バスの時刻も表示され、分かりやすい。
JR芦原温泉駅から南のJR春江駅へ移動し、駅から少し離れた春江駅前バス停で待つ。1日に3本しかない路線の正午過ぎの2本目のバスに乗り、日東シンコースタジアム丸岡前バス停で下車し、麦畑が広がる中の風景を見ながら新幹線の高架橋下を歩き、称念寺に到着。
こちらには新田義貞公のお墓、明智光秀公が10年間居住し、細川ガラシャが生まれた地でもあるゆかりのお寺で、山門からして立派な佇まいをしている。
山門を潜ると、木々生い茂る中の参道正面に本堂、左手に新田義貞公のお墓、二重塔?、松尾芭蕉碑、宝篋印塔等々、配置されていて、情報量が多い。
まずは本堂でお参りし、新田義貞公のお墓へ。唐破風屋根の付いた立派な門が塞ぎ、戸の隙間から奥を覗くと、玉垣に囲まれた五輪塔が建っていて、上からヤマボウシの木が覆い、白い花を咲かせている。案内看板には、称念寺は時宗の長崎道場と呼ばれ、南北朝の動乱時代に戦死した新田義貞公の遺骸を、時宗の僧8人が担いで、当寺に葬られたことが「太平記」に記録されているとある。室町将軍家は寺領を寄進し、将軍家の祈祷所として御花園天皇や後奈良天皇の住職を務め、上人号の称号を勅許されるほど、称念寺は寺格を高めたよう。
(省略)明治に入り、寺領を没収され(徳川将軍家が新田氏の先祖に当たるため)、無住に。新田義貞公や称念寺の歴史を惜しむ人々が力を合わせて、大正13年(1924)に再建された云々と、当寺が天皇、将軍家とかなり関わりがあったことが分かり、墓前で手を合わせ、次は明智光秀。
斎藤義龍との戦いに敗れた光秀は、弘治2年(1556)、妻の煕子らとともに美濃からこの地に逃れてきて、称念寺の近辺に10年間住んでいたという記録が残っている。光秀は門前に寺子屋を開いて、学問を教えつつ、往来する僧らと交流を持って各地の情報や知識を得ていたと伝えられている。そんな中での、後に細川ガラシャとなる娘「玉」が誕生するなど、幸せな日々を暮らしていたのだろうと想像する。光秀夫婦には「黒髪伝説」なる絆の話がある。当時の光秀は浪人の身分であったが、ある日、朝倉家の家臣と連歌会の機会があり、その資金を妻が黒髪を売って賄ったという話。何も知らなかった光秀は、髪を売った妻のことを想い、出世する決意を固く誓い、その後の活躍はご存知のとおりだが、ここで暮らしていた日々は充実した生活だったんだろうと、改めて偲ぶ。
御朱印はこちらも拝所に置いてあり、拝受し、義貞公、光秀公に感謝申し上げるのでありました~
國神神社 - モリゾーのひとり言
2026/07/29 (Wed) 19:16:34
称念寺から北へ。笹和田バス停から丸岡バスターミナルへバスに乗り移動し、丸岡城方面を目指し向かう。ここは、坂井市丸岡町。JR丸岡駅から東へ4kmほどの所に丸岡城はあり、普通はバスターミナルといえば、駅前にあるのだが、丸岡城の近くにあるので、電車で来た人はちょっと不便かもと思う。
バスターミナルから北東へ、丸岡城の南に鎮座してある國神神社へまずは訪れる。
國神神社の御祭神は椀子(まるこ)皇子。継体天皇と倭媛との間に生まれた子で、今ある丸岡城の丘、「磨留古乎加(まるこのおか)」で降誕。その胞衣を埋めて神明社としたのが創建と伝えられている。
かつて、磨留古乎加の土地は湿地帯であり、この地域の坂中井平野の治水開拓を進め、尽力した皇子は、国土開発の守護神として崇められている。天正4年(1576)に柴田勝豊(勝家の甥)が丸岡城を築くにあたり、神社を現在地に遷座し、歴代の城主より社殿の造営や修繕など、篤く崇敬され、(省略)明治に入り、継体天皇の母君である振媛命と応神天皇を祀る高向神社(高椋村にあった神社)を合祀。昭和の福井地震で焼失、復興の際、境内社の霞城神社(有馬晴信公:丸岡藩有馬家の祖)を合祀して、今も丸岡の町を見守っている。
そんな神社の鳥居を潜り、境内に失礼すると、整備された敷地に参道石畳、左手には社務所兼氏子会館、正面に東を背にして社殿が建っている。
拝殿でお参り。社殿右手には朱色の“お稲荷さん”も祀られていて、地元の方だろうか、小雨の中、お参りに数人で来ていて、地元の人の崇敬を垣間見る。
社務所で御朱印を拝受し、丸岡城へ。
丸岡城 - モリゾーのひとり言
2026/07/29 (Wed) 19:17:24
北へ数分、高台に建つ丸岡城天守を見上げ、麓にはイベントでもできそうな広場となっている。登城入口にはサツキの花が見頃を迎え、雨さえ降ってなければ…と、石垣が碧ビニールシートで一部覆われていて、「修復中かな…」と、とりあえず“攻略開始”。
東側から階段を北へと周り込むように歩くと、石垣にへばりつく人の姿が。梯子を使い、作業員が2人調査なのか修復なのか分からないが、石垣を診ている。雨の中、大変だなぁ~と思いながら、天守入口受付のとこまで来ると、どしゃぶりの雨に見舞われ、奥にいる警備員さんが「入れるよ~」と促している。受付の方に話を少し聞いてみると、工事の関係で一部見学できないとのことで、秋口ごろに完了予定だと。何だか雨のせいにしたくはないが、どうせ見るなら完了してからの方が…と、入る気が失せ、今回はパス。
城郭周りの雰囲気を味わうだけにして、西側階段から下る。
…ということで、丸岡城について簡単に…戦国時代一向一揆の備えとして織田信長が命じる柴田勝家の甥の勝豊が築き、(省略)何人か城主が変わり、江戸時代には本多氏や有馬氏が城主を務め、城下町や用水の整備を行った経緯。明治に入り、廃藩置県により丸岡藩はなくなり、廃城令ともなるが、天守だけが残る形となり、昭和の戦争を経て、福井の大地震と、消滅の危機になったが、地元有志が私財を出し合い、天守を買い戻して「寺」として20年以上使われ、明治34年(1959)に町に寄贈され公会堂となり、昭和9年(1934)に国宝に指定、全国から寄付を集め修復。昭和30年(1963)に復元された。つまり、江戸時代以前に建てられた現存天守で、城マニア?からもかなり貴重なお城であることが窺える。
そんな天守を見上げながら階段を下ると、池が見えてきて、オシャレな建物、メインの広い駐車場に到着。雨が本降りとなり、施設内で少し休憩をし、ガラス越しに見える天守を眺めては、いつかまた、訪れることを約束し、仰ぎ見るのでありました~
高岳寺 - モリゾーのひとり言
2026/07/29 (Wed) 19:18:17
丸岡城から西へ移動。丸岡高校より南に位置する高岳寺を目指す。田畑が広がる中を歩き、雨だからか、人っ子一人すれ違わない丸岡の町の雰囲気を味わいつつ、集落の木々生い茂る入り口から失礼する。
一列に並ぶ六地蔵が出迎える中、境内は静かな佇まいを見せ、本堂、左手には庫裏、その周りには庭園というほどでもない季節の草木が生えている植物が青々と茂っている。
高岳寺は江戸時代に丸岡藩を務めた有馬家の菩提寺。なので、有馬家歴代の墓所があるということでお参りに訪れた次第。
本堂前には木彫りの鬼不動が立ち、元三大師の護符が紹介されていて、まずはお参り。
HPには拝観ができるということで、庫裏へ向かいピンポーンすると、住職さんとご挨拶。庫裏だと思っていた建物は不動堂で、お焚き上げができる祭壇、その奥に不動明王像が祀られている。御朱印を書いて下さる間、今日はこの後、お客様が来る予定で、拝観はできないとのことで、有馬家のお墓は拝めず残念~。そのかわり、当寺の説明をして下さり、元々は、明暦元年(1655)に16代目の有馬康純が日向国延岡(現在の宮崎県延岡市)に建立したのが始まりで、後に丸岡に地に移封に伴って、当寺も引っ越したと。有馬家といえば、有馬晴信、直純親子。晴信は肥前国(長崎)のキリシタン大名で、幕府高官を巻き込んだ贈収賄事件を起こして、自害。直純に関してはキリシタンであった正室と離縁し、キリシタン弾圧をするほど徳川家に忠誠を誓い、徳川家康の近習を勤め、本多忠勝の孫である国姫を正室に迎えるなど、有馬家存続のため、生き残りをかけたことで知られる。ちなみに、国姫との駿府城内で婚礼の儀が行われた「扇打ちの婿選び」の逸話があるが、ここは省略して(調べてね…)、有馬家が紆余曲折して築いてきた繁栄を当寺とともに歴史を刻んできたんだなぁ~と、住職さんとしばらく談笑し、名古屋からの訪れに労って下さり、感謝×2。
境内を後にし、4代に渡って藩政を務めた本多家のお墓がある本光寺、有馬直純夫婦のお墓がある白道寺を訪ね、お参り。丸岡の城下町の雰囲気を味わい、今回の福井の旅はここまで~
また3、福井の旅(2) - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:14:47
引き続き、福井の旅、2日目~
瀧谷寺(1) - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:15:42
2日目。三国祭は、メインの中日であるが、まずはホテルから西へ1kmほど歩いた所にある瀧谷寺を訪ねる。朝8:00から拝観可能ということで、8:30頃に受付小屋にたどり着くと、案内の方がいて「おはようございます」とご挨拶。丁寧に境内の順路を教えてもらい、自然林に囲まれた参道を歩く。
山門までの石畳、周りは杉の木立、椿の木々が生え、鬱蒼とした雰囲気に、心が清浄されるかのように整えられていく。山門は鐘楼門として、柴田勝家公が寄進したもので立派。山門を潜った先の境内は、正面に本堂、左手に庫裏、右手に観音堂と、それぞれ廊下で繋がれている。庫裏から失礼して、ここでも案内の方にご挨拶。本堂で当寺の説明をして下さり、本尊の薬師如来像にお参り。
当寺は、南北朝時代の永和元年(1375)、紀州根来寺の学頭の睿憲(えいけん)上人の創建。当時、この地を支配していた奈良大乗院が寺領500石を寄進し、伽藍の造営を助けて以来、越前の歴代領主が祈願所として栄えたとのこと。国宝や重文の宝物が数多く所蔵しているそうで、名勝庭園も見どころの1つ。観音堂に祀られている如意輪観音像は厨子に収まって見ることは叶わないが、小さなお前立が安置されているという。
本堂からの眺めは石庭となっていて、9つの石を“心字”として配し、観世音菩薩の慈悲を表したものであると、案内が終わり、しばらく石庭を眺める。
瀧谷寺(2) - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:16:42
本堂から観音堂、観音堂から北側への廊下を伝い、名勝庭園へ移動。文部省より福井県で初めて指定を受けた庭園で、515坪、1700平方mの広さを誇る。誰が作庭したのかは不明であるが、慶長年間から徳川中期に作られたそうで、書院に渡って丘陵の斜面を築山として、小池や露岩、灯籠などを配し、椎や松などの木々、低木のサツキやツツジが活かされている。
朝陽を受け、新緑が映える庭園を眺め、ここでもしばらく観賞。受付に戻ってきて、御朱印3種を拝受し、一旦、外に出て、宝物殿へ移動。かなり立派な、天平時代を思わせるような建物に入り、宝物を拝観。
正面の金剛曼荼羅からはじまり、領主の花押の入った触書や古文書、金箔の細い線を貼って描かれた「絹木着色地蔵菩薩図像」、室町以前の星座が描かれた星図「天之図」、中でも、国宝である「金剛毛彫宝相華文馨」は珍しいとのこと。見た目、バットマンのシンボルマークのような形をしていて、モノが何なのか分からなかったが、どうやら仏具のようで、「馨(けい、きた)」という中国古来の打楽器とのこと。
銅に金メッキと施した金属製で、への字型の金属製の板を吊るし、小型の橦木で叩いて音を出す。中央には蓮華を象(かたど)った模様が彫られ、周辺の魚々子(ななこ)と呼ばれる点描で施され、平安時代の技術的価値が詰まっていることが珍しいんだとか。
法要や読経の時に使用するので、今まで素通りして音を逃していたのだろう、何となく鉦(かね)のイメージをし、「へぇ~」と見入る。
寺宝を堪能し、案内の方と少し談笑。今日は三国祭で、町挙げての、ほとんどの方が祭りの手伝いをしているそうで、いろいろと情報を教わり、お礼を述べ後にする。
三国祭(1) - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:17:41
瀧谷寺からえちぜん鉄道の線路を越え南へ。天照大神と継体天皇を祀る神明神社でお参りし、鳥居近くには山車を納める蔵があり、扉が観音開きで、もぬけの殻となっている。山車は三国神社へ集まるための巡行で出発したのだろうと、この地域は今は静かである。
ここは瀧谷区のエリアで、三国神社から西へ2kmほど離れた地域で、今年は遠山金四郎の人形の山車。前日にホテルでいただいた山車巡行の地図を見、それを見ながらここから散策開始をする。
三国神社を目指し、東へ歩いて行くと、街道にはどの店も提灯が飾られ町一色、三国祭の盛り上がりが感じ取れる。巡行中の山車に出会い、狭い道を掛け声とともに移動する山車、続けて“音楽隊”の手押し車の小さいバージョンが抜け、ゆっくりと後に続く。
三国神社 - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:18:42
鳥居前に到着すると、縦に長い幟が立ち、石段、神門周りは観光客でにぎわいを見せている。境内にも屋台が並ぶ中、木々が生い茂る社地は、普段ならば静かな境内であろうと想像でき、さすがに今日は平日にもかかわらず、祭りは特別、学校も休みなのだろう、子供たちやら参拝客やらで人が多い。
拝殿でお参り。その後、神職の方々が行列を成して拝殿内へと上がり、祭事が行われるのだろう、祝詞や柏手を打つのが聞こえてきて、周りのギャラリーたちもその祭事を見守っている。
三国神社の御祭神は、大山咋命と継体天皇。永禄9年(1566)に創建、元は天王宮と称していた。遡ること天文9年(1340)、竹田川の支流の兵庫川から流れてきた御神体を住人が拾い、当地の正智院に納め、境内に小社を建てたのが始まりらしい。明治に入り、山王宮からここの地名が「桜宮」ということから桜宮神社と改称、明治5年(1872)に近くにあった継体天皇を祀る水内宮を合祀し、13年後に三国神社と改称し、現在に至る。
境内には八幡神社、木立神社と、拝殿の左手側に並んで建っていて、八幡神社の拝所上には龍と鯉?、布袋さんのようなおじさんの彫刻が飾られている。そういえば、拝殿の唐破風下にも猿や鳳凰の彫刻が施されていたが、後にネットで調べてみると、「群猿像」といって、作者は江戸時代後期の三国の名士である、志摩乗時。子育てや相撲をしている姿など、表情豊かな18匹の猿の彫刻であると。この志摩乗時の高弟、島雪斎(初代竜斎)という、境内にある神馬像を彫刻した人物がいて、師匠の乗時からは「我門徒多しといえど、彼に及ぶものなし」と言わせるほど、腕前はピカ一であったと。
雪斎はその高い技術力から御用職人に取り立てられ、福井藩主の松平春嶽が京都へ上洛した際には、朝廷に紫檀の書棚を献上し、法橋(ほっきょう)の宮(僧侶に準じて与えられる称号)を賜ったほど。春嶽とのエピソードもあり、神馬を彫刻中の雪斎の元を訪ねた春嶽。「このような大きなものを一人で刻むのか」と声を掛けたその時、春嶽の乗っていた馬が3回いななき、神馬像が生き馬のようであったことから、わが馬に「おまえの連れの馬か」と言って、引き揚げたそうな。
その神馬像の写真を見たが、本物の馬と見間違えるのも納得の、精巧にできた造りで、今にも動きだしそうなリアル感が見て取れる。
そんな春嶽を称え、春嶽像も明治6年(1873)、雪斎が造り、木立神社に祀られているということからも、殿内は見れないが(ネットにも写真が載っていない…)、“リアル春嶽像”が存在しているのだろうと想像する。
もう一度、神事が行われている中を、「群猿像」を見上げながら、ギャラリーたちと一緒に見守る。
三国祭(2) - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:19:47
パンフレットを見ると、鳥居前の参道に正午ごろから山車が6基、勢ぞろいしてお囃子の競演が行われるとのことで、脇の駐車場で待機し、山車が徐々に並び、観光客や祭り関係者、警察官やらでごった返す中、撮影に夢中になり、いよいよ山車が勢ぞろい。
傍らに置かれたお神輿に、宮司が先ほどまで拝殿で神様を自分の身体に乗り移らせるための神事が終わったのだろう、鳥居を駆け抜け、私の目の前を宮司が通り、モンゴルのホーミーの音に似た「ビー」という音を発しながら、神様をお神輿へ乗っける作法をしている。
その後、太鼓の音色とともに子供たちによるお囃子が始まり、町に神様を歓迎するかのように響く。しばらく祭りの雰囲気を味わい、お囃子の後、午後からは山車が町を巡行する予定なので、一旦、祭りから離れることに。
氷川神社 - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:20:54
人の波を避け、町の北側の細い路地を歩き、駅前の氷川神社に立ち寄る。鳥居からの境内は、人っ子一人いない静けさだけが空気を包み、社務所を見ると、引戸が開けっ放しの無人状態で、三国祭の手伝いで出掛けているのだろう、ちょっと不用心である。
境内はそこそこに広く、右奥に見える赤い社殿は稲荷社だろう、“きつね”も鎮座していて、案内看板があるので読んでみる。
往古は「枚岡神社」と称し、枚岡山に鎮座していて、後に足羽神社に付属したと云われている。現在地に落ち着いたのが万治2年(1659)で、当時は牛頭天王宮とも称されていた。蔵の建て替えをする際、保管されていたものを整理していると、漆塗りで金文字の「牛頭天王」と書かれた、ケヤキの木に彫られた額が大小4つ出てきて、地元では氷川神社のことを「天王さん」と呼んでいるらしい。
「氷川神社」に改称されたのが明治時代、社殿は文政3年(1820)に建てられたもので、鳥居に掲げられている「氷川神社」の額は、勝海舟が書いたもので、原書は掛け軸となって保管されているそうな。
そして、当神社のお神輿は、三国の職人によって造られており、彫刻は志摩義時。三国神社で紹介した志摩乗時の次男で、義時の子が2代目“竜斎”を継いだとのこと。
拝所の彫物は、秋田屋宇エ門という方で、この方、乗時の弟子で、乗時没後は義時の弟子に師事し、浄願寺にある義時のお墓には、秋田屋宇エ門の門徒の名が刻まれていると。
「なるほど~」と、山車の上に乗っている“武将人形たち”は、三国職人たちの伝統が連綿と受け継がれていると、改めて納得し、北陸地方は石川県加賀の金箔技術もしかり、伝統技術が盛んな地域が多いのかもしれない。
拝殿でお参り。拝所には書置きの御朱印が置いてあり、拝受。御祭神の須佐之男命に感謝申し上げるのでありました~
東尋坊 - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:22:12
三国駅のバスターミナルから芦原温泉駅行きのバスに乗って、東尋坊バス停で下車。子供の頃に訪れたとはいえ、まったく記憶がなく、テレビとかで見る、あの、断崖絶壁の風景はイメージできているのだが…
ということで、福井県屈指の観光地というだけあって駐車場が広い。平日で、午後の曇り空という天候もあって?、車の数は少なく、近くのホテルだか分からない建物は廃業したのだろう、虚しく仕切りのロープが風に揺れている。
東尋坊タワーという、子供の頃にあったかなぁ~という…異質な?建物は営業しているようで、眺めは最高にちがいないだろうと、まずは“岩”を見に坂道を歩く。
両サイド、おみやげや食事処が並ぶ“商店街”は、目移りしっぱなしの、そこそこの観光客でにぎわう通りで、時間があれば…ということで、先を急ぐ。
上りから下りへ階段を進むと、日本海が開け、そして、ゴツゴツとした岩肌が足元を捉え、ここに来ると誰しも身が引き締まるのだろう、落ちたりコケたりしないよう、気を整えるため一旦立ち止まり、足を踏み出す。
東尋坊は、福井県にある平泉寺の僧侶「東尋坊」が恋敵との争いの末に、海に突き落とされ、その恨みから海が荒れたという、寿永元年(1182)に発生したとされる事件から来ている。昭和10年(1935)に天然記念物および名勝に指定され、断崖は主に輝石安山岩でできていて、約1200年~1300年前の火山活動によって形成され、その後、日本海の波の浸食によってできた「海食崖(かいしょくがい)」と呼ばれる地形になり、柱状節理や奇岩群の岩肌など、地質学的にも非常に貴重であるという。
そんな東尋坊へ、気を付けて崖を覗き込むと、分かってはいるが、足が竦むほどにスリルを感じることができ、やはり、火スペのドラマが頭をよぎる。昔は実際に、自殺者が出るほど(今も?)の名勝?となっていて、その供養をするお寺も近くに存在しているのだが、子供の頃にはそんな情報しかなく、恐ろしい場所だとイメージしていた。が、今はその景観が素晴らしいと思えるほどの大人になり、自然の情景を感じ取ることができる余裕があり、先端までは行かないが、散策を続け、撮影に夢中になる。
絶景をしばらく見ていると、何だか切なく、寂寥感に似た風景を醸し出しているのは、海で眠ってらっしゃる東尋坊さんが今も見守って下さっている?からなのだろうかと、崖に打ち付ける波のしぶきを何とはなしに、眺めるのでありました~
大湊神社 - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:23:20
東尋坊バス停から安島バス停へ移動。次に向かう雄島にある大湊神社であるが、本土に“陸之宮”としての大湊神社があるので、立ち寄る。集落の港町らしい佇まいが残る建屋の間をすり抜け、小路を歩くと、道路に面して社域が広がっている。玉垣のような敷居はなく、拝殿・本殿が建つ社殿は風除室のように囲まれた拝所で、サッシを開けて中に入る。
大湊神社は西暦650年ごろの創建とされている。701年頃には異国からの侵攻を防いだ功績が認められ、文武天皇から勅使を賜り、社領の寄進を受けたという記録が残っている。昔から三国湊では、北前船の寄港地として栄え、当時の船乗りたちが奉納した絵馬や方角石などが残り、海上交通や旅行などの祈願をする人が絶えなかったほどに信仰されてきたとされる。今は、雄島にある大湊神社と、本土の陸之宮の2つの社殿があり、主に一般的な参拝や行事は陸之宮で行われている
本殿でお参り。書置きの御朱印を拝受し、柱の上を見上げれば、獅子の彫刻が海の方向に顔を向けていて、常に船乗りたちを見守っているのだろうと、次は雄島の大湊神社へ向かう。
雄島(1) - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:24:21
安島港の“縁(へり)”を歩き、海に浮かぶ雄島を眺めながら、桟橋近くへ移動。朱塗りの欄干が目印の橋が島と繋がっていて、愛知県の竹島みたいに渡れるパターンだと、さっそく渡島。
雄島は越前加賀海岸国定公園に指定されていて、原生林の残る聖なる島。島全体が大湊神社の神域となっていて、一周約2kmの無人島を散策できる“自然歩道”がある。島の入口には鳥居が建ち、島の周囲に柱状節理の岩肌や「タブノキ」「ヤブニッケイ」などの樹木が鬱蒼と茂っている。無人の社務所にはお守りや書置きの御朱印が置いてあり、陸之宮で拝受したので、スルーして石段を上がる。
案内看板通り、左手に大湊神社があるので、そちらに進み、しばらく歩くと、開けた空間に出て簡易な社殿が建っている。
拝殿でお参り。
先ほども説明したが、その昔、異国からの侵攻を防いだ時、雄島の神様が弓と矢で島や村を守ったとされていて、それ以来当社を、弓矢の神様と崇め、参拝者は神前に矢の羽を奉納することがあったそうな(今は矢の奉納はしてないとのこと)。あの源義経も奥州へ下向される途中に当地に止宿され、一門の武運と海上の安全を祈願したとされている。
そんな神社も朝倉義景の祈願所となっていた永禄年間から天正年間に移ると、織田信長の侵攻により兵火にかかり、社領は没収。神主や村役人等が集まり、怨敵退散のため海に向かって二手の矢を放つ「神射式」を、慶長年間まで毎年行っていたという。ちなみに、この神事も神主等の無禄、社司の家が余儀なく他の職業になったことから中絶。その後、福井藩主、松平忠直公(二代目)が社領を寄進され、社務を復興。形を変え、今は御神渡りの神事として、春の3月に行われている。
そんな由緒のある大湊神社。拝殿からの真向かいの方角には鳥居が建ち、遠くに東尋坊が見える。ここから観光客の安全を見守っているのだろうと、しばらく佇み、遊歩道を先に進める。
雄島(2) - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:25:15
歩を進めると、海岸の柱状節理の岩肌が見え、波の音が聞こえる。すれ違った人が釣り竿道具一式を抱え、海岸を見ると、粗い岩の上で釣り人がいて、地元では絶好の釣り場なのだろうと、散策を続ける。
しばらく進むと、黒い虫が大量発生しているエリアに来てしまい、「何なんだ~」と早足になる。虫を追い払いながら島の4分の3まで来たところで、方位磁石が狂う「磁石岩」で休憩。島でいう所の北東にあたるので、方角に困るということはないが、磁場がくるう所にはとかく、UFOが現れる!?とかいうので、心の中で「アーメンソーネンヒヤソーメン」と唱えてみたくなる。
ここで雄島について、ネット情報によると、「クラウンシャイネス」という現象が見られると。熱帯雨林によく見られる、互いの葉と葉が接触しないように成長することだそうで、下から見上げると、空が割れてるように見える不思議な景色なんだとか。なぜ木々が間隔を空けて育つのかはまだ、解明されてないとのことで、人間と同じようにパーソナルスペースという感覚を持つ植物も存在するんだろうかと、やはりこの島は宇宙人が住んでいる…
ようやく一周、3、40分ほどの散策であったが、雄島の神さまに感謝申し上げ、雄島にさよならする。
三国祭(3) - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:26:24
雄島バス停から三国駅へ戻り、時刻は午後16:00ごろ。三国祭は午後からも山車が町中を練り歩いている最中で、予定では17:00ごろに三国駅前の交差点に山車が来る。
三国駅前には“桟敷ステージ”が用意され、観光協会に5000円支払えば、特等席で見られるのだが、そこそこのお客さんが座り、やはりそのステージの無料サイドには大勢のギャラリーが陣取っている。私もステージ横に運よく陣取ることができ、山車が来るのを待つ。
何となく始まった高校生による吹奏楽団が祭りを盛り上げ、T字路交差点は徐々に観光客の波でごった返し、警察官も交通整理に各配置されて準備万端。
さっそく、1台目の山車が登場し、祭りの青年団が気合を入れて、掛け声とともに山車を引っ張り、中に乗っている“お囃子隊”は笛や太鼓の調子を合わせ鳴らし続ける。思ってたよりも迫力ある演舞に、私を含めギャラリーらは拍手喝采。「まつり~」って感じで、さすが北陸三大祭りのことだけはあると納得。
山車が3台続けて演舞を披露し、次にお神輿が来て、これまた気合入れまくりの“アニキたち”が上へ下へのお神輿を揺さぶり、「はい!もう一回!」と、一回どころではない、何回も(10回以上はやっただろうか…)行い、こっちが心配するほど担いでいる青年たちは「まだやるの~(心の声)」といった表情。それが滑稽で、限を付けて去る時はもう青年たちはへろへろで、青年たちを励ますため、割れんばかりの拍手を送る。
そして残り3台の山車が現れ、中にはダチョウ倶楽部の「押すなよ」ならぬ「回すなよ」のフリから合図とともに山車を回す演出もありオモロイ。
一通り、6基の山車が通過し、その後、三国神社へ戻るのだろうが、そこまでは追いかけず、余韻残る祭りの雰囲気を堪能し、二日目はここで終了~
つづく…
また3、福井の旅(1) - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:08:28
ようやく梅雨明け~といった感じで、夏~な感じがやってきたが、猛暑が続く夏は今後、どうなるんだろうか…暑いにもほどがあって、“年寄り”には参る参る。
福井の旅も3回目を迎え、今回は北陸三大祭りの三国祭を堪能してきました~
春日神社 - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:09:57
今回は、福井市の北にある坂井市三国町、丸岡町の周辺を訪ねる。3月の中旬、三国祭が行われる日付に合わせ、二泊三日の旅程で、三国へ向かう道中、立ち寄りながら神社仏閣を訪ねる。
福井駅からえちぜん鉄道のワンマン電車に乗り、下兵庫こうふく駅で下車。まずは駅から南へすぐの春日神社へ向かう。線路を隔てたガードレールが緋色で、どこか奈良県の雰囲気を味わいながら境内北側から境内へ失礼してしまったので、南側にある鳥居から仕切り直し。
参道周りには杉や欅の大木がいくつも直立し、どれも樹齢600年以上というから、幹の太さが円周6mほどはあろうか、もう御神木といっていいほどの“いでたち”である。
そして、春日神社ならではの「鹿の銅像」も配置され、“ごあいさつ”をし、拝殿でお参り。
この場所は「兵庫」という地名で、この地域一帯、平安時代は奈良興福寺の荘園で、春日神社は寛弘8年(1011)、奈良春日大社から春日大明神を勧請して建てられた。坂井平野が大干ばつで苦しんでいた時、当園の神領使、斎藤民部少輔伊博の夢枕に老人が現れ、「村里の用水には九頭竜川を堰取るべし。我は三笠山の神なり」とのお告げがあり、用水を整備し、結果、恵みをもたらすこととなったと云われている。
どおりで、大和の空気感を味わうのだと思いながら、本殿裏へ廻ると、本殿ごとガラスで覆われた建屋となっていて、傷まないような工夫が施されている。屋根に付いている立派な千木(しぎ)を見上げ、傍らの見頃のサツキを愛でては社務所へ伺うと、無人。案内には、住所と名前をメモ用紙に書いておけば後日、郵送して下さるそうでお願いし、後にする。
御前神社 - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:11:09
えちぜん鉄道に再び乗り、あわら湯のまち駅で下車。駅名から温泉街なのだろうと思っていたが、駅前はそんなことはなく、風情あるイメージをしていただけに「?」が浮かぶ。
次に向かう御前神社は駅より南西の方角にあり、ちょっと距離があるので、駅でレンタサイクルを借り、さっそく出発。駅から線路沿いを西へ、南へ下るのだが、景色が何となく違和感があるような、広大な麦畑などの田園地帯の中に、ポツンポツンと真新しい高層ホテルが建つ、ミスマッチな感じ。傍から見たらホテルというか養護施設のように見えてしまうのは私だけだろうか。そんな景色を眺めながら自転車を走らせ、竹田川を越え、橋の上からこんもりとした森を見つけ「あそこだな…」と見当をつける。
案の定、鳥居が見えてきて到着。鳥居前には案内看板があるので読んでみると、御祭神は天児屋根命とある。言霊、祝詞、出世の神で、学業成就、開運厄除などの御利益があり、創建年は古く、明確ではないが、延長5年(927)以前とされている。かつては七堂伽藍を有していたが、信長に焼き払われ、社領を没収。柴田勝家が越前の領主となり、神領として土地を寄進、再建したとある。境内には神仏習合の名残か、西国33ヶ所観音堂があり、元禄8年(1695)に建立されたとある。事前に御前神社についてネットで調べていた情報としては、境内社には神明神社、相葉神社が祀られていて、この相葉神社がアイドルグループの“嵐”のメンバーの名が付いていることから、参拝されるファンが多いんだとか。
さっそく鳥居を潜り、境内へ失礼すると、至って地元の神社~といった感じで、拝殿でお参り。拝殿左手には西国33ヶ所観音堂があり、“お堂”といってもお地蔵さんを祀るぐらいの小さな“お堂”で、格子扉から中を覗くと、石仏が壁面に浮彫されていて、確かに33の石仏が左右正面にびっしりある。「なるほど~」これは確かに珍しい石仏であるとじっくり眺め、手を合わせる。
本殿も立派で、屋根下をよく見ると、像なのか獏なのかの彫刻が施されていて、こちらもしばらく見上げ、本殿をぐるりと周り、本殿右手側には神明神社と相葉神社があるが、石でできた祠で小さい。にわかに名称だけで訪れたファンも「ナニコレ~」と思った人は多いだろう。ちなみに、相葉神社の御祭神は曾保登神(ソホトシン)という神さまで、天保14年(1835)に再建とあるから、天保の大飢饉が起こっていた頃合いに、五穀豊穣の神を祀ったということか。曾保登神は「曾冨謄」とも書き、古事記に登場する久延毘古(くえひこ)の別名。正式には「山田之曾冨謄」と呼ばれ、案山子(かかし)の神様とされている。つまり、歩行不能の案山子であるが故、身体の不自由なものは知恵の化身として考えられ、神話の中で、大国主神に少彦名神の正体を教えたことからも、この世のすべてを知悉している、知恵と学問の神さまでもあると。
ちなみに×2、久延毘古といえば、奈良県桜井市の大神神社の摂社、久延彦神社を訪れたことを思い出すが…話が長くなってしまうので、省略。
ちなみに×3、御前神社は「おさき」と読む。
…てなわけで、御前神社の御朱印はあわら湯のまち駅の観光協会?で販売していて、先に拝受したので、天児屋根命、天照大神(神明神社の御祭神)、曾保登神に感謝申し上げるのでありました~
成田山九頭龍寺 - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:12:42
あわら湯のまち駅に戻り、えちぜん鉄道に乗り西へ。三国駅に到着した時刻は16:00頃。本日お世話になるホテルは、駅から北にある高台の所で、ちょうどバスの時間と重なり、終点の龍翔博物館バス停へ移動。ここには、ホテルの東隣に成田山九頭龍寺があり、成田山といえば、交通安全。どこの成田山でもそうだが、駐車場が広すぎるくらいに広いイメージがあり、ここも思っている以上に大きい。ホテルにチェックイン前に立ち寄り、坂道を上がる。
幅の広い石段、たどりついた境内も広い。庫裏でもない信徒会館や本堂も大きい…成田山ならでは?といった敷地に失礼し、傍らの弘法大師像やお地蔵さんを祀る池や鐘楼等、眺めながら本堂へ。
本堂内は内陣に不動明王を始め、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉明王が安置されていて、曼荼羅の配置で、他の仏像も祀られている。
成田山九頭龍寺は、千葉県の大本山、成田山新勝寺の別院で、昭和23年(1948)にこの地に仮堂宇を建立し、不動明王の御分霊を勧請したのが始まり。6年後には本堂を建立して、北陸地方唯一の成田山別院とし、その後、信徒会館「祥雲閣」や内仏殿を造営、興隆に努めてきたとのこと。内仏殿は本堂内左手から地下へ繋がる通路があり、「参拝順」の案内どおり地下へ。
うす暗い空間の中、正面に不動明王が祀られ、周囲の壁一面にはびっしりと配置された小さな不動明王像が分身して見守っている…一種、異様な世界が広がっている。志納すれば、“分身不動明王”が置けて、ご加護を得られるということか…私はお参りするだけにして後にする。
御朱印は、本堂内の売店?で書いてもらい、本堂外、北側のスロープから出ると、三国町の田園風景、遠くには日本海が見え、すばらしい景色にしばらく佇むのでありました~
宵山 - モリゾーのひとり言
2026/07/12 (Sun) 18:13:43
ホテルでチェックインを済ませ三国駅へ。三国祭は三国神社の例大祭で、毎年5月19日~21日の3日間行われ、初日は宵山。宵山では、6つの地区にわかれている山車のうち、三国祭保存振興会が受け持つ“前田慶次”のみが町中を巡行する。“前田慶次”とは、山車の屋台上に飾られる武将人形のことで、山車には豪華な衣装を纏った勇壮な武者を、毎年、当番地区によって変わり、毎年、違った人形が飾られるので、毎年、1つとして同じものを見ることがない。
その山車は町中を17:00頃に巡行するということなので、駅前通りを南へ。途中、東に入る道を進むと、屋台が軒を連ね、さっそく“前田慶次”の山車に遭遇し、狭い道路をゆっくりと巡行している。
狭い道路に屋台が並んでいるのでより狭く、その中を山車が曳き手の掛け声とともに移動し、山車に乗ってる2、3人の練達たちが、先端がT字の形をした棒で人形が電線に引っかからないように電線を持ち上げて、屋台で営業している人たちも山車が通りやすく、屋台の屋根を持ち上げて(屋根の骨組みが折り畳み式になっている…)協力し、祭りのための工夫が施されているのが分かり、「なるほど~」と唸る。
山車はゆっくりと夕陽に向かって進み、その背中を追うようにしばらく山車に付いていき、限をつけ三国神社へ。鳥居周辺、境内も屋台が並び、人の数も多い。周囲が暗いので境内はどんな配置で建造物が建っているのか、なんとなく見当をつけながらも、明日また来るので、その時でいいやと、とりあえず拝殿でお参り。今日は早めに切り上げ、まだ宵山が続く中、ホテルへと戻る。
つづく…
また10、岡山の旅 - モリゾーのひとり言
2026/06/06 (Sat) 10:45:19
今年のゴールデンウィーク前に実は、岡山に行ってまして…たまたま取れた休日を利用し、前々から行ってみたかった“刀剣の郷”長船へ。岡山で使える交通系カード「ハレカ」を持っていて、10年使っていないと失効されるルールに気づき、岡山って何年訪れてなかったっけ…この機会に行くしかないっしょ!と、行ってきましたよ~
慈眼院 - モリゾーのひとり言
2026/06/06 (Sat) 10:46:40
JR岡山駅で赤穂線に乗り換え、JR長船駅で下車。ここは、岡山では東に位置する瀬戸内市長船町長船。かつて備前国は砂鉄の産地であり、中国山地や美作から吉井川の水運によって豊富な資源が持ち込まれ、主にここ、長船は刀匠が多く居住する地域として発展した場所。
そんな“刀剣の郷”の博物館を訪れるために来たのだが、ゴールデンウィークの始め、国宝の太刀「無銘一文字」、いわゆる通称「山鳥毛」が祝日だけ特別拝観できるとあって、毎年、前々から行きたいと思っていたのだが、中々、仕事の都合上、ゴールデンウィークには行けなく、偶然にも休みが取れたので、この機会に1カ月前から新幹線の指定席を取った次第で、ようやく…と言った感じで嬉しい限り。
国宝が特別公開される日は、JR長船駅から無料のシャトルバスが運行され、さっそくバスに乗り込み、そこそこに乗客の数も多い。バスは備前長船刀剣博物館を終点に、その間、「備前福岡」「いちごファーム」の停留所があり、長船の観光に触れてもらおうとする観光協会の意図が見える。車窓からはまだ青い麦畑が広がり、“刀剣の郷”らしい?雰囲気が漂うのを眺めては、あっという間に博物館に到着。長船周辺を散策するにあたり、博物館は後にして、まずは南にある慈眼院を目指す。
慈眼院は古くから長船の刀工の菩提寺であったとされ、高野山金剛峰寺西南院に属し、あの唐僧、鑑真の創建と伝わる。
町内の小路を案内看板の矢印を頼って行くと、境内の全景や山門が見えてきて、失礼する。本堂前には幟が立ち、描かれた刀のキャラクターが出迎え、さっそくお参り。
本尊は阿弥陀如来。脇侍に観音菩薩、勢至菩薩だが、中を覗くことはできない。境内には刀匠の供養塔や歴代住職の石塔、長船最後の刀匠である横山上野大椽裕定のお墓、横山元之進裕定が寄進した梵鐘などが配置。代々、受け継がれてきた“裕定(すけさだ)”刀匠に手を合わせる。
庫裏では本尊以外に、愛染明王の御朱印も頒布されていて拝受。赤い帽子を召したお地蔵さんに別れを告げ、長船の刀匠たちに感謝申し上げる。
備前長船刀剣博物館(1) - モリゾーのひとり言
2026/06/06 (Sat) 10:47:29
来た道を戻り、いよいよ博物館へ。刀剣乱舞?のコスプレを着たお客さんがそこそこいて、時代は変わったなぁ~と、昔はコワモテのおじさんが趣味としていた時代も、今や若者が興味を持つほどに、流行は何が起こるか分からないと、日本の伝統文化を知るきっかけにもなって良かったなぁ~と思う。
…で、屋敷土塀に囲まれた”現代的建物“に入り、受付を済ませ、たぶん、刀紋を意識したイメージの、紫や青いライトアップで演出した廊下を進み、その先の暖簾をくぐると、博物館の始まり。
「切羽詰まる」や「鎬(しのぎ)を削る」「諸刃の剣」など、刀に関することわざから「へぇ~、なるほど~、そうきたか…」と一発目が言葉に関してからのアプローチに感心し、各武将が所持していた有名どころの刀剣、玉鋼から刀ができるまでの過程などを順次紹介、趣向を凝らしている。
場所を移動し、日本刀だけの展示スペースへ行くと、全国の刀を主としたコレクションが並ぶ。有名どころでは、真田信繁(幸村)が所持していた「村正」他、大和伝、京粟田口、相州(神奈川)、美濃、薩摩等々、小刀、太刀、槍の穂先と展示。それぞれに刀文や刀身の形、刀の反り具合など、好きな人にはたまらないほど種類が豊富にある。
2階へ移動。こちらのスペースでは備前刀を中心とした作品を紹介。備前刀は平安時代末期から長船地区を中心に、日本刀の生産が盛んになり、江戸時代初めにかけて、日本全体の約四分の一の刀工を輩出。その生産量は日本一で、国宝や重文の約4割が備前刀で占めている。流派は長船派と福岡一文字派に分かれ、時の権力者、たとえば、源頼朝や後鳥羽上皇、足利尊氏、織田信長、坂本龍馬などが愛用されてきた歴史が挙げられる。
頼朝は屋島の戦いで、扇の的を矢で射抜いた那須与一に褒美として刀剣を与えているし、信長は本能寺の変で自刃した時も、そばに置いていた帯刀は「実休光忠」とも云われ、龍馬が常に大切にしていた脇差は「勝光・宗光兄弟」の合作ものと…備前刀が何かと重宝されてきたと。
そんな備前刀の中で、最高傑作と謳われた「無銘一文字」。最後に真打登場といった感じで、「無銘一文字」が目立つようにガラスケース内で輝いている。
備前長船刀剣博物館(2) - モリゾーのひとり言
2026/06/06 (Sat) 10:48:22
「太刀無銘一文字(山鳥毛)」は、鎌倉中期に作られた福岡一文字派で、諸説あるが、「山鳥毛」というほどに“山鳥の羽”に似ていることから呼ばれるようになった。
戦国時代、武田信玄の上野国侵攻の際、所領を失った白井城主の長尾憲景から同族の上杉謙信(当時はまだ長尾景虎)へ贈られたものだと伝わり、謙信から養子の景勝へ引き継がれ、謙信の所蔵品は特に名刀が多く、上杉蔵として特に優れた10口(ふり)の内の1口だと。
刀身の反り具合、振りやすく軽量化を図るため表裏に棒桶(一直線の筋)を彫り、実際に戦場で使われたという刃こぼれが残り、何といっても刀文(紋様)がすごい。紋様が波のような、煙のような…何かの文字にすら見えてきて、神の啓示ではないかと思えるほど。
国宝に指定される所以が分かり、ギャラリーは釘付け。私もしばらくその刀身を見入り、写真撮影OKなので、その紋様を捉えるように格闘。すんごいものを見せてもらったと、来た甲斐があったというもの。
余韻に浸りながら、展示物拝観は終了し、鍛冶場の施設もあるので移動。鍛冶職人が作業を公開していて、奥出雲の「奥出雲たたらと刀剣館」で見学した刀剣の行程作業は勉強積みで、鞴(ふいご)で高熱の炎を生み出し、赤く染まる鋼をトンカントンカン四角形に整える作業を遠目から見学できて、離れていてもこの空間は生温かく、肌で感じる。
バスの時間もあるので限を付け、刀剣博物館から北の位置にある靱負神社へ移動。
靱負神社 - モリゾーのひとり言
2026/06/06 (Sat) 10:49:18
鳥居付近にたどり着くと、「天王社 刀剣の杜」と書かれた石碑が建ち、かつては天王社という名称であったことが分かる。境内を囲うように新緑の木々が生い茂り、この森には足利尊氏が寄進した松が繁茂している。その昔、新田義貞に敗れ、九州に落ちる途中、この地で再起を祈願し、後に願いが叶った御礼に、日向から持ち帰った松が子孫だとのことで、森の西側は旧山陽道、そして吉井川の水運と相まって交通の要衝として、「鍛冶屋の打つ鎚の音で大名が駕籠を止める」と謳われるほどに、多くの来客が訪れる“刀剣の郷”だったと説明看板に書いてあり、改めて備前長船の情景をイメージする。
参道を歩き、備前焼の狛犬に挨拶して神門を抜け、結界を示すような土塀で仕切られた正門の奥に、拝殿が建ち、ここにも杉の木がすっくと神社を守っている。
拝殿でお参り。
拝殿内では両側に居並ぶ神職の方がお守り等を販売していて、御朱印をお願いする。祭壇には備前焼に作られたレプリカの“山鳥毛”が2口、祀られていて、「どうぞこちらへ…」と目の前に案内下さり談笑。
刀文をそのまま書写?した形なので、よりはっきりと見え、備前焼で作れる技術もすごいと。備前の土は収縮が大きく、細く薄く、長いものを作ると乾燥、焼成時に大きく反り曲がり歪んでしまう…それを3年の歳月を経て取り組んだとのことで、さすが“刀剣の郷”といえる技術力に唸る。
当社についても説明下さり、靱負神社は「ゆきえ」と読み、主祭神は天忍日命(あめのおしひのみこと)、御真木入日子印恵命(そのまま読むのだが、長いので…いわゆる第10代崇神天皇のこと)、天目一箇神(あめのまひとこのかみ)の3柱。特に目の御神徳があると云われ、鍛冶師にとっては炎を見続け、目を酷使する職種から、刀工をはじめとした多くの方々から信仰を集めてきたのだろう。
案内の方によると、足利尊氏が備前福岡に1ヶ月に渡り、兵を留めていた時、尊氏が目を患い、当社に祈願して平癒したことから信仰が盛んになったとする話もあり、私も最近、小説を読むと目がぼやけてきたので、しっかりと手を合わせる。
当社は、長船駅から東地域の“土師”にある木鍋八幡宮の兼務社で、このあと木鍋八幡宮に訪れる予定を告げると、本日はここ靱負神社にずっといるので、木鍋八幡宮は不在だが、書置きの御朱印が置いてあるとの情報を教えてもらい、「それはそれは…」と労って下さる。お礼を述べ、神職さんたちに別れを告げるのでありました~
妙興寺 - モリゾーのひとり言
2026/06/06 (Sat) 10:50:10
刀剣博物館へ戻り、バスの時間までお土産コーナーを見て回る。
無料バスに乗り、長船駅へ。途中の備前福岡バス停で下車し、備前福岡の町を散策する。かつて長船町の刀匠たちは刀剣博物館界隈を拠点としていた長船派と、JR長船駅周辺を拠点としていた福岡一文字派とに分かれていて、先ほどでも説明した“山鳥毛”を生んだ福岡一文字派は、この福岡地区で切磋琢磨して発展してきたんだと、今は住宅が軒を連ねるが、街道筋は何となく昔の集落を匂わせる雰囲気が漂う。
その「福岡」という地名、九州の「福岡」という地名はここがルーツとされている。それが、黒田官兵衛のおじいちゃん、黒田高政が子の重隆らを連れて、ここ「福岡」に移住したことに始まる。ちなみに、黒田家の祖、宗清は近江国伊香郡黒田村に居住していて、高政は5世にあたる。
その後、高政死去後、重隆は播州に家族を連れて引っ越し、御着城主の小寺氏に仕官し、姫路城を預かり、そこで官兵衛が生まれた話は、過去にNHKの大河ドラマの影響で兵庫によく旅をして紹介したと思うが、官兵衛の長男、長政が徳川家康に味方して、筑前52万石を封ぜられ、築いた城名を「福岡城」と命名した…いわゆる父祖をリスペクトした形で黒田家の繁栄に至ったことから「福岡」という地名を付けたと。
その黒田高政のお墓がある妙興寺が、ここ「福岡」にあるということで行ってみる。
地図上の西側の山門を潜ると、目の前に大きな仁王門が聳え立ち、境内は広い。参道石畳を歩くと庫裏、本堂が北を背に建っていて、早速お参り。
妙興寺は日蓮宗。室町時代は、播州からこの辺りまで支配下にあって、播州の国主、赤松則興の追善供養のために慶永10年(1403)に、日傳上人によって建立された。備前法華の中心道場として重きを成したとのことで、そんな当寺には、黒田高政と重隆のお墓、宇喜多興家(直家の父)のお墓もあり、本堂東側に祀られているので、手を合わせる。
宇喜多興家は、父の能家が持つ砥石城で、同じ浦上家の重臣である島村豊後守の奇襲を受けて父は自害。当時、6歳の直家を連れて、備後の鞆へ落ちのび、ほとぼりが冷めた頃に、ここ福岡に戻り、豪商の阿部善定の元に身を寄せ、(省略)この地で病死したと案内版に書かれてある。つまり、宇喜多直家は幼少期、ここ福岡で成長し、境内にある大きなイチョウの木が2本あるのだが、このイチョウが町と共に生きてきた証だと…大きすぎる新緑のイチョウが風に揺れる姿を見上げては、何とはなしに幹に触れ、旅愁に浸る。
庫裏で御主題をお願いしたら、やってないとのことなので、諦めて境内を後にする。
片山日子神社 - モリゾーのひとり言
2026/06/06 (Sat) 10:51:04
妙興寺から北へ数分移動すると、備前福岡の家屋を拝観できる「仲崎家」があり、中に入ってみる。普段は料金を取るのだが、“山鳥毛”公開日は無料とのことで、室内へ。明治期ぐらいに建てられた一般的な木造住居で、1階の畳敷きから見渡す庭は木々が植えられ、この時期はツツジが咲いている。梁や天井、茶室?へ繋がる回廊が凝っていて、元大工の住居ということから良く考えらえて造られている。
2階に上がると、刀剣、刀剣の鍔、火縄銃などを展示。備前福岡に住み暮らしている外国の方が説明して下さり、かなり知悉に日本の時代背景を勉強されているのが分かり、感心×2。
「仲崎家」を後にし、無料バスで長船駅へ移動し、次は木鍋八幡宮の兼務社でもある片山日子神社。木鍋八幡宮へ行くためのバスを待つ。
歩いて30分ほどの距離なので、歩いても行けるが、バスを利用しようと、停留所で待っているが、時間になってもバスが来ない。10分、15分と過ぎ…「大分遅れているなぁ…」と、ふと時刻表を見ていると、
「あっ…今日、祝日だった…」ことに気づき、平日パターンで見ていたので、「そりゃ来ないはずだ…」と、情けない気持ちで歩いていくことに。
駅から東へ850mほど歩き、片山日子神社に到着。玉垣周辺には菖蒲の葉がすっくと生え、花が咲いたイメージを浮かべては鳥居へ行くと、境内では子供たちが遊具で遊ぶ声が聞こえ、地元の神社~といった感じで、鳥居から先、社域は木々に囲まれ守られているのが分かる。
神門を抜け拝殿前には備前焼の狛犬が鎮座し、左手の狛犬は片耳が欠けていて痛々しい。
拝殿でお参り。
片山日子神社は、往古は東南に聳える甲山(神山)に鎮座していて、天喜3年(1055)に現在の地、長船町土師に遷座したと伝えられている。御祭神は片山日子命。つまり片山に坐す吉備津日子命として祀られていて、賀多山大明神とも称される。
拝殿前の案内看板には算額絵馬が奉納されていると書いてあり、笠加村箕輪(現、邑久町箕輪)の入江信順という人が開いた算子塾の門下生たちが幾何の問いについて解答したもので、和算の絵馬はよく神社に掲げられているのを目にする。
社殿の屋根を見上げると、鬼瓦ならぬ“龍瓦”の彫刻が見え、境内には稲荷神社、木野神社の境内社も祀られていて、神社の雰囲気を味わい、次は木鍋八幡宮を目指す。
木鍋八幡宮 - モリゾーのひとり言
2026/06/06 (Sat) 10:51:56
片山日子神社からさらに東へ。千田川沿いを歩いていくと、スポーツ公園の入口に“結界門”が現れ、石段が上へと続いている。上がった先が九十九折の道路となっていて、さらに道を挟んだ先に石段があり、どんぐりの実が散乱している中を上がると運動場となっていて、柵が設けてある。柵の扉を開けて運動場内へと入り、次はどこへ…と辺りを見まわすと、森の中に繋がる鳥居が建っていて、ようやく到着したと安堵する。
鳥居を潜ると、新緑のモミジが映え、やっとこさ来れた疲れも吹っ飛び、神門を抜ける。
石段を上がると、掃除をしている宮司さんにお会いし、「あれっ!」とお互い驚きながらも靱負神社でお会いした“約束”に再びご挨拶。靱負神社での仕事はもう終わったのだろう、当神社に戻って来ていて、社務所に置いてある書置きの御朱印の場所を教えていただき、「ようこそ」と迎えられ、宮司さんは掃除に忙しいので、まずは拝殿でお参り。
木鍋八幡宮の御祭神は木閇宿祢命(きべすくねのみこと)。ネットによると、宝亀3年(772)に、備前守藤原朝臣雄依(おより)が神託を受け、大和国から八幡神を勧請し創建。「木鍋」は「木閇(きべ)」の訛りとされ、「木閇」は「気陪(けはい)」に通じ、御祭神の1つである豊受大神と同じ、五穀を守護する意味合いがあると云われている。
「気陪」の意味が分からないので、さらに調べると、そういう熟語はないようで、「陪」はそばに付き添う、補佐するという意。気を遣う、配慮するということか…豊受大神も(外宮)天照大神(内宮)のそばにいるなぁ~とイメージする。
社殿裏手へ廻ると、本殿が立派な佇まい。境内は神馬の他、荒神社、天満神社、稲荷神社などの境内社が祀られている。
社務所で書置きの御朱印を拝受し、宮司さんにご挨拶しようと探したが境内のどこへ行ったのか見当たらず、ひょっとして、スターウォーズでルークが遠隔ビジョンを使ったフォースなのか…(な、訳ない…)と、今日は、靱負神社からいろいろとお世話になり、心の中でお礼申し上げるのでありました~
豊原角神社 - モリゾーのひとり言
2026/06/06 (Sat) 11:03:17
翌朝。JR西大寺駅近くのホテルから南東方向へ出発。この日はあいにくの雨の中、吉井川に架かる「浮松橋」の大きな橋を渡り、堤防近くの豊原角神社を訪ねる。
鳥居から参道を進み、神門近くのツツジが見頃を迎え、由緒の案内板があるので、読んでみる。生垣が文章の下の方にあるので中途半端だが、御祭神は豊原角(すみ)之神。いわゆる、白山比咋命で、当神社の創建年代は不詳であるが、弘安8年(1285)、書写の備前国神明帳に「下豊原角明神」とあり、次第に白山権現と称され、白山神社改め豊原角神社となったらしい。宇喜多家代々の崇敬が篤く、社領50万石を賜れ、小早川秀秋に没収、後に池田家より賜ったとある。白山信仰がこの辺りでも広まったということを知り、神門を潜り、拝殿で白山権現にお参り。
本殿はスマートな造りの社殿となっていて、寄り添うようにカイヅカイブキ?の木がすっくと生え、本殿を守っている。本殿裏側へ行くと、ここにもイラスト付きの案内看板があり読んでみる。
「浮根松の跡」と題し、いわゆる、根上りの松が千田二川の堤防に数十町に及ぶほど生えていたという。風雨の浸食により、根が浮き上がり、白砂と相映すとあるので、ディズニーかはたまたハリポタのような映画に出てきそうな“デフォルメキャラ”がズラリと並ぶ妄想をし、初めて見た人は異様だったにちがいない…と勝手に膨らます。昭和5年(1930)に県の天然記念物に指定となり、神社一帯を中心に見られた風景は、古来より詩歌に詠じられてきたと。そんな“根上りの松”も戦争により、松根油の調達で伐採され、残る一部は松喰い虫によってすべてが枯れたそうで…
吉井川を渡ってきた橋が「浮松橋」という意味が分かり、その名残を留めていたんだぁ~と。イラストの絵は、根っこが完全にタコ足のように大地を踏みしめていて、数本の枝が腕のように伸びている…壁に3つの点があるとそれはもう、人の顔に見えてくる、何と言った現象だったか忘れたが、この松も同じように“擬人化した化け物”に見え、ちょっとコワいと感じるのは私だけだろうか…
そんな“化け物”がかつてはいた…いや失礼…神社の御朱印は、一度訪れた瀬戸内市にある牛窓神社が兼務していて、拝受できるそうで、再び牛窓神社に訪れることを約束し、白山権現に感謝申し上げるのでありました~
大内神社 - モリゾーのひとり言
2026/06/06 (Sat) 11:04:12
豊原角神社から吉井川沿いを北へ40分ほど歩き、窪八幡宮に到着。5年ほど前に訪れた神社で、書置きの御朱印が無く、“ごあいさつ”して去ったのだが、今回はケースの中を見ると残り2枚置いてあり、丁寧に神社の「三葉の松」(金運や縁結び、延命長寿などのご利益がある松の霊木)の針葉も同封されていて感謝×2。ありがたくいただき、次はJR香登駅近くにある大内神社を目指し、JR西大寺駅へ再び歩を進める。
長い距離の雨の中の歩行は、さすがに靴下も染みて気持ちが悪い中、JR西大寺駅から赤穂線に乗り、JR香登駅に到着。駅北の国道2号線の大通りはトラックやダンプが行き交う交通量の多い道路で、歩道は道幅が広いので安心だが、水たまりが多く、より足元を気にしながら進み、集落の入口には地元の方が植えたであろう花壇が、彩り豊かに癒しを与えてくれて嬉しい。
鳥居にたどり着くと、武家屋敷のような白土壁が境内を取り囲み、参道の先、神門を潜り、石段周りには石垣土塀が聳え、堅固な造りで守られている。
拝殿でお参り。
案内看板によると、大内神社の御祭神は大山津見神、木花之佐久夜毘売、市比売、大香山戸臣神の4柱。大山津見神の家族で構成(祀られて)されている。“木花”と“市比”は娘で、“大香山”は“市比売”の娘に当たる。
社記によると、大宝年間(701~704)に香登臣秦大兄という人物が修繕をしたと伝えられているので、それ以前から存在していたことが分かっている。一番の見どころは、拝殿の屋根に示された神代文字。正式には「神代阿比留(あびる)文字」といい、漢字の伝来以前に、日本の神話の時代に使われていた古代文字と考えられていて、長崎県の対馬の阿比留家に伝わる古文書から発見された漢字とは異なる文字として、江戸時代に国学者のよって研究されてきたとのこと。
一見、ハングル文字のような字体は韓国語としては読めず、やはり独特な文化が繁栄した証拠として伝わっている。屋根に示された文字は「おおうちのやしろ」と読め、「へぇ~」と案内看板を見てると、宮司さんが現れごあいさつ。いろいろとお話を伺い、神代文字の伝わり方が北前船による影響があったのではないか、とか、本殿裏山を「大内山」といい、今も磐座が山頂にあって、この神社のルーツがそこにあるということ、などなど、当神社の由緒を知る。
賽銭箱に置いてある書置きの御朱印を拝受し、掃除中の宮司さんにお礼を述べ、境内を散策。右手側から斜面に沿って、いろんな末社が祀られていて、本殿裏手にはたぶん、山頂の磐座を祀る社だろう、しっかりとお参りし、高台からは山陽新幹線の高架橋が見え、しばらく行き交う新幹線との風景を眺め、不思議な佇まいの空気感を味わいながら旅愁に浸る。
朝日寺 - モリゾーのひとり言
2026/06/06 (Sat) 11:05:10
JR香登駅に戻り、1時間ほど電車を待つ。JR赤穂線でJR邑久駅へ。駅近くのラーメン店で昼食を済ませ、ここでも30分ほどバスの時間まで待機し、虫明・長島愛生園路線のバスに乗車して庄田西バス停で下車。すぐの朝日寺へ向かう。
ここはJR邑久駅から東へ7.5kmほど離れた瀬戸内市の内陸部にあたる場所。なぜ、当寺を訪れたかというと、これも偶然にグーグルマップのクチコミを何気なしに見ていたら、ツツジの情報を知り、この4月中旬の時期、ひょっとしたら見頃ではないか…と見当をつけ、訪れた次第。
今日一日、雨が続く中、参道には地面に埋められた石碑が、四国巡礼の拝所寺が書かれていて、それを踏むことによって満願できる形となっているのだろう、一歩一歩踏みしめながら石段を上がると、本殿が建ち、お参り。
本堂右手には弘法大師像が安置され、その奥のツツジ庭園からはちらほら花が咲いているのが見えるが我慢して、まずは、さらに右手奥にある不動明王像に“ごあいさつ”。忿怒の表情で目をむき出して戒めている。
朝日寺は「ちょうにちじ」と読み、沿革は養老元年(717)に唐僧、智蔵上人により開基。当時は七堂伽藍の十三ヶ院を有する規模の大きさを誇っていた寺院だったらしい。慶長年間に入ると、小早川秀秋が本堂や仁王門他7ヶ院を建立するが、寛文6年(1666)には池田光政が廃寺の選に遭い、元禄7年(1694)に再興…(省略)と紆余曲折、現在に至る。
そんな当寺のツツジ庭園をさっそく見に本堂裏手へ行くと、丘陵に沿ってツツジがステージのように並び、5分咲きではあるが、全体を通してみると見事に花を咲かせていて、十分楽しめる。斜面に沿った階段を上がり、上からの眺めも素晴らしく、本堂を含め、南に見える、何と言う山の名前なのか分からないが、時々、山並に連なる中を雲が霞め、景色を楽しむ。たぶん、ここには、昔と変わらない景色があり、しっとりとした雨の風景も風情があると感じながら限を付け、庫裏へ。
庫裏に伺い、御朱印をお願いすると、快く応じて下さり、住職さんが名古屋からの訪れに労って下さり、少し談笑。住職さんも名古屋に縁があり、いろいろとお話をさせていただき、お礼を述べ、岡山の旅はここまで~
また2、福井の旅(2) - モリゾーのひとり言
2026/05/25 (Mon) 10:46:13
5月中旬に行ってきました三国祭。福井県坂井市三国町にある三国神社の例大祭で、北陸三大祭りの1つとされている。町中を山車が練り歩き、全部で6つの山車が神社前に並ぶ“姿”は圧巻で、さすがに人が多い。久しぶりに祭りの雰囲気を味わい、今回の旅も良かった~ということで、いずれ載っけますが、その前に前回のつづき、4月に行った福井の旅の紹介~
木田神社 - モリゾーのひとり言
2026/05/25 (Mon) 10:47:03
福井駅近くのホテルに宿泊し、西口バスターミナルから運動公園線のバスに乗って木田四ツ辻バス停へ移動。ここは福井駅から南西に位置する西木田という所。この日は朝から小雨が降り出し、午後から晴れる予報。
バス停から西へ数分、土俵がある公園をぐるりと歩き、境内らしき“門”から失礼すると、正面参道は北側になっていて、参道は折れ曲がるように東を背に社殿が建っているのが見える。第2の鳥居を潜ると、境内はいろんな摂社・末社が祀られていて、とりあえず拝殿でお参り。拝殿には庇(ひさし)があるので、雨の中でもお参りでき、嬉しい造り。
木田神社の沿革を見ると、貞観13年(871)、尾張国の津島神社から勧請されたのがはじまりとされる。御祭神は須佐之男命。保元2年(1158)、越前押領使、林広郎太夫光明公が崇敬され、社殿の寄進があったとあり、焼失、再建を繰り返し、明治維新の際には、「木田天王宮」から「氷川神社」と改称し、その後「木田神社」に改め、昭和の福井地震以降、復興し現在に至っている。
すべての伽藍が新しい造りとなっていて、かなり整備された境内となっているので、氏子さんたちや外部からの寄進があったのだろう、社の努力が窺える。
そんな境内には清明神社がある。天徳4年(960)に木田荘天王社前の民家に一宿を乞われたのが縁で、大正末期にこの地に勧請したとのこと。随分長いこと経ってから建てられたなぁ~とツッコミを入れつつ、お参り。他にも蛭見宮、稲荷神社、白山神社と祀られていて、蛭見宮の狛犬が、昔のMrマリックのように襟足が長い髪型になっていて、特徴的。あのテーマ曲が頭の中で流れ、思わず微笑がこぼれる。
社務所で御朱印を拝受し、お礼を述べ次へ。
自性院 - モリゾーのひとり言
2026/05/25 (Mon) 10:47:49
木田神社から西へ数分の願應寺自性院へ。こちらはお市の方の菩提寺となっていて、お市の方といえば、織田信長の妹、浅井長政の第一嫁、柴田勝家の第二嫁、三姉妹娘を産んだ母…という知識が浮かぶ。時代の流れに翻弄された?波乱万丈の人生は女性ながらに必死で生きてきた苦労がどんだけ~だったことだろうと想い、山門のない境内へと失礼する。
まずは、「お市の方の碑」に手を合わせ本堂へ。後でわかったことだが、本堂と思っていた建物は薬師堂で、本堂はたぶん右手の庫裏の方にある。薬師堂は引戸で、中へ自由に入れることができ、さっそく失礼すると、拝所上には「寿薬師如来」と書かれた大きな赤い提灯を筆頭に、天井から数基の提灯が並んでぶら下がり、内陣を覗くと薬師如来が安置されていると思ったが、その造仏は阿弥陀如来じゃないの?と、今にして思えば、どちらが祀られていたのか記憶が曖昧で分からない。とりあえずお参りはした…ということで、そんでもって地面を見るとお砂踏みではないが、石に書かれた霊場が堂内一周、淡路島49薬師霊場と薬師功徳回廊行ができるようになっている。
その石を踏みしめながら奥へ行くと、お市の方の肖像画と位牌が祀られていて、しっかりと手を合わせる。
当山の沿革は奈良時代、佛光寺と称し、どこからなのか分からないが、慶長10年(1605)に現在の地に移転した。その翌年には福井城が完成し、江戸幕府二代将軍の秀忠公の兄に当たる松平秀康公が初代藩主となり、秀康公は柴田勝家と共に自害して果てたお市の方を弔うべく、院号の「自性院」から現名称に改称。その後、江戸時代初期、寛永年間の建立後は、その支院となり、ちなみに、前回紹介した佐佳枝廻社の、かつての東照宮別当職、泉蔵院とは縁故寺院と、“葵”つながりとなっている。ちなみに×2、二代将軍の秀忠公の正室は、お市の方の末娘、お江の方である。
そんな徳川家に守られているお堂を、お砂踏みと共にめぐり、最後は書置きの御朱印を拝受し、お市さまにお礼申し上げるのでありました~
藤島神社 - モリゾーのひとり言
2026/05/25 (Mon) 10:48:44
自性院から公園通りを越え西へ。足羽山の麓にある金刀比羅神社に立ち寄り、お参り。書置きの御朱印を拝受し、再び公園通りを北へ歩くと、藤島神社への入口、大鳥居が見えてくる。
幅広い石段、そこから山を登る参道が続き、鳥居近くには見頃の桜が風で揺れている。本降りから小雨となった天候の中、ゆっくりと上がり、途中、カーブの車道に出てきて、駐車場にたどり着く。
第2の鳥居前にはピンク色の幟が「ようこそ」とは書いてないが、迎えられているようで、境内へ失礼すると、正面に社殿、左手に氏子会館?右手に社務所が建ち、参拝客は誰もいない。
拝殿でお参り。
藤島神社の御祭神は、新田義貞公。清和源氏の末流で、代々、群馬県の新田郡に居を構えていたので、新田の姓を称した。後醍醐天皇の密命を受け、時の執権、北条孝時を滅ぼし、建武の新制が始まったのは歴史の教科書で習ったことだろう。その後、南北朝への動乱となり、楠木正成が湊川で戦死し、形勢不利となった中、再起を果たすため後醍醐天皇の皇子、恒良と尊良の両親王を奉じて、敦賀の金ヶ崎城に籠城、(省略)結局、福井の燈明寺畷で、38歳の歳で戦死を遂げた。
明暦年間にこの地から義貞公の兜が発見され、時の福井藩主の松平元通公が「義貞戦死此処」という石碑を建て、いわゆる「新田塚」という名称が付き、京都から北国へと向かう街道筋のこの塚が、拝礼の対象となって、明治に入り、福井藩主の松平茂昭公によって祠を建立したのが当社の始まりとされている。
明治9年(1876)には明治天皇から「藤島」の名を賜り、現福井大学の向かいに移り、水害により明治34年(1901)に現在の足羽山に遷座された…ということで、義貞公がこの地に祀られてることはつゆ知らず、本殿右側には義貞公夫人、勾当内侍を祀る野神神社が小さな祠で祀られ、寄り添っている。
会館?側には「開所 10:00から」となっているが、社務所は閉まったままなので、連絡してみると、今向かっているとのこと。しばらく待っていると、宮司さん登場で、ご挨拶。名古屋からの訪れに労って下さり、福井の桜のことや雪による影響、交通手段など談笑し、為になる話を聞く。御朱印も拝受し、宮司さんと義貞公に感謝申し上げるのでありました~
毛谷黒龍神社 - モリゾーのひとり言
2026/05/25 (Mon) 10:49:40
藤島神社から足羽山の東麓へと下り、途中の白山神社でお参りし、毛谷黒龍神社へ移動。山道を下った先がもう境内で、社務所横に出てくる。
境内は広く、整備された感があり、一段高い位置にメインの本殿、その他摂社末社が祀られていて、石段上の拝殿でまずはお参り。小雨が降る中、そこそこの参拝客がいて、人気の神社なのだろう、お参り後、社殿の中へ入る姿を見、私も倣って入る。
内陣には寄進した龍の絵が飾られ、天井を見上げると「和」の漢字の「口」の部分が龍の形になっている。一種のアート作品として配置され、例祭で使われるであろう能面も奉納されていて、じっくりと見入る。
毛谷黒龍神社は越前国の治水工事を行った継体天皇が、黒龍川(九頭竜川)の守護と国土安全を祈願し、高屋郷黒龍村に創建したと伝わる。元は「毛谷神社」として黒龍村(現、舟橋)にあったが、現在地に移転し、水の神である高龗神・闇龗神、開拓の神である継体天皇を御祭神として崇敬されてきている。
本殿左手には恵比須神社が祀られ、社殿傍らには灯籠があり、この灯籠がまた、龍が巻き付いた芸術作品となっていて立派。「願掛け石」や「幸運の撫で石」などの“アトラクション”もあり、最後に社務所へとつながる導線となっていて、考えられている。
社務所にはいろんなお守りグッズや熊手などが販売されていて、御朱印も種類が豊富に紹介されている。巫女さん一人で対応しているので、大変だなぁ~と思いながら、御朱印をお願いし拝受。お礼を述べ、正式入るべき鳥居から退出し、振り返った境内が桜に包まれているのを見、黒龍さまに感謝×2し、次へ。
橋本左内公園 - モリゾーのひとり言
2026/05/25 (Mon) 10:50:27
黒龍神社から北へ数分、左へ行けば昨夜行った足羽神社へ向かう「百年坂」、右へ行けば「橋本左内公園」と「妙経寺」がある。
公園には橋本左内の銅像とお墓があるので、立ち寄ってみることに。護国神社で出会った橋本左内等身大ガラスパネルより比べ物にならないくらいの銅像がで~んと建ち、しばらく見上げる。
左内銅像は始め、大正14年(1925)に足羽公園に建てられ、台座には東郷平八郎の揮毫した文字だったようで、戦中の銅の回収によって撤去されたとのこと。
そんな事情を知りつつ、奥へと向かうと、橋本家のお墓が祀られているが、鎖が掛かっていて、遠目で見るしかない。鎖前から手を合わせ、墓前の桜が侘しさを紛らわすように咲いていて、若くして亡くなった左内に対し、一礼するのでありました~
妙経寺 - モリゾーのひとり言
2026/05/25 (Mon) 10:51:19
左内公園から東へすぐの所に妙経寺がある。橋本家の菩提寺である妙経寺はかつて、空襲により焼失した善廣寺との併合によって成り立っている。善廣寺は、江戸時代以前は一乗谷にあったそうで、朝倉氏滅亡後、現在の地に移転し、橋本家の菩提寺としてあった、今は妙経寺へ引き継ぐ形で存在している。
その妙経寺の山門はなく、気兼ねなく境内へ入れる造りとなっていて、見頃の桜と緑色の苔とのコントラストが美しく、本堂は現代的な造りの建物となっている。
本堂でお参り。賽銭箱横には御主題の案内があり、じ~っと見ていると、奥から住職さんが現れ、ご挨拶。御主題を御朱印帳に書いて下さる間、本堂内に上がらせてもらい、もう一度お参り。正面の祭壇には日蓮像が祀られていて、京都の「京の冬の旅」で拝観した上京区出水通りの華光寺が頭をよぎり、あの白い“とんがり帽子”そのままに、ここで同じ像に出会えるとは…と見入る。
堂内の壁には橋本左内の生い立ちからの物語が分かりやすく絵画パネルで紹介していて、1つずつ見ていく。内容は、護国神社の説明と同じ左内の人生を追っていく形で、少年の頃から神童と言われる人は、神様のいたずらか、生き急ぎすぎる人生なのか…と、世の中に必要な人物はとかく、短命が多いのだろうか…などと根拠のないイメージをしてしまう。
そうこうしていると、住職さんが御朱印帳を持ってきて下さり、感謝×2。
少し談笑し、昨日(日曜)であれば、桜の下でキッチンカーを置いて、花見を楽しむ催しをしていたとのことで、本日の小雨が降る中での桜も風情があると、堂内からの桜を住職さんと一緒に楽しむのでありました~
足羽神社(2) - モリゾーのひとり言
2026/05/25 (Mon) 10:52:13
お昼の13:00からは、この近所の西光寺へ行く約束をしているのだが、まだ1時間ほど空きなので、その時間を利用し、昨日訪れた足羽神社を再び訪れようと、百年坂を上がる。
境内にたどり着くと、夜の景色とは違うしだれ桜が見事にそこにあり、参拝客も少ない。
まずは拝殿でお参り。
足羽神社は「あすわ」と読み、御祭神は男大迹王(おおとのみこ)つまり、第26代継体天皇のことである。継体天皇は近江国高嶋郷で生まれ、3歳の時、御父が亡くなられてから御母に従い、越前の高向(現、丸岡町高椋)で育てられる。その頃の越前は沼地同然の土地柄で、越前平野の大治水事業を行い、その際に、朝廷に祀られている大宮地兄霊(坐摩神:いかすりのかみ)を足羽山に勧請し、安全を祈願したのが当神社の始まりとされている。
その後、58歳の時、天皇に即位され国を離れるにあたり、「永く此の国の守神に成らん」と自らの御生霊を当社に鎮め、御子である馬夾田皇女(うましだのひめみこ)を斎主として、後を託したと伝わる。ちなみに、坐摩神とは、ネットで調べると、五柱の神の総称で、井戸水の神である「生井神」「福井神」「綱長井神」、足場や交通安全、旅行の神である「阿須波神」、門の守護、厄除けなどの神である「波比岐神」とのこと。
…で、境内を散策すると、「継体天皇御世系碑」があり、石碑に系譜が刻まれているが、よく分からない。飛騨高山の国学者、田中大秀氏が研究し、これを世人に広めようと建設計画したそうで、この方、本居宣長の門徒であるらしい。結局、大秀氏没後の弘化4年(1847)、54代宮司や同門の池田武方何某、山口春村らが協力して建立したそうで、足羽山には継体天皇の石像が祀られ、福井の平和と発展を見守っていると締めている。
そんな継体天皇が息づいている、もしくは、乗りうつっている?しだれ桜は、老体に鞭打って、いくつもの杖で支えながら今年も花を咲かせ、参拝客の目を楽しませている。
西光寺 - モリゾーのひとり言
2026/05/25 (Mon) 10:53:08
足羽神社から百年坂を下り、元来た道を戻り、南へ下る。13:00のお約束をしている西光寺へ赴くと、こちらも幼稚園の経営をしているお寺だと分かり、境内にはコンクリート製の本堂が建っている。本堂の右手には柴田勝家・お市の方のお墓があり、その向かいに資料館が建つ配置で、まずはお墓に手を合わせる。
お墓は勝家公に仕えていた家老、山中山城守長俊の建立によるもので、ちなみに、この方、後に秀吉の配下で3千石から3万石に出世し、越前国の豊臣家蔵入地の北袋銀山代官や筑前国の代官を歴任し、畿内の“太閤お抱え大蔵大臣”…といったところか、なんだか、私腹を肥やしていそうな感じも勝手に想像してしまうが…
北之庄城でお市の方とともに滅んだ勝家公。ドラマの時代劇だと決まって“豪快”なイメージが拭えないが、ちゃんと福井の寺社の復興や城下町整備に普請し、民のために働いている。秀吉に姉川の戦いで滅ぼされたが、お市の方と結ばれたことが唯一の救い?だったのかなぁ~と、戦国武将の歴史を振り返る。
お墓参りをしていると、幼稚園の事務所から声を掛けてくる住職さんがいて、ご挨拶。まずは御朱印を授かり、資料館へ案内下さる。
資料館に入ると、1階には勝家公とお市の方の像が祀られていてお参り。住職さんが当寺についての説明をし、元々は、一乗谷の城主、朝倉貞景(義景の祖父にあたる)の家臣で、植田兵衛尉盛忠が建立した光明山西光寺であったと。当時、“黒衣の聖”と云われた天台真盛宗の祖、真盛上人が朝倉館に招かれて法座を開き、盛忠は深く感銘を受け、帰依したことが寺院建立のきっかけとなったという。その後の北之庄城に入った柴田勝家が治国すると、寺院復興に力を注ぎ、天正11年(1583)の城陥落に先立ち、9代目住職に遺骸の処理と死後の供養、3人の愛児(茶々姫、初、江)の安全を託されたと伝わっている。
そんな激動の時代を駆け抜けた勝家公が残した遺品が2階に展示してあり、拝観。発見当初、土の中にあったので、顔形の彫刻がくっきりと残っている貴重な花崗岩で造られた鬼瓦や、金の御幣をあしらった勝家公の馬印、刀剣、念持仏、花押入りの古文書や制札など、それぞれに説明して下さり、分かりやすい。が、他にも展示物はあって、その説明はなくてもいいので、じっくりと見たかったのだが…説明したら終了~っていう流れで、もう少し見たかったなぁ~と消化不良。まぁ~、寺宝に触れただけでもありがたいと、勝家公ゆかりの品を拝むことができ、住職さんにお礼申し上げるのでありました~
安養寺 - モリゾーのひとり言
2026/05/25 (Mon) 10:53:58
西光寺から足羽神社参道の愛宕坂入口へ移動。そこから脇道に逸れる先、しだれ桜が綺麗だというクチコミで知った安養寺へ行ってみることに。足羽山の麓、民家や墓地界隈の道を歩いていくと、徐々にピンク色に染まる境内が見えてきて、伽藍を覆いつくすほどの桜が見頃を迎えている。
安養寺は文明5年(1493)に一乗谷初代当主の朝倉孝景が一乗谷に建立したのがはじまり。格式の高い寺院とされたことで、室町幕府将軍足利義昭の御所となっていたという。朝倉氏が織田信長に滅亡させられると、当寺も焼失し、天正3年(1575)、北之庄城の城主となった柴田勝家によって現在地に移され再興。その後、藩主が松平家に移ると帰依され、寺運も興隆した歴史をたどる。
そんな当寺は春になると、境内を埋め尽くすほどのしだれ桜が美しく映え、この日も小雨の中であるが、風流気分を味わう。
六角形の“ふれあい観音堂”に入ると、聖観音?さまが祀られていて、天蓋や手書きの僧侶、仏が格天井に描かれていてオシャレ。山門から境内へと失礼すると、本堂や十三重石塔、お地蔵さんや観音さま、椿やアケビの木々も植えられていて、静かな佇まいの中でお参り。
庫裏に伺うと留守なので、御朱印は諦め、見頃のしだれ桜を観賞し撮影タイムを過ごすのでありました~
足羽川堤 - モリゾーのひとり言
2026/05/25 (Mon) 10:54:50
安養寺から北に位置する足羽川へ移動。堤防沿いに桜並木が続く、福井では花見の名所の1つとされている。昨夜、足羽神社のしだれ桜を見に、バス移動した時、橋の上の途中、車窓からの夜桜が美しく、楽しむ人たちの賑わいが見え、訪れてみたいと思った次第。
九十九橋をスタートし、西へと繋がる堤防沿いを歩く。小雨と言うこともあって屋台を営業している数は少なく、お客さんも寂しい感じだが、桜が続く景観は圧巻で、ゆっくりと散策を楽しむ。
ネット調べでは、堤防沿いには約600本の桜が植えられていて、全長2.2mに渡って広がっているとのこと。
昨今の桜倒木のニュースを見るが、ここにきて、古木が寿命を迎える頻度が高くなっているのは否めない。ここの堤の桜は大丈夫だろうかと、幹の黒いごつごつとした桜木を見ると、心配になってくる。
日本の四季も、春が短い天候に変わりつつある昨今、そんでも桜が咲く風物詩は日本人にとっては季節を感じられるありがたいことで、堤防の駐車場に観光バスから降りてくるツアー客の姿を、橋の上から遠目で眺め、花見橋を北へと渡る。
湊八幡神社 - モリゾーのひとり言
2026/05/25 (Mon) 10:55:45
花見橋を渡ると、堤防下すぐの所に湊八幡神社がある。こちらも境内には桜の木々が終盤を迎え、時折、強い風によって花びらが舞う。
鳥居からの石畳参道を真っすぐ歩き、途中、牛の顔の形をした絵馬が建ち、説明看板があるので読んでみる。「牛像の祈願絵馬」と題し、昔、毎夜、福井の街中をうろつく牛が食い物屋を荒らすという噂があったそうな。誰もその正体が分からなかったある夜、小島という薬屋が「千牛丸」という薬を売っている店の前で、姿を消したのを目撃。その店の屋根には、左甚五郎の彫った牛の看板が掲げられていて、小島屋はさっそくその絵を取り外し、湊八幡神社の境内にお堂を建てて祀ったところ、騒ぎが収まったと…いう話で、注釈には、福井空襲でその“牛像堂”は焼失、御神霊は神社に合祀されていて、お堂再興を願う声があると書かれている。絵画や彫刻から動物が飛び出て徘徊する話は、よもや(ま)話?としてよく聞くが、それにしても、左甚五郎の彫刻は“生きている”のか、魂が籠っているというか、特にこういう話が多い。
拝殿でお参り。由緒の案内看板には、文明3年(1471)に朝倉孝景が一乗谷に築城の際、宇佐八幡宮の御分霊を勧請し、社殿を建立したのが始まりで、その後、信長侵攻により落城、慶長6年(1601)に松平秀康が北之庄城に遷座し、(省略)現在の地に再建した云々と書いてある。ほぼ、先ほどの安養寺と同じ由緒だが、そこに柴田勝家の名は出てこない。なぜだろうかと考えた時、当社は虐げられたからだろうか、はたまた、単純に当神社の存在を知らなかったからだろうかと、妄想が膨らむ。そんな考えを浮かべながら、ちょっと離れた社務所へ伺い、御朱印を拝受。お礼を述べ、今回の旅はここまで~
おろしそばとソースカツ丼 - モリゾーのひとり言
2026/05/25 (Mon) 11:07:47
福井駅で帰りの高速バスの時間まで余裕がある。駅構内はおみやげ屋や食事処の店が軒を連ね、繁盛している様子。寿司屋やステーキ屋、ラーメン屋など豊富に揃っている中、やはり福井といえば…と考えた時、蕎麦とソースカツ丼だと、そば屋に入店。
時間的に夕方前だと、小腹を満たす程度と判断し、おろしそばとミニソースカツ丼のセットを注文し、さっそく実食。
あっさりめの大根おろしがかかる、腰のある蕎麦をすすり、濃いめのカツ丼を食べ、バランスのよい?味が交互にくる。カツはうすっぺらい仕様でボリュームさは感じられないが、ソースが美味い。ちょっと語弊があるかもしれないが、駄菓子に似たようなのがあったような…そんな想いを抱きながら、完食。何だかんだ言って、美味いに決まっているご当地グルメを食べることができて満足×2。
また2、福井の旅(1) - モリゾーのひとり言
2026/05/17 (Sun) 10:02:41
5月に入り、もう夏日が続く季節が訪れる昨今、今年の春の旅は福井での花見をしまして、実は、5月中旬にも行く予定があり、久しぶりに、“お知らせ現象”が、休日のタイミングも偶然のように重なり、導かれているかのように福井に呼ばれている。
…てなわけで、4月に行った福井市中心街の旅の紹介~
火産霊神社 - モリゾーのひとり言
2026/05/17 (Sun) 10:03:38
名古屋から高速バスを利用し、福井駅東口に到着した時間は13:00ごろ。午後の限られた時間の中で、バスの時刻表とにらめっこした綿密な計画を立てたので、上手く回れるかどうか…初日から忙しい。
駅東口から国道5号線を東へ、主要道路の街道沿いにある火産霊神社をまずは訪ねる。
名称のとおり、「火伏の神さま」を祀る、ご当地では「秋葉さん」と親しまれているらしい神社で、福井藩祖の松平秀康公が下総国結城(茨城県)に在城の頃、防災の神を崇めていた遠州秋葉神社の御分霊を慶長6年(1601)、北ノ庄に転封の際に移し創建。(省略)戦後、現在地に移転した由緒となっている。
ビルとの狭間に建つ鳥居から参道を歩き、社殿へと向かうと、左奥には幼稚園?の施設があり、神社と兼務して経営しているのだろう、園児の声が聞こえる。
手水舎にはキツネの石像が口からよだれのように水を滴らせ、キツネの耳は何となく炎の形をしているようにも見える。
身を清め、拝殿でお参り。
境内には祖霊社があり、至って地元の神社~といった感じで、とても火伏の神さまがいる雰囲気はない。ただ、レンガ造りの倉庫が社務所横にあって、“火防”といった感は否めない。
社務所へ移動し、御朱印をお願いしている間、壁に貼られた「馬鹿ばやし」の幟を見、例祭が行われるであろうと…後で調べたネットの情報には、室町時代から始まったとされる朝倉家の御用商人、多田善四郎が城の橋通りに住み、面を着けて踊る芸能を祝祭日に披露していたことが始まりらしい。江戸時代初期頃には松平忠直公の側室「国女」が、いつも機嫌が悪い顔をしていて、猿の面を被った役者がおどけた仕草をしたのを見て、思わず笑ったことをきっかけに、「馬鹿ばやし」は城中への出入りを許されたと云われている。
所作は、大太鼓をそれぞれの面を着けた個性的なキャラクターたちが、笛や小太鼓、鉦に合わせて打ち鳴らし、徐々にアップテンポへと変わり、2、3分の間、演舞する。毎年、5月25日前後に行われるというから、神輿の巡行や山車が町中を練り歩く祭りのイメージそのままに、「馬鹿」というからには、笑えるほどのコミカルな動きをするのだろう…ちなみに、先ほどのレンガ倉庫に例祭で使用される面や衣装などの祭具が収められているとのことで、祭りが盛り上がるイメージが膨らみ、いつかは見てみたいものだと考えている間に御朱印を授かり、お礼を申しあがるのでありました~
杉杜白髭神社 - モリゾーのひとり言
2026/05/17 (Sun) 10:04:27
国道5号線を東へ10分ほど歩くと杉杜白髭神社がある。道路に面し鳥居は北にあり、境内に失礼すると、東に折れ曲がる参道となっていて、そこそこに広い敷地となっている。
手水舎には石像の亀が口から水を流し、尾ひれの長い亀は高貴さを表しているのだろうかと、説明看板を見る。水甕の岩は、明治に藩主の松平春嶽が氏子たちへ寄進した代物らしく、花崗岩であると。「へぇ~」と感心しながら、手水舎の隣には石灯籠が建ち、円柱にはトカゲのような形状の彫刻が一匹くっついている。こちらも説明看板があるので読んでみると、「庚申灯籠」と書いてあり、「なるほど!」と納得。庚申の日に悪い虫が体の中に入ってくるので、眠らずに過ごす…京都の八坂庚申堂を訪れた時に学んだ厄除け神事で、こんにゃくを食べた思い出が蘇るが、夜間眠らないように灯籠に火を灯し、その虫を引き寄せるため…なのかは分からないが、イメージとしてはそういうことだろうか、その“トカゲ”には触らず、参道を歩き、拝殿でお参り。
社殿の隣には天鈿女売命を祀る宮比神社が建ち、立派。その駐車場には夫婦銀杏の木が象徴的に生えていて、夫婦円満・芸能の御利益が授かれる。
当社の由緒が御影石に彫られているので読んでみると、御祭神は猿田彦大神。平安時代、桓武天皇の御代に、坂上苅田麿?(坂上田村麻呂のことだろうか…)が当国司であった頃に、深く崇敬し再建したと伝えられている。歴代藩主の崇敬篤く…云々…と社名に関しては書いてないが、かつては杉森のあった場所に鎮座してあった場所なのだろうと想像する。
拝所には御朱印の案内があり、電話番号が書かれていて、事前にメールで連絡をしていたので、スムーズに書いて下さり拝受。名古屋からの訪れを労って下さり、感謝申し上げ次へ。
和田八幡宮 - モリゾーのひとり言
2026/05/17 (Sun) 10:05:23
勝見二丁目バス停から東へ、和田東バス停へ移動し、南へ下る。玉垣で仕切られた境内から見頃の桜が出迎えてくれ、鳥居の真向かいには「厄除け橋」という、実際には渡れない扇状の形をした、かつてはこの橋を渡ったことで、穢れを祓う役割があったのだろう、橋を眺め鳥居を潜る。
境内は整えられた敷地なっていて、いろんな社が祀られていて、かつては池があったのだろう弁財天を祀るヘビが巻き付いた柱や、八大龍王社、毘沙門天社、日吉社など、馬や猫やハトなどの石像も祀られている。
社殿前には、源満仲の石像、清和源氏の系譜の石碑が建っていて、当神社を造立した由縁が載っている。満仲が悪夢を見たことによって、京の石清水八幡宮を勧請して当社を創建し、当国の守護を任じられたこと、その後の一乗朝倉家、松平秀康、忠直と、藩主が変わるごとに再興したこと、元は七郷の村社を総社にしたこと、と、簡略にしたが、満仲がここ福井に来ていたことは知らなかった。
改めてネットで調べると、確かに、藤原摂関家に従事した際は、摂津国、越後国、越前国、伊予国、陸奥国など国司を歴任していて、官職に就くことによって莫大な富を得たと。それ故に、嫉妬する武将が邸宅に放火したり、急襲したりするなど敵も多かったという。満仲といえば、兵庫県川西市の多田神社。大阪の住吉大社を参詣した御神託により?多田盆地に郎党を組んで、武士団を形成した話と、やっぱし、三ツ矢サイダーを思い出し、ここで満仲公に会えるとは…。
石像に手を合わせ、拝殿でお参り。
社殿左手には厳島神社が建ち(源氏の神社に平家の社が…)、平家の栄華を称えるように桃の花が白、ピンクと咲いて見頃を迎えている。
社務所で御朱印を拝受し、“満仲さん”に感謝申し上げるのでありました~
福井縣護国神社 - モリゾーのひとり言
2026/05/17 (Sun) 10:06:19
和田東バス停に戻り、バスの時刻表を確認すると、事前に調べていた時間がなく、4月の時刻表改正時期なのだろうか、次のバスは1時間後となる。グーグル検索をかけると、ちょっと離れた近くのバス停も福井駅へと繋がるバスはあるものの、時間が合わず、福井駅まで歩いて約30分と割り出す。福井駅で予定していたバスに乗るには歩くしかない!と決断し、歩く。汗をかきかき、到着した福井駅西口バスセンターに、今まさに出発しようとしている予定のバスが停止していて、「ローカル路線バス乗り継ぎの旅かよ~」と自分でツッコミを入れながら、ギリギリ間に合い、もちろん立ち乗車となったが、歩いた甲斐があり、とりあえずホッと胸をなでおろす。
護国神社前バス停で下車し、目の前の鳥居近くには桜が咲いて私を迎えてくれ、さっそく境内へ。
護国神社だけあって、やはり敷地は広い。参道正面の、横に長い社殿をはじめ、何もない空間は、今まで訪れた護国神社の特徴を表していて清々しい気分になる。参道の途中、英霊として祀られている橋本佐内が描かれた等身大ガラスパネルがあり、身長が151.5mと低いことが分かる。傍らには「急流中底之柱」という、長野諏訪の“御柱”のような柱が1本立っていて、案内看板には、左内が常に持ち歩いていた木箱の蓋に「急流の中にある柱のように、いかなる時も動じず、流されずに雄雄しく立っている姿こそが大丈夫の心である」と、書いてある言葉を紹介していて、この言葉を読むことで常に「大丈夫」という心持ちを作る教訓が示されている。
橋本佐内は幕末、福井藩の外科医の長男として生まれ、幼少から学問を好み、大阪の緒方洪庵に蘭学を学び、医者となる。後に、藩の側近に抜擢され、中核を担う存在となるが、徳川家の次期将軍の跡目争いをきっかけに、反対する大老、井伊直弼との争いに、いわゆる安政の大獄で処罰される運命となり、享年26歳の若さで、江戸伝馬町の獄舎形場で斬首される…と、簡単に説明したが、時代の流れは果敢ないもので、この柱が“人柱”のように、犠牲になった変わり身と見えてしまう。
そんな橋本佐内も祀られている拝殿でお参り。
福井縣護国神社は昭和16年に創立。日清日露、満州、上海日支事変、大東亜戦争の戦没者他、2988柱祀られている。境内には厄災落としのための「かわら盃落とし」、「合格桜」と題した、枝に合格祈願の札を付けた“桜木”、昭和23年の福井地震でもびくともしなかった狛犬等、護国神社とは思えない“御利益神社”となっている。
社務所で御朱印を拝受。授与品には「大丈夫」と書かれたお守りが人気のようで、黒布の生地はシックで、今どきの仕様?といった感じで、この日もそこそこの家族連れが訪れていて、護国神社でもいろんなタイプの護国神社があるもんだと、最後は英霊たちに感謝を申し上げるのでありました~
簸川神社 - モリゾーのひとり言
2026/05/17 (Sun) 10:07:13
護国神社鳥居から東へ、医師会館前バス停へ向かうまでの間、境内に咲く桜が見頃を迎えていて、社号の柱を見ると、白山神社とある。常に無人の神社だということは雰囲気で分かり、これも何かの“縁”ということで拝殿でお参り。神馬の銅像も喜んでいるかのように片足を上げ、私も撮影タイムとなり、頃合いを見て一礼して去る。
医師会館前バス停から南へ、松本二丁目バス停で下車し、東へ数分、福井駅から見たら北へ1.5km程離れた簸川神社に到着。
事前の情報で、書置きの御朱印があるとのことで、鳥居を潜り参道を進むと、至ってシンプルな神社~っといった感じで、社殿には引戸があり、中(内陣)に入ってお参りする形となっており、さっそくお参り。
簸川神社は、「ひかわ」と読み、御祭神は素戔嗚命他3柱。この地域は福井城の外堀に当たる下級武士たちの住居が配置されていた場所で、「御旗町」「御小町」「御駕町」という町名がならぶほどに、藩主に警護や駕籠者、飛脚などの役に就いていた人たちが住み、城の北東鬼門として担ってきた。御祭神が素戔嗚命であることから、京都八坂神社の祇園祭に倣い、盛大な祭事が行われるそうで、街の中で山車が練り歩くのだろうかと、イメージが浮かぶ。
拝所には書置きの御朱印やお守り等の授与品が置かれていて、御朱印を拝受し、素戔嗚命に感謝申し上げるのでありました~
古市八幡宮 - モリゾーのひとり言
2026/05/17 (Sun) 10:07:59
簸川神社での滞在時間は15分ほど。次のバスの時間に間に合うように急ぐ。松本二丁目バス停に戻り、そこから西へフェニックス通りの西松本バス停へ歩き、時間通り、丸岡方面のバスに乗り、森田八重巻バス停で下車。北東方向にある古市八幡宮へ向かう。
九頭竜川より北にある当社は、かつて木曽義仲軍が越中の倶利伽羅峠において、平家を討ち破り、京に上る途中、黒龍川(九頭竜川)に差し掛かるところ、洪水のため渡れず、この地に本陣を置き、杉の木3本を植え「森田」とし、若宮八幡宮と号したのが寿永2年(1183)で、それ以前の永安3年(1173)に創建とあるので、850年ほどの歴史がある。
鳥居を潜り、境内はそこそこに広く、社地は木々に囲まれていて、社殿もそこそこに大きい。拝所上には、相撲取りのような彫刻が飾られていて、ひょっとして木曽義仲?なのだろうかと、しばらく眺めては拝殿でお参り。
こちらも無人なので、書置きの御朱印が置いてあり、拝受して、社殿隣の地蔵菩薩が気になりそちらへ移動。ブロック塀に囲まれた簡素な造りのお堂?に祀られていて、説明看板があるので読んでみる。子供を守護すると云われている地蔵菩薩は、不幸にして、昭和23年の福井地震で倒壊し、今日まで(平成26年)放置されてきたそうで、「元禄5年(1692)古市村」と刻まれている。発起人の名前が2人載っていて、野ざらしのままのお地蔵さんを見るに忍びないと思ったのだろう、まさに“拾う神”が現れたといった感じ。そういえば、社殿前の左手の狛犬が、顔の顎の部分が欠けた状態になっていて、こちらはどうなのだろうか…と、地蔵菩薩さまにお参りし、無事、修復されることを願う。
足羽神社(1) - モリゾーのひとり言
2026/05/17 (Sun) 10:09:01
古市八幡宮から急ぎ森田八重巻バス停に戻り、福井駅へ。本日宿泊するホテルへ一旦チェックインをしたかったが、次のバスに乗る時間が迫っていたので、ホテルに遅くなる旨を連絡し、清水グリーンライン線のバスに乗り、左内公園口バス停へ移動。
次に向かう場所は、足羽神社境内にあるしだれ桜がこの時期、ライトアップされるということで、今の時間、18:30ごろを狙って訪れる。
足羽神社は、足羽山の中腹に鎮座し、参道はかなり石段を登らなければならない。「愛宕坂」という比較的緩やかな参道石段がメインなのだが、バス停からは「百年坂」と呼ばれる急階段を上がる方が近道なのだが、なんせ“急”なので焦らず登る。
息を切らしながら愛宕坂途中の地点に合流し、数分の石段を上がると、境内に到着。事前に写真で見たものよりも、大きいしだれ桜がそこにあり、光を放つように輝いている(表現がオーバーです…)。参拝客もそこそこにいて、とりあえずは拝殿でお参り。
社務所もこんな時間帯にもかかわらず開いていて、授与品や御朱印も対応していて、さっそく拝受。そして、しだれ桜。
当神社のホームページには随時、開花から満開までの様子を写真で知らせていて、本日訪れるまでに散らないよう祈っていたが、見頃に出会えて「良かった~」とカメラを構え撮影タイム。
樹齢870年という、あちこちに“杖”を支えに立つ“姿”は「がんばってるなぁ~」と勇気づけられ、且つ、幻想的な雰囲気に参拝客も騒がず、静かに見守る。
また明日も“昼の顔”としての見方が変わるのだろう、また訪れることを約束し、今日はここまで。
つづく…
福井の旅 - モリゾーのひとり言
2026/04/24 (Fri) 10:20:45
桜の季節は終わり、もう夏じゃん…と、春はどこへ行ったのやら…
そんでもって、今年の春は福井県に行ってきましたが、今回は、去年の初夏に行った福井の旅から。去年、万博で通い詰めの大阪であったが、実は、それ以外にも愛媛や島根、奈良、三重、兵庫に行っていて、それも、万博の関西パビリオンのスタンプラリーつながりで訪れていた次第。その中に福井県も含まれていて、福井県の神社では「御竜印」なるイベント?を開催。山口県に並び、福井県にもこれからちょくちょく足を延ばす形となったわけでして…
ということで、“恐竜王国”に行ってきましたよ~
柴田神社 - モリゾーのひとり言
2026/04/24 (Fri) 10:22:31
福井駅へは名古屋からだと、高速バスが手っ取り早い。所要3時間ほどで到着した福井駅は、恐竜のオブジェで賑わいを見せていて、北陸新幹線が開通したこともあり、駅前は綺麗に整備されている。
福井県は子供の頃に家族旅行で東尋坊や小浜の海岸へ行った記憶があるが、それ以来の訪れで、初めてと言っていいほどの北陸地方である。
まずは、駅から南西に位置する柴田神社を目指す。商店街を歩き、平日ということもあってアーケード街は人が少なく、駅から少し離れた街の雰囲気はちょっともの寂しい感じ。そんな街の中に立派な鳥居が建ち、さっそく境内へ失礼する。
柴田神社は名称のとおり、柴田勝家公とお市の方を主祭神として祀る神社。地元では、以前から柴田勝家公を崇拝する人たちがいて、明治23年(1890)に遺徳を偲び、旧福井藩主や住民によって創建される。ここは元々、北之庄城があった場所で、天正3年(1575)に築城が始まり、9層なる天守閣があった平城として、当時としては安土城をしのぐほどの日本最大級であったと記録が残っている。境内には城の堀跡や一部の遺構がそのまま残されていて、勝家公の銅像が勇壮な姿で今も見守っている。
勝家公の妻お市の方の娘、茶々、お江、お初の三姉妹を祀る神社もあり、幸福や美容に御利益といった女性に人気の社もある。
拝殿は現代的な造りの拝所で、お参り。境内には他にも稲荷社や、かつて北陸道と南に位置する足羽川が交わる地に架けられたミニチュア版九十九橋もあり、半石半木で造られた、当時の写真付きで説明看板がある。
整備された境内を散策し、社務所で御朱印を拝受。三姉妹神社の御朱印も拝受し、次は、永平寺に向かうバスの時間が迫っているので、お礼を述べ、早々に駅へ向かう。
永平寺(1) - モリゾーのひとり言
2026/04/24 (Fri) 10:23:29
駅東口から永平寺行きの直通バスがあるので、それを利用し、30分ほどで到着。観光地化した門前界隈は、お土産屋が並ぶ通りとなっていて、それでいて、平日ということもあるのだろうか、静かな佇まいを見せている。
緩やかな裾野の道を上がると、新緑が眩しいほどの背の高い木々が現れ、曹洞宗の大本山といわれるだけあって、威厳というか、悠久の歴史がひしひしと伝わってくる。
通用門前にはつぼみのままの蓮の花が出迎え、ちょっとした池には蓮の葉に乗った観音さまの銅像が片膝に片肘を置いて寛いでいる。石段を上がり通用門を潜った正面の吉祥閣で受付を済ませ、ついでに御朱印と御朱印帳をお願いして、お隣の傘松閣でビデオを見る。季節の移ろい風景や修行僧の日常、当寺の歴史を学び、順路通り2階へ上がり、140名ほどの画家による絵屏風や鴨居の透かし彫り彫刻を見ては、伽藍を拝観する。
回廊内の階段を上がると、右手側に中雀門へと繋がる廊下があり、まずは伽藍中央に立ち、建物の全体を把握する。さしずめ、漢字の「日」の形のように回廊が繋がっていて、「日」の4画目に立派な山門、その3画目の中央に中雀門、2画目の上に仏殿・法堂の順で縦に並び、左に座禅をする僧堂、右に大庫院の建物が建ち、分かりやすい。
山門は裏側から見る形で、伽藍の中で最も古い建造物。寛延2年(1749)に造立、中国唐時代の様式の楼閣門で、両側に色彩の濃い四天王像が祀られているのが見える。山門の2回の楼上には五百羅漢が祀られているそうで、毎日、修行僧がここでお経を唱えていると。静寂の中に響く読経が凛と引き締まる空気感を想像し次へ。
永平寺(2) - モリゾーのひとり言
2026/04/24 (Fri) 10:24:22
中雀門から上の方へ目を向けると仏殿が見え、山の裾野に建てられているだけあって、石垣で固められた段差が何となく城郭をイメージしてしまうほどに、高い位置にある。回廊を回り込むように、傾斜のある板間の階段を上がると、ギシギシと音が鳴り、より歴史の重みを踏みしめているのだと感じながら仏殿に到着。
仏殿の内陣には入れず、外から遠目で祭壇の本尊、釈迦如来像を見、右側から過去・現在・未来を表す三尊が安置され、“過去・未来”は上からの直垂によって遮られてよく見えない。背の高い蓮の葉や雪洞(ぼんぼり)、上部の壁には遠目からなのでよく分からないが、精巧な彫刻が施されていて、華やかな祭壇に向かってお参り。
仏殿から朝課などの法要儀式が行われる法堂、法堂から回廊を伝い左手の承陽殿へ向かうと、僧侶は本来、ここから入るであろう承陽門が見え、門の唐破風下の彫刻が立派で、立ち止まって凝視するほどに素晴らしい。承陽殿は、曹洞宗発祥の道元禅師の御真廟で、「承陽」という言葉は仏法を承け伝えるという意味があり、“聖地”ともいわれる場所。なので、門の彫刻といい、ここの、他とは違う雰囲気といい、神聖な?面持ちでお参り。
後になって思い返せば、記憶が消されたかのように、中の様子を憶えておらず…唯一、あの彫刻だけがインパクト大で、ひょっとして、御真廟は実体があるようでないものなのか…現実はとかく幻でもある…と、「色即是空、空即是色」のフレーズを思い起こす。
永平寺(3) - モリゾーのひとり言
2026/04/24 (Fri) 10:25:15
永平寺は一度来ているのだが、子供の頃のことなのであまり覚えていない。“座禅道場”として有名な永平寺であるが、座禅はしたことがない。まぁ~、“黙想”という形で剣道練習後に決まってすることはあるのだが、座禅のあの、警策で肩を叩かれるお馴染みのシーンや足がしびれるシーンは、お笑いコントのイメージがこびりついて、何だか笑えてしまうのは私だけだろうか。
実際に修行されている僧侶さんたちは壁に向かってひたすら座禅を組む…私ら凡人にはとうてい及ばない集中力で励んでいるのを、Eテレとかで見て知っている。朝のお勤めでの一糸乱れぬ読経、なるべく音を立てずに食事をする行鉢、クラウティングスタートの体勢のまま床を雑巾で掛け走る作務…と、中々にハードな修行である。
その食事をする大庫院まで来ると、読んで字のごとく「大すりこぎ棒」が天井からぶら下がっていて、韋駄天が祀られている。浴室、山門、傘松閣と戻ってくると、団体客が屯していて、一般の観光客向けに座禅体験ができる“お勤め”なのだろう、私は時間の都合を理由にパスし、売店で線香を購入し、今いる吉祥閣から聖宝閣の宝物館へ移動。
国宝の「普勧坐禅儀(あまねく座禅を勧める教え)」を始め、書や絵画、器物、故事、古地図など当寺に伝わる宝物を観賞し、曹洞宗の教えや歴史を学ぶ。
帰り。参道を歩いていると、種田山頭火の詩碑を見つけ、石碑に書かれた文字を読む。
「生死の中の雪 ふりしきる」
「てふてふ ひらひら いらかをこえた」
「水音のたえずして御仏とあり」
山頭火は芭蕉の足跡を訪ねて東北を旅し、その帰りに永平寺に立ち寄り、この句を詠んでいる。熊本県の曹洞宗報恩寺での出家得度から禅宗となった山頭火は、総本山である永平寺を訪ねるのが念願だったのだろう、昭和10年ごろから“死に場所を求めて”いた旅と比べ、精神的に落ち着いた時期であったと、3句から推察する。
自然との一体感によって生じる心の中の仏…この世の真理を感じ、自分の内面と対話する中で、生まれた句であると…編み笠を被った山頭火の面影が見えるようで、私も、自然の息吹を感じながら後にするのでした~
福井県立恐竜博物館(1) - モリゾーのひとり言
2026/04/24 (Fri) 10:26:09
翌朝、福井駅東口発の「新感覚XRバス WOWRIDEいこっさ福井号」に乗る。恐竜博物館への入場券付き直行バスなのだが、事前にネット予約をしなければならない。“XRバス”は内窓をすべてモニター画面に改造し、天井にも大きな画面が埋め込まれ、移動中、映画館のように楽しみながら体験できる仕様となっている。
なので、バスの外観は窓がないラッピングされた形となっていて、子供向けの恐竜の絵が描かれ、バス乗車からすでに博物館は始まっている。
この日、予約された方は大人10名ほど。意外と平日にしては多いと思いながら、さっそくバスに乗り込むと、息苦しさを感じるほどでもないが、外観の自然光が入ることなくモニターの映像の光だけなので、密閉された空間が苦手な人はどうなのだろうという印象を受ける。
いよいよ出発となり、映像は物語形式で、タイムスリップやらニュース速報が流れたりと、有名俳優陣が説明したり、博物館に入る前に恐竜に関することを予習するかのように、よくできたコンセプトで仕上がっている。
映像の途中途中で、バスの車窓景色がモニターに映し出され、ある程度、バス酔いしにくい工夫がしてあり、いまどこを走っているのかも分かるが、その車窓モニターすら、すでに撮ったVTRなのではないか…(まぁ~、そんなことはないと思うが…)という考えも浮かんでしまう。何にせよ、60分ほどの移動はあっという間で、博物館に到着し、広い土地に広い駐車場、島根県安来市の足立美術館のような広さを想起し、恐竜のオブジェに見守られながら施設へと入館。
福井県立恐竜博物館(2) - モリゾーのひとり言
2026/04/24 (Fri) 10:27:00
エントランスで受付手続きを済ませ、順路通り、まずはエスカレーターで下る。建物は3階建て地下1階までの造りで、楕円の形をした構造の中へ長い長いエスカレーターが地下へと下っていく…まさに過去へ遡るイメージで建築されたのだろう。ちなみに、設計はあの黒川紀章で、さすが、古代のテーマに即したものだと考えられている。
地下1階に到着すると、“ダイナストリート”と呼ばれる洞窟を想定したトンネルには、いくつかの化石などのガラス展示があり、それを抜けると“動くティラノサウルス”がお出迎え。その先の空間は恐竜だらけの展示となっていて、規模が大きすぎる。
施設は3つのゾーンに分かれていて、まずは「恐竜の世界ゾーン」。全身骨格が50体以上展示されていて、“なんとかサウルス”とか“なんとかトプス”など詳しい名称は分からないが、映画「ジュラシックパーク」で見たようなスケールの大きい恐竜たちが紹介されている。
トカゲ系、猛獣系、鳥類系など、いわゆる、今いる動物系の祖先はこんな感じだったのではないかと考えられている説明で、その中で本物の化石が10体展示。海外から取り寄せたのだろう、どれくらいの値段で交渉したのだろうと、卑しく考えてしまう。
機械仕掛けで首や顎が動いたりする子供向けな恐竜に、“想像鳴き声”など大人でも楽しめるように初心者でも分かりやすく映像などで紹介し、次は「地球の科学ゾーン」へ。
こちらでは陸と海の堆積物、岩石、鉱物など地球上にある“地質学”を展示。やはり惹きつけるものはダイヤモンドやサファイアなどの鉱物で、アメジストを見ていると、島根県奥出雲の宿泊できる博物館、兵庫県のコウノトリ施設の近くにある玄武岩を訪れた時のことを思い出し、「そうそう」とある程度の学んだ知識を再確認しながら巡る。
一部には、福井県が”恐竜国“と銘打ったほどに、福井県で発見された化石「フクイラプトル」や「フクイサウルス」などを展示。発端は昭和57年(1982)、ここ福井県勝山市の杉山川左岸の崖で白亜紀のワニ類化石が発見されたこと。1988年から1999年にかけて調査発掘し、肉食恐竜の歯、骨、足跡、さらには「かぎづめ」が国内で初めて完全な形で発見されるなど、日本で見つかった恐竜化石のうち、約8割が福井で見つかっている。なので、大学に恐竜学部を創設するほど、福井県が”恐竜推し“しているのも頷け、発掘現場の再現や経過など、ここのブースが特に人気で、私も熱心に説明案内を見ながら学ぶ。
福井県立恐竜博物館(3) - モリゾーのひとり言
2026/04/24 (Fri) 10:28:03
ぐるりとバリアフリーの緩やかな通路を上がり2階へ。こちらでは「生命と歴史ゾーン」と題し、生命の誕生から人類への進化をテーマに、地球の環境の変化によって植物や脊椎動物の誕生、絶滅の歴史などを展示。
いろんな恐竜はたまた動物から進化を遂げてきたホモサピエンスは、これ以上、進化し続けていくのだろうか。環境が変わればそれに対応した、いわゆる宇宙人のようなハイブリッドの姿となって生き続けるのか、絶滅するのか…な~んて、考えながら見学は終了~。
いつの間にか上がってきた3階にはおみやげショップやレストランがあり、バスの時間まで昼食タイム。室内は何だか、ラボというか研究室を匂わせるカウンターとなっていて、食券で“スピノザウルスカレー”を購入し、フードコート形式で“ポケベル”のキカイを受け取り、待つこと数分、“ポケベル”が鳴ってセルフでカウンターへ。トレーに乗った“スピノザウルスカレー”は、他のお客さんたちの目を引くほどの、インパクト大のカレーで、相乗効果なのか「あれにしようよ」と言う声が聞こえてくる。
席につき、さっそく実食。恐竜のイメージ?そのままに、原始人のように骨付きチキンを貪り、スピノザウルスの形をした五穀米を崩してカレーと一緒に頬張る。博物館で食べる食事は何だか、実験的な感じがして、それがまたオモロイと、お腹を満たし、おみやげコーナーではお菓子やぬいぐるみなど多数販売。私は紙で3Dに組み立てられるティラノサウルスなどを購入し、博物館を堪能するのでありました~
福井城跡 - モリゾーのひとり言
2026/04/24 (Fri) 10:29:03
恐竜博物館から福井駅への移動も“XRバス”を利用し、内容は福井県の特産品や観光名所の紹介アピールの映像で楽しませてくれ、あっという間に到着。
駅西口から北へ600mほど歩き、城跡特有の、堀によって直線の道が斜めに曲がったりする名残りある交差点に差し掛かると、石垣や堀が見えてきて、石垣の上には城郭でなくビルが建っている。今は県庁となっている県の中心はとかく、城跡に置かれるのだろうかと、駿府城跡の静岡県庁を思い浮かべる。
さっそく“城攻め”ということで、御本城橋から失礼すると、場違いなほどに公官庁具合が強めで、城跡という雰囲気が台無しというか、旅行者にとってビルのアスファルト道路を歩くのは“迷い犬”のような、そんな気持ちで城跡の名残を探す。
福井城の歴史は、天正4年(1575)に柴田勝家が築いた北之庄城が前身。天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いで勝家公が敗北すると、北之庄城も焼失。その後の慶長5年(1600)に徳川家康の次男、結城秀康により、北之庄城の跡地に築城し、「北之庄」の「北」が「敗北」に通ずることから改めて、この地を「福居」とし、「福井城」と改名される。
以来、約270年にわたり、寛文10年(1669)の大火で焼失するまで天守は存在していたわけで、本丸は御殿跡を中心に現在では県庁、警察本部、県会議事堂が建っている。
で、その最初の普請者、結城秀康の石像を見つけ、天守台は北西角にあるようなので行ってみることに。石垣や「福の井」と呼ばれる井戸の遺構があり、昭和23年(1948)に起きた福井地震で崩落した痕跡や天守台が傾いてしまっている跡も見られ、やはり大きい災害に敵うものはないし、自然の摂理には逆らえないと、何とはなしに立ち尽くす。
天守台から西の山里口御門へ抜ける方へ行くと、枡形虎口となっていて、山里口御門から続く御廊下橋は屋根付き回廊と、ちょっと珍しい。堀を覗くと、水が御廊下橋を挟んで北側は溜まり、南側には枯れた状態。テレ東の「池の水ぜんぶ抜いてみた」の番組か!とツッコミを入れながら城跡を後にする。
(ちなみに、この旅を終えた一週間後に、本当に放送していたので、「本当かよ!」と自分でツッコミを入れてしまいました~)
福井神社 - モリゾーのひとり言
2026/04/24 (Fri) 10:30:03
お堀沿いを北へ移動すると、大きな鳥居、大きな社号の入った石碑が建つ福井神社に到着。境内の参道から先、途中で左に折れ、護国神社かと思わせる横に長い敷地となっていて、第3の鳥居が芸術的な様相で建っている。直線的でシンプルでありながら、現代建築を採り入れた、視覚的に目を惹く造りとなっていて美しい。
鳥居を潜ると社殿が、これまたコンクリートで造られた形をしていて、まずはお参り。
当社の御祭神は、越前福井16代藩主の松平慶永(春嶽)。藩政改革や日本の近代化に大きく貢献した人物。昭和18年(1943)に県民の熱意により創建し、日本で最後の「別格官弊社」(国家に功績のあった臣下を祀る社)に列せられた神社であるとされている。
境内には摂社の恒道神社もあり、こちらは春嶽を支えた橋本佐内らを祀る神社として、幕末期に活躍した大物たちが“眠って”いらっしゃる。
絵馬殿?には春嶽が創設した藩校「明道館」で教えている橋本佐内が描かれた絵馬があり、安政の大獄で25歳の若さで処刑された橋本佐内は福井県民にとって、崇敬される存在であったのだと改めて知る。
社務所で御朱印を拝受。少し談笑していると、第1鳥居付近に大きな石標があり、それが福井地震で失ったものであるという。どうやらその石標が地震の時に、堀へ落ちてしまい、約10年後に堀の水を抜いた時に発見されたそうで、神社にとっては御利益となる特別な石標なんだとか。当神社の創建が昭和18年(1943)、福井地震が昭和23年(1948)だから、神社ができて5年後に被害に遭われた…早々にして苦労し難儀されたのだろう…と。禰宜?さんに感謝申し上げ、その復活を遂げた石標を見るべく元来た道を戻り、今は何もなかったかのように佇む石標を拝み、あやすようにポンポンと撫でるのでありました~
神明神社 - モリゾーのひとり言
2026/04/24 (Fri) 10:31:03
福井神社から北へ。城跡北側の東西を走るさくら通りを越え、敷地の広い境内だと分かるほどの公園も備えている神明神社へ。
鳥居を潜る時、ちょうど小雨が降り始め、公園内には誰もいない、遊具だけが佇んでいる風景は、どんよりとした天候も相まって、もの寂しい印象を与えている。境内にも人っ子一人いない情景の中、目の前に見える社殿の見事さに、手前に鎮座している狛犬も「どうだ!」と言わんばかりに威厳を放ち、逆に、先ほどの公園の雰囲気を忘れさせるかのように、寂寥感のような雰囲気を打ち消している。
神明神社の御祭神は天照大神。つまり、皇大神宮を元としている。伊勢に神宮ができて以来、この地の越前国足羽郡足羽郷北の庄三郷は、御戸帳(みとばり)を奉る御領地として崇敬されてきた土地柄。醍醐天皇の御代に、北之庄に明光長者という人がいて、日頃より神宮を深く崇敬していて、朝廷の許しを得て、当地に社殿を造営し、神宮より勧請したのが始まり。
御戸帳とは「幌」のことで、越前産の絹が使われ、伊勢神宮に奉納していたとはつゆ知らず、福井が絹織物を中心とする繊維関係の生産地であったことを知り、岐阜県の飛騨地方から嶺北にかけて蚕の飼育が盛んであったと、白川郷の合掌造りの資料館を訪れた時のことを思い出し、はたまた、街中を歩いていて、結婚式場やレンタル振袖の店がやけに多いなぁ~と感じ、「確かに!」とイメージが膨らむ。
それから、当神社の由緒には、歴代の国主の崇敬があり、北之庄には鎌倉時代に越前守護所が置かれていたとも云われ、越前における政治上の重要地点であり、平重盛をはじめ、源頼朝、北条氏、新田氏、斯波氏、朝倉氏、柴田勝家、丹波長秀、(…省略)松平氏と、それぞれの時代に国の安泰を祈願したほどの崇敬があったとのこと。松平秀康が福井藩に入封した時は、神領二十石寄進、重臣の本多富正は二の鳥居、秀康公の母である長松院は植木200本と、その他の歴代藩主も神社に“施し”を与えている。
社殿はコンクリート製っぽい造りとなっているが、前面の唐破風屋根の神明造りが立派で、威厳を保ち、そんな中でお参り。
右手には神楽殿、左手には合祭殿と呼ばれる恵比須、稲荷、袋羽神社を合祀した社が建ち、壁には分かりやすく家内安全などの御利益の名称が書かれてある。公園近くには聖徳太子堂もあり、形が六角形のお堂。明治24年(1891)に岡山に建立されたが、2年後に当境内に移築されたとのことで、どういう経緯で岡山からここに引越ししてきたのかは分からないが、堂内の太子像にお参りし、御神徳を得る。
社務所に伺うと、快く御朱印を書いて下さり、福井の天照大神に感謝申し上げるのでありました~
佐佳枝廻社 - モリゾーのひとり言
2026/04/24 (Fri) 10:32:03
神明神社から南西方向へ。福井城跡の“城西公園”を眺めながら外堀であろうか、ちょっとした人工池には蓮の花が中途半端に咲いていて、午後なので仕方がないか…と癒しを受け取る。
「佐佳枝廻社」という看板を見つけ、階段上は参集所のような建物があり、石壁面の高さが、元々は丘の上にある事を物語っている。マンションの入口のような階段を上がると、境内の“横っ腹”から失礼したみたいで、鳥居は左手(南側)に建っていて、右手に社殿と、敷地はかなり広い。社殿を見ると、拝所にはカラフルな千羽鶴?の飾り物が目立ち、七夕の時期に飾るような雰囲気の中、拝殿でお参り。
佐佳枝廻社は「さかえのやしろ」と読み、御祭神の一柱である松平慶永(春嶽)公の御命名による。文字通り、福井が「栄える」という願いも込められているが、元はお寺の境内にあった家康を祀る東照宮で、奉安する御正体には、3代将軍家光が調進された東照大権現の御神像の13体のうちの1体が納められていたそうで、寛永の大火の後、再建、移築を繰り返し、「佐佳枝廻社」と改称されたのは明治に入ってからとのこと。なので、改めて御祭神はというと、家康を始め、福井藩祖の松平秀康、福井藩16代目の松平慶永(春嶽)の3柱がメインで、境内には榮稲荷神社もあり、葵の御紋があちこちに権威をかざしている。
社殿は何となく新しい気がするが、戦後40年を経過して建物の老朽化に伴い、平成元年(1989)に神社を含む再開発を行ったそうで、平成4年(1992)に竣工し、現在に至っている。
社務所で御朱印を授かり、お礼を述べ、本来入るべき鳥居から退出し、その鳥居や社号の石標の大きいこと大きいこと…松平家の威厳を示すかのように全体を見渡し、平伏するかのように東照大権現さまに感謝申し上げるのでありました~
また42、京都の旅(2) - モリゾーのひとり言
2026/04/02 (Thu) 10:11:39
毎年、さくらの開花時期が早まり、温暖化が進む今日この頃。モミジと同様にサクラも短く散ってしまう現象に、季節感が無くなり、「風流」という言葉も無くなっていくのは悲しい。
で、今回は2月上旬に行った京都の旅。節分の日は仕事だったので仕方ないが、1月の“京の冬の旅”の消化不良を補うため、再び一泊二日の旅~
豊国神社 - モリゾーのひとり言
2026/04/02 (Thu) 10:12:58
京都駅のバスターミナルはあいかわらずの人の多さにうんざりする。東山方面に行く時は、ぎゅうぎゅう詰めのバスに乗らなければならないので、それを回避するため私は決まって地下鉄九条駅へ移動し、そこから202か207系統の祇園方面に向かうバスに乗車する。東山七条バス停で下車し、京都国立博物館の建物を見渡しながら、お隣の豊国神社へ通りを歩くと、通り沿いに大きな岩が積み重なる石垣があり、権威を表しているかのように配され、大きな鳥居に到着。
豊国神社はちょこちょこ訪れていて、“刀剣めぐり”で「骨喰藤四郎の小太刀」がデザインの御朱印帳を購入したことを憶えている。今回は、“京の冬の旅企画”で、書院と宝物館が拝観できると聞き、当神社へはよく参拝しているにもかかわらず、宝物館は一度も見たことがなかったので、この機会にと訪れた次第。参道から正面に建つ国宝の唐門が、異彩を放っているあいかわらずの”出で立ち“で、外国人観光客が多い中、しっかりとお参りし、受付を済ませ、まずは書院から。
書院は元は、「恭明宮」という明治時代初期に、京都に残った宮中女官の居住施設として建てられ、皇室歴代の位牌や念持仏を祀った、御所からここへ移築した遺構である。宮中の居住施設だったというから、きらびやかなイメージだと思ったら、質素な畳敷きの普通の室内で、そこに展示物が置かれている。
まず最初に目を引く屏風絵。案内の方によると、レプリカであるが「豊国祭礼図屏風」は名称の通り、神社の祭礼の様子が描かれていると。祭りなので、南蛮人や七福神などに扮した人たちが楽しそうに踊り、陽気にはしゃぐ?人々の中に、“たけのこ男”が混ざっているとのこと。今でいうコスプレーヤーが一人いて、“ウォーリーをさがせ!”ではないが、探す楽しみもあり、この時代からそういう文化があったんだということが分かる。ほかには秀吉が着ていたであろう羽織や甲冑、NHK大河ドラマの「豊臣兄弟」の出演者のサインなどを展示。書院から宝物館へ移動し、宝物館の入口には、龍が描かれた鉄灯籠からのスタートで、案内の方と一緒に拝観。
大正ガラスのショーケース内に、こちらは“モノホン”の「豊国祭礼図屏風」を展示。“たけのこ男”も健在で、他に、獏の頭の形をした「獏御枕」、甲冑や書状、掛け軸、秀吉の「歯」と伝わるものまで見応え十分。中でも、源頼朝から足利家、秀吉、家康と所持されてきた「骨喰藤四郎の小太刀」(レプリカ)は、龍の模様が施された、元は薙刀の矛先。正確には刀身の差表には倶利伽羅、差裏には不動明王が施されているとのことだが、裏面を見ることができないので分からない。“モノホン”はお隣の京都国立博物館に展示されているそうで、歴代の権力者が守り刀として好まれてきたことが分かり、権威の象徴であったのだろうと想像する。
社宝を拝観し、社務所には御朱印目当ての参拝者がずらりと並んでいて、“京の冬の旅”Vrの御朱印を拝受し、お隣の方広寺へ。
方広寺 - モリゾーのひとり言
2026/04/02 (Thu) 10:13:59
豊国神社境内からそのまま北へ移動すると、方広寺の敷地となっていて、そもそも、方広寺の専有地は昔、豊国神社を始め、京都国立博物館までの、だだっ広い土地が境内となっていたので、仕切りもなく、あの“鐘楼”も挟んですぐのところにある。
方広寺は十数年ぶりの訪れ。鐘楼はそのままだが、本堂は増築されて大きくなったような…私が最初に訪れた時は、ちょっと朽ちた小さいお堂だったような気がするが、昔の記憶は当てにはできないので、随分変わったなぁ~に留めておく。
横長の立派な本堂脇から受付を済ませ、まずは大黒天堂へ。秀吉が常に護持していた手のひらサイズの大黒天。十分の一くらいの大きい大黒天はお前立として安置されていて、その背後に手のひらサイズの大黒天が祀られているのでよく見えない。以前は住職さんの計らいで目の前で拝ませてくれ、いろいろなお話を聞かせていただいた思い出があるが、さすがに拝観者が多いこの時期では致し方ないのは理解できる。
案内の方によると、堂内の天井に施されている「龍図」は剥がれ落ちそうになったので、今では掛け軸として隣の部屋に展示してあるとのことで、その「龍図」は、明治大正時代の日本画家、吉川霊華が描いたもので、龍の上唇が獏みたいに長い特徴を持ち、かなり大きな掛け軸として修復されたよう。
そして、江戸時代に造られた三代目盧舎那仏が安置され、盧舎那仏はかつて秀吉が奈良東大寺に倣って、東大寺の約3倍の規模で大仏殿を造り、高さ約19mの大仏を完成させた、その十分の一のサイズが祀られている。
秀吉の栄華を極めた頃の大仏は、権威の象徴ともとれる“代物”で、結局、完成した翌年の地震により倒壊、その後も焼失、再建を繰り返し、昭和48年まで大仏の存在はあったというから、相当な管理費があったのだろうと想像する。ちなみに、四代目大仏もあり、愛知県から譲られた大仏で、写真を見たが、お顔立ちは岐阜県の正法寺にある岐阜大仏のような…“ハンサム顔”ではない。
そんな数々の惨事を乗り越えた盧舎那仏にお参り。他にも、左甚五郎作の龍の彫刻、わずかに残る巨大な石墨など、在りし日の大仏殿の遺物が展示され拝観。
鐘楼へと移動し、あの「国家安康 君臣豊楽」を見る。家康が難癖をつけ、大阪冬の陣へ持ち込んだフレーズ…もちろん、これだけの理由だけではない。家康は豊臣家の財力を削るため、寺社再建や江戸城の普請など多くの軍役や諸費用を捻出させ、はたまた、朱印船貿易の利益を我が物にするため、堺と長崎の商業都市を自らの統制下において、経済的な利益を奪う…まさに家康が“たぬき”といわれる所以で、豊臣家の滅びゆく歴史を、この鐘楼を眺めながら、兵どもが夢のあとのように哀しく耽る。
案内の方によると、鐘楼の内部には茶々姫(淀君)の呪いの姿が…見える人には見える…とのことで、私は「安珍清姫伝説」を思い浮かべ、中に入るのは遠慮し、御朱印を拝受し次へ。
大徳寺法堂・経蔵 - モリゾーのひとり言
2026/04/02 (Thu) 10:14:58
博物館三十三間堂前バス停から206系統の市バスに乗って、ぐるりと左回りで北大路バスターミナルを経由し、大徳寺前バス停で下車。京の冬の旅では、各社のスタンプを押印し、3つ集めれば指定の茶屋で“お接待”が受けられるおなじみの企画をしていて、今のところ7つ集まっている。限のいいところであと2つ訪れたいと思い、1つは仁和寺観音堂、もう1つはどこにしようか…茶屋の近くにある所がいいと、大徳寺法堂・経蔵へ行くことに。
大徳寺は塔頭寺院がいくつもあり、ほとんど拝観を済ませているが、メインの方丈や法堂も1回は訪れている。もちろん、法堂にある狩野探幽作の天井画「雲龍図」は有名で、手を叩くと法堂内の空間が振動し、音が天井に届くと、龍が鳴いているような“響き”が聞こえる体感は今でも憶えている。それをもう一度、体験してみたいとさっそく、大徳寺の敷地へと入ると、総門の先の石畳、一直線にならぶ伽藍を眺めながら、一番奥の法堂にたどり着き、受付を済ませる。
堂内は陽の光を遮断する効果からかもしくは、石の床により涼しく、というかこの時期は肌寒い。そんな空間で見上げれば「雲龍図」がにらみを利かし、これほどまでに天井の高さがあったのだと気づく。
小田原城主、稲葉正勝の遺志により、子の正則が再建したもので、法堂は僧侶たちの教育の場であり、中央には立派な“教壇”が設え、土台には獅子の彫刻で施されているのが見える。
案内の方によると、「雲龍図」は一回描いたものを切り分けて、天井に貼り合わせたのではないかと。確かに、巨大な絵をそのまま天井に貼り合わせるなんて、無理があるかもと納得し、さっそく柏手を打つ。“鳴き龍”が響き、空間が揺れる…鳴らし方にもコツがあるようで、案内の方は「うまいですね」と叩き方を誉めそやし、私もまんざらではない。湿気が多いと“鳴かない”こともあるそうで、“鳴き龍”が聞けて満足×2。
お礼を述べ、次は経蔵。経蔵は文字通り、お経が納められた蔵で、経蔵内には中央の心柱を軸にぐるりと回る仕組みとなっていて、一周回せばお経を読んだことと同じ功徳が得られるという、いわゆる“お経メリーゴーランド”?(たとえが変です…)。
一切経などの約3500冊の経典が納められていて、正式には回転式の「八角輪蔵」と呼ばれている。案内の方いわく、それぞれの箱にインデックスのように漢字一文字が書かれていて、全部繋げると、中国の物語の故事になるんだとか。どこに何があるかを識別するための“マーク”のようなものだと思っていたが、ちゃんと理由があるんだと知りオモロイ。
回転式といっても今は回転することができず、自分で一周回らなければならず、それで得られるならばと入口側へ廻る(入口は封鎖されていて、経蔵の背後からの拝観となっている)と、この「八角輪蔵」を考案した中国梁時代の傳大士像とそのお弟子さんが安置されていて、右手で“閉じピースサイン”をし、「悟りを開いたよ」と言っているかのように喜んだ表情をしている。そんな彼らに手を合わせ、輪蔵の心柱も見ることができ、大徳寺開創700年?という、そんな歴史を刻んできた寺院…訪れることができ感謝×2。
写真は経蔵。
大雲寺 - モリゾーのひとり言
2026/04/02 (Thu) 10:16:06
翌朝、地下鉄国際会館駅で下車し、京都バスで岩倉実相院前バス停へ。目的は岩倉実相院ではなく、その近所の大雲寺。たまたま見つけたネット情報で、「秘仏 335年ぶりの御開帳」のフレーズに心惹かれ、訪れた次第。行基作の十一面観音菩薩立像が拝めるとあって、岩倉病院跡地の公園の隣にある大雲寺へ向かうと、山門はなく、お寺というよりか、普通の民家というか、公民館というか、お寺っぽさを感じない建物が建ち、境内?にはお地蔵さんが数体あり、それが唯一“お寺”としての認識ができるアイテム?として保っているかのよう。
事前に電話連絡をしていて、本日は午前中のみということで、いつでも拝観できるわけではないことに、電話してよかった~と胸をなでおろし、さっそく、玄関のような引戸を開けると、銭湯の番頭台みたいに、左手がすぐ受付となっていて、拝観料と書置きの御朱印を支払い、中へ。室内は民家の集会所のような佇まいに、正面、鳥居に装飾を施されたような囲いの中に十一面観音菩薩立像が安置されていて、周りは奉納された手作りの仏像やミニ仏で埋め尽くされている。
住職さん?(管理されている人かも…)が一通り説明をして下さり、本尊の十一面観音さまは奈良時代に造られ、平安遷都の際、洞中に安置されていたのを光仁天皇が仙洞御所へ移動し、その後、藤原時平が拝領し、大雲寺に安置された経緯が古書に示されていると。
大雲寺は平安時代、円融天皇が比叡山延暦寺講堂の落慶法要の際、ここ岩倉の地を眺められ、霊地であると日野中納言藤原文範卿を遣わして、真覚を開祖として創建。円融天皇の勅願所として49の堂塔伽藍をはじめ、洛北屈指の名刹となったという。そのうちの観音堂に祀られていたのが十一面観音さま。奈良長谷寺の十一面観音と同じ霊木から造られたとのことで、行基は聖武天皇の玉体、つまり姿、顔、形を映して造ったと伝えられている。そのお姿を拝むと、聖武天皇はふくよかな容姿だったのだろうかと眺め入る。
兵火により頭頂部の“十一面”は焼失してしまい、それが返って「代受苦」として、頭や脳に関する御利益があると云われ、錫杖や蓮の葉が入った花瓶は江戸時代に造り替えられ、元禄4年(1691)以来の御開帳ということで、どんだけ忘れ去られたことかと。この間も昭和60年(1985)に火災で本堂が焼失、現、仮本堂で営まれてきたというから、「なるほど…」だから、こう言っては何だが、境内の様子が“お寺お寺”していないのかと納得。
説明を聞き終え、しばらく十一面観音さまと二人きりで相対していると、頬に一筋の涙を流したような跡が見え(ただのシミかも…)、当寺の法難を憂いてなのか、ようやく人様にお会いできる機会が巡って嬉しいのだろうと、いろいろと妄想してしまう。
住職さん曰く、これからは33年に一度の御開帳をしていくとのことで、またお会いできるだろうかと、貴重な仏像を拝観し、お礼を述べ後にする。
石座神社 - モリゾーのひとり言
2026/04/02 (Thu) 10:17:06
大雲寺から北へ坂道を上がると、石座神社がある。天禄2年(971)に大雲寺創建の折、石座明神を勧請して鎮守社としたのが現神社であるが、岩倉の産土神として尊崇されてきた石座明神は、元は、現在地から南にある山住神社で、“神社”といっても、巨大な岩石があるだけの“磐座”を称して、それ自体を崇敬する“神社”であったと伝わる。
その山住神社には現在、巨石はなく、御旅所としての役割を果たしていて、桓武天皇が平安京遷都の際、呪術による防衛ライン、つまり鬼門や四神相応といった陰陽道を用いた仕掛けで、桓武天皇が経典を4つの磐座に収めた場所の1つがここ、「北の磐座」であり、「磐座」=「岩倉」の名称となっている。
ちなみに、4つの「磐座」は東に大日山(粟田口辺りで現存せず)、西に金蔵寺(大原野辺り)、南に明王院不動寺(五条松原辺り)である。
そんなネットの情報を知って訪れた石座神社であるが、鳥居からの坂道石段参道を歩き、境内は立派な幣殿(神楽殿?)や本殿が建ち、至って鳥肌が立つような感覚のない、普通の神社である。
本殿は二社、向かって東側に八所明神、西側に十二所明神の社が建ち、前者は石座、新羅、八幡など、後者は八所、伊勢、貴船などを祀っていて、どちらもお参り。
本殿の右隣には一言主神社があり、名称の通り、一つの願いを叶えてくれる?神社。奈良御所市の、賀茂氏ゆかりの高鴨神社を訪れた時のことを思い返し、こちらもお参り。
社務所へ行くと無人であるが、「御朱印」という貼紙が貼ってあり、たぶん書置きの御朱印が置いてあるのだろうが、何もないので“売り切れ”ということだろう、諦めて境内を散策。
壁には「岩倉の火祭り」についての説明書きが貼ってあり、10月下旬に行われる大祭のようで、2基の松明が龍のように燃え盛る写真が掲載されていて、午前3時に点火し、松明が燃え尽きる明け方に神輿の渡御が始まり、行列が御旅所へ向かう流れとなっている。つまり、石座明神が1年に1度里帰りする行事ということか。
この火祭りは、村人を悩ませた大蛇を退治するために神火で追い払った故事とされ、この地域の伝承とされているらしい。
火祭りといえば、ここから北に位置する由岐神社の例祭「鞍馬の火祭」が有名であるが、火祭りって、大体、深夜に行われるので、見たい気持ちはあるのだが、「午前3時か…う~ん」と唸ってしまう。“年寄り”のひがみを言いつつ、写真だけで妄想を膨らませ、神社内での勇壮な火祭りの演舞をするのだろうか…石座さまに感謝しつつ、後にする。
仁和寺観音堂 - モリゾーのひとり言
2026/04/02 (Thu) 10:18:10
地下鉄国際会館駅に戻り、北大路駅、バスターミナルから北野白梅町バス停で乗り換え、10系統のバスに乗り御室仁和寺バス停で下車。目の前の仁王門はあいかわらずの大きさを誇り、阿吽像がにらみを効かしている。
仁和寺は何回も来ていて、やっぱし「御室桜」が有名。境内で地元の小学生から課外授業に付き合わされ、アンケート攻めを受けた思い出が蘇るが、京の冬の旅では観音堂が公開されるということで、私はまだ訪れていない観音堂だったので、初めての拝観となる。
受付を済ませ、広大な敷地の砂利道を踏みしめ、中門を潜ると、五重塔、御室桜、元紫宸殿の金堂等を見、久しぶりって感じ。
観音堂拝観には「00分、30分」の時間設定が設けられていて、次の回まで時間が余っているので、その間、京の冬の旅企画の“お接待”を受けに仁和寺境内にあるカフェで時間を潰す。レモネードを注文し、周りのポスターや映像などを見、仁和寺の四季折々の風景や歴史、仏像などを改めて学ぶ。傍らの案内には木の薄皮を使用した御朱印も紹介していて、購入はしないが外国人観光客が見入っている姿を微笑ましく見守る。
時間となり、観音堂前に行くと、拝観を終えた人たちがぞくぞくと退出し、これから拝観する人たちの行列が並んでいて、急いで続き、いよいよ堂内へ。
薄暗いお堂の中、ステージのような壇上には仏像群が並び美しい。観音堂の本尊は千手観音菩薩。脇侍に不動明王と隆三世明王、左右にはずらりと並ぶ二十八部衆、その前の須弥壇には風神、雷神が控え、計33躰を安置している。仏像群背後の壁面にはその33観音の他、六道図が描かれていて、絢爛豪華である。
僧侶が説明に入り、観音堂は建長6年(928)創建され、度重なる焼失を繰り返し、現在の堂宇は江戸初期の建築で、平成24年(2012)から6年に渡って修理が行われたとのこと。約380年経つにもかかわらず、色彩が残っていることや細かな躍動感ある造形がすばらしく、千手観音が合掌している手からは紐が観音堂外へとつながり、拝観後は、紐を掴めば御利益を得られると。
仏像群を見ていて、風神・雷神像の色彩が艶やかで、昔から残されたものなのだろうか、はたまた、修復して色が付いたのだろうか分からないが、昔の人はきっと、同じ色の風神・雷神像を見ていた…いや、ひょっとして拝むことさえできなかったのだろうか…と。
ステージに立つ“演者”は、ポーズをしているボディビルダーかのような…妄想をしてしまい、思わず声を掛けてしまうほどに、見入る。
拝観後、紐を掴みに手を合わせ、金堂前の納経所で御朱印を拝受。良い拝観となりました~
泉仙 - モリゾーのひとり言
2026/04/02 (Thu) 10:19:28
京の冬の旅企画“お接待”はあと2つ。今日はもう拝観する所ないので、“お接待”を受けに茶店を伺う。大徳寺境内にある「泉仙」さんで抹茶とわらび餅が食べられるということで、地図上では1月下旬に訪れた大徳寺大光院の東側に位置しているが、時間が決まっているので、前回は訪れることが叶わず、今回はちょうど良いタイミングなので訪れることに。
大徳寺大光院付近へ伺うと、何だか民家の小路に入ってしまい迷ってしまう。そんな様子を心配して見ていた地元住人の方が教えてくれ、「泉仙」は、大徳寺塔頭寺院の大慈院のことで、一旦総門の方まで行かないといけないという。お礼を述べ、東側へと初日に訪れたとおりに回り込み、案内看板の地図を頼りに、大慈院へ石畳を歩くと、細い路地、山門からの参道、京都らしい苔の生えた庭を見、お寺というか、もうお店の佇まいとなっている。
引戸を開け中に入ると、客間は二間8畳ほどの広さに案内され、先客が寛いでいる。“お接待”の券を渡し、抹茶とわらび餅が運ばれリラックスタイム。
「泉仙」は普段は、精進料理を提供する予約制のお店。なので、この、京の冬の旅企画でもない限り、訪れることはなかったであろう。大正ガラスっぽい窓からの外の風景は、外からは中が見えにくいように足元だけとなっていて、石畳とちょっとした枯山水が風情を醸し出し、落ち着ける空間。しばし寛ぎ、もう1つ、“お接待”を受けられるお店を思案する。
笹谷伊織 - モリゾーのひとり言
2026/04/02 (Thu) 10:20:31
大徳寺前バス停から206系統のバスに乗ってぐるりと右回りで南へ移動。七条大宮バス停で降り、交差点近くにある「笹谷伊織」さんへ赴く。“お接待”が受けられるお店は全部で31ヶ所。その中で、コストパフォーマンスが高い?「お菓子資料館」は本日定休日。まぁ~一度訪れてはいるのであきらめもつくが、「笹谷伊織」さんは3ヶ所ほどの“お接待”の店舗があり、クチコミを見ていて、気になったことがあったので訪れることに。
入店すると、ほとんどお土産をメインに扱っている感じの店内だが、4、5席ほどのお茶できるスペースがあり、夕方ということもあって、誰もいない。さっそく、“お接待”の券を渡し、運ばれてきたお菓子は、あずき餅とほうじ茶。あずき餅はどら焼きではないが、生地の中に粒あんが入った和菓子。何か他にニッキのような隠し味が入っているような…味がして、これまたほうじ茶と合う。
店にあるパンフレットがあったので読んでみると、「享保元年(1718)創業」とある。名称からして“ただモノではない”ことは感じていたが、初代、笹谷伊兵衛が御所の御用を仰せつかり、伊勢国の城下、田丸より京へ上がったことから始まると。
以来、およそ300年、京菓匠として歴史を重ねてきたと説明書きされていて、現在は10代目に当たる方が営んでいて、名物とされる「どら焼き」が有名のよう。
「どら焼き」と言っても、あの、ドラえもんが好きな「どら焼き」ではない。京都の東寺のお坊さんから依頼を受け、お寺の銅鑼の上で焼いたのが始まりで、秘伝の薄皮で棒状に伸ばした“こしあん巻”を竹の皮で包んだ和菓子だと。
毎月20日、21日、22日の3日間しか販売しておらず、クチコミによると、「もっちりとした弾力性の食感」とあるので、羊羹のような、ういろうのようなことだろうか…
買える機会があるならいつか購入してみたいものだと、食後、お土産として、あずき餅と他の和菓子を購入。京都の“お接待”を受け、今回も京都の旅は満足×2となりました~
また42、京都の旅(1) - モリゾーのひとり言
2026/03/21 (Sat) 10:23:34
梅の便りが届く頃、花粉症に梅干しを食べると良いという情報を得、気休めながら食べている。癌治療に関しては日々、医学が進んでいるが、アレルギーに関しては、100年はかかるという。日本人の2人に1人が花粉症という特異体質な我々に、解決の糸口は見つかるのだろうかと、私が生きているうちは無理だろうな…
さて、今回は1月下旬に行った“京の冬の旅”。一泊二日で行ったのだが、二日目の帰り、雪で新幹線がストップするのではという不安を抱えながら、結局は初日だけの旅となり、消化不良で2月上旬にも訪れました。2月上旬分はいずれ載っけますが、何だか、毎年の恒例行事となってしまった京都の旅を堪能~
大徳寺大光院 - モリゾーのひとり言
2026/03/21 (Sat) 10:24:54
今年で“京の冬の旅”は60回目の節目を迎え、NHK大河ドラマは「豊臣兄弟」と、今回は豊臣家に纏わる関連寺社が非公開文化財を特別展示している。
京都は1年ぶりの訪れで、毎度の事、バス地下鉄1日乗車券を利用し、まずは地下鉄北大路駅、バスターミナルから西へ建勲神社前バス停を目指す。もう、見慣れた街の景色を眺めながらバスを降り、交差点で信号待ちをしていると、通りの反対側にあるお漬物屋さんを見、時間があったら寄ってみようと、大徳寺大光院へ移動。
長年、京都に訪れているが、大光院は大徳寺の塔頭寺院の中ではあまり公開していないのではないだろうか、本坊より西へ離れた場所にあり、小路通りに建つ山門を潜り失礼すると、京都らしい苔の生えた軒先に石畳が続き、落ち着いた雰囲気。
受付を済ませ中に入ると、客殿南面にある枯山水庭園を眺めながら襖絵から拝観。狩野探幽筆の「黒雲龍図」がずらりと並び、元は伊達家所有の屏風絵で、当寺が再建された時に寄進されたものらしい。迫力ある龍の姿が黒雲の中でうごめいている…そんな表現だろうか、じっくりと見る。
大徳寺大光院は豊臣秀吉の弟である秀長の菩提寺。秀長と伊達家との関係は、秀長が病死してしまったので、繋がるところはないが、敢えていえば、北条小田原征伐後の伊達政宗上洛の際、秀長との会談が実現していれば、正宗への処遇や豊臣政権による奥州統治の在り方が大きく異なっていた可能性があったのではないかと(無理やりこじつけ…)。
そんな不遇の時代?を憂いてか、もし秀長が生きていたら…との想いもあって、伊達家は「黒雲龍図」を寄進したのかもしれないと、勝手に妄想する。
客殿中央には秀長公像と位牌が並び、手を合わせ、ガイドさんの説明を聞く。大光院は元は、奈良大和郡山に建立されていたのを、秀長の家臣であった藤堂高虎が大徳寺山内に移し、古渓宗陳(こけいそうちん)を開祖として創建。古渓宗陳は、千利休の参禅の師であり、秀長葬儀の際には導師を務めた人物。大徳寺の総見院で秀吉が信長の葬儀をした人もこの方で、秀吉が利休切腹を命じた際にも、大徳寺自体も破却せよという命令に、この方が身を挺して大徳寺を守ったほどに、今ある大徳寺はこの方のおかげといっても過言ではないと。
説明を聞き、枯山水庭園の西側には墓所があり、秀長と藤堂高虎の五輪塔があるとのことで、移動すると、墓所には入れず、斜め左方向(南側)へ遠目ながらの拝観。立派な五輪塔が並んで建ち、その時代に生きた漢(おとこ)たちに手を合わせる。
書院へと廊下を歩き、茶室「蒲庵(ほあん)」へ。「蒲庵」とは古渓宗陳の別号「蒲庵古渓」から名付けられたとされ、二畳ほどの広さに障子窓が意外と周りに取り付けられ、室内は明るい。この茶室は移設されたものであるが、その移設される前には、庭の露地に黒田長政と加藤清正、福島正則それぞれ1つずつ寄進したという「三石の庭」があったそうだが、その石はなぜか一緒には引っ越しされず、そういうことがあったという名残だけが伝わっていると。
秀吉の“ブレーキ役”でもあり、あらゆる戦国武将との縁があった秀長。秀長ゆかりのお寺を訪れ、御朱印も拝受し、秀長の人となりを想うのでありました~
福勝寺 - モリゾーのひとり言
2026/03/21 (Sat) 10:26:38
建勲神社前バス停から左回りの206系統の市バスに乗って、千本出水バス停で下車。ここは、豊臣政権下での区画整理(聚楽第建設の為だったかな…)のため、お寺が多数引っ越してきた「出水」という界隈。なので、お寺が密集していて、今回の“京の冬の旅”でもありがたいことに、“3連チャン”で訪れることができる。
西に数分、最初に訪れるのは福勝寺。洛陽33観音霊場として1回訪れている。もう10年ぶりぐらいだろうか、山門を潜った境内、目の前に現れる本堂、左へ庫裏が続く建屋の狭い敷地の印象が昔と変わらずそこにあり、「そうそう、こんな感じだった…」と懐かしい。
福勝寺は「ひょうたん寺」と呼ばれ、秀吉が厚く信仰していた聖天堂に祀られている秘仏、歓喜天(聖天)に、出陣の際には「武運長久」を祈願してひょうたんを奉納したことで有名。節分の日には、家内安全、無病息災、学業成就、商売繁盛、金運上昇などなど…鬼に金棒的な御利益がある「ひょうたん守り」が売られ、行列ができるほどの人気ぶりで繁盛するそうな。歴代天皇も帰依して勅願寺とし、江戸時代に後西天皇から御所の「左近の桜」を枝分けして下賜されたことからも、宮家や地元の崇敬が厚かったのが分かる。
入口では切り絵御朱印を販売していて、秀吉の絵柄をモチーフにした赤、黄色、青のバージョンが目を引き、人気の赤をお願いし、まずは聖天堂へ。
聖天堂といっても本堂内に設えた6畳ほどの畳敷きの場所で、敷居を跨いだら隣は本堂内陣となっている。聖天堂の祭壇は○○会(忘れた…)が今も催されているとのことで、拝むこと叶わず、鴨居に描かれている天女が「ごめんね…」という表情で佇んでいる。その代わりに、祭壇の写真、歓喜天の本地仏が十一面観音であることから、金ピカの十一面観音が安置され、秀吉、家康公の木像、「ひょうたん守り」が展示されている。
お隣の本堂内陣にはきらびやかな天蓋に、正面中央に厨子に納められた薬師如来像をはじめ、聖観音、金剛薩睡像を安置。薬師如来像は50年に一度の御開帳なので、次は2034年というからあと8年待たなければならない。私の歳でもまだチャンスはあるということか、しっかりと次に出会えることを願い、お参り。
ガイドさんの説明を聞き、最後に節分の日に頒布される「ひょうたん守り」を事前に予約できるとのことで、今年の節分は行けないので諦めるが、節分の日だけの特別御朱印を郵送してくれるとのことで、ありがたく申し込みをし、歓喜天さまやお薬師さまに感謝申し上げるのでありました~
華光寺 - モリゾーのひとり言
2026/03/21 (Sat) 10:27:29
福勝寺からお隣の華光寺へ。初訪のお寺であるが、山門付近には拝観客の姿が多く、“京の冬の旅”では初公開なので、人気なのだろう、山門前の赤い帽子を被ったお地蔵様が笑顔で迎えてくれる。
境内は大きな本堂、その前に小さな池泉式回遊庭園があり、特徴的なのが、石鳥居が建っていること。受付を済ませ、本堂に上がると内陣には大きな祭壇、右手には毘沙門天像が祀られていて、先ほどの石鳥居の導線上にあるので、「だからか…」と納得。
ある程度、人数が集まりだしてからのガイドさんの説明となり、案内開始。歴史としては日尭(にちぎょう)上人が秀吉の外護を受けて創建した日蓮宗のお寺。日蓮宗に見られる「一塔而尊四士」という(聞いたことない…)形式で、中央に日蓮上人、その背後に「十界曼荼羅」を控え、その周りには釈迦如来や四天王像などが安置されている。日蓮上人像の頭には白い“綿三角帽子”が乗っていて、一部赤く染まったところがある。日蓮さんが日蓮宗布教の際、世の中には他宗教を忌み嫌う人もいて、石を投げられたりすることもあり、それを救う人もいて、頭に怪我をしてはと、手ぬぐいを頂き、頭に被り、血が滲んだ姿を表しているとのこと。「なるほど~」と聞いていたが、それぐらい苦労しないと何事も成就できないんだよ…という戒めにも聞こえる。
そして毘沙門天。平安時代後期、鞍馬寺の毘沙門天像と同じ木で造られたと伝わり、秀吉が伏見城で信仰していたと。甲冑を纏い、檄(げき)を手にし、足がちょっと短いような印象を与える下半身から頭へと目を向けると、忿怒の形相で威嚇している。どこか秀吉にも似ているイメージが湧き、じ~っと凝らして見る。普段は厨子に納められ、縁日の日でも薄い膜越しでしか見れないようで、今回の“京の冬の旅”では、はっきり御開帳して下さったそうで、ありがたくお参り。ちなみに、ガイドさんの説明の中で、鬼平犯科帳で有名な、長谷川平蔵宣似の父、宣雄の葬儀をこの寺で執り行ったという資料が残されていると。
書院へ移動すると、京都ゆかりの絵師による掛け軸や、日蓮さんの「御真筆断簡」、鴨居には日蓮さんの人生を絵図で紹介されていて、拝観。中でも、千本出水界隈に伝わる「出水の七不思議」なる「時雨松」と「五色椿」の話があり、「時雨松」は秀吉公お手植えの松で、晴天でも枝から雫を落とし、その様子が“しぐれている”ように見えたことからその名称がきている。現在はその古株が宝物として展示されていて、境内には2代目の「時雨松」が茂っているんだとか。
「五色椿」は春と秋の開花時になると、1本の木に異なる五色の花をつけたと云われていて、こちらは枯死したそうな。七不思議ということはあと5つ…ここ出水界隈には伝説の話がまだあるようで、“寺町”まわりだと、とかくこういう話は“あるある”である。
書置きの毘沙門天の御朱印と御主題を拝受し、境内の2代目の松や花が咲く椿がある庭園を眺めては、落ち着いた雰囲気に、冬の彩りを感じるのでありました~
光清寺 - モリゾーのひとり言
2026/03/21 (Sat) 10:28:36
華光寺の道を挟んだ真向かいに光清寺はある。山門を潜り境内に失礼すると、竹垣の囲いの中に石庭が芸術作品のようにある。立て看板には、重森三玲作の「心月庭」とあり、晩年の作とのこと。元は、大きな黒松が植えられていたらしいが枯死し、その後に白砂を設け、石組を配したということで、ここで重森三玲に会えるとは「なるほど~」と唸る。
石畳の参道を進むと、立派な松、その隣に大きな鐘楼があり、その向かいの入口で受付を済ませる。御朱印は4種。御朱印の値段もこのご時世、高くなってきているが、旅の高揚感に乗ってすべて拝受し、本堂へ移動。
東面に広がる石庭が、これまた見事で、こちらも重森三玲作の「心和の庭」で、誰が見ても「心」を表しているのが分かる。「心」は、苔の生える築山の上に仏像を表す12組の石が配されていて、「神仙世界」を表す枯山水庭園となっている。
拝観客が集まるまでしばらく庭園を眺め、見飽きることなく違う角度からの撮影をしていると、南面の竹垣も「心」を表していて、さすが重森三玲と唸る。
ガイドさんの説明が始まり、話を聞くと、創建は伏見宮貞致親王の生母の供養のために宮家ご領地に生母の「慈眼院殿心和光清大信女」の法名から称するようになったと。かつて、岩倉具視を輩出した岩倉家の菩提寺でもあったという。本堂には慈覚大師(円仁)作の聖観音菩薩立像が安置されていて、お参り。
左手鴨居に掲げられている額縁には、猫の絵が描かれており、出水の七不思議の1つ「浮かれ猫」の絵馬を見る。三味線の音を聞くと「浮かれ猫」が飛び出してくるという(遊女が現れて人間の煩悩を犯す)云い伝えがあり、当時の住職が法力で絵馬に封じ込めたと。あまりの法力の強さに住職の夢枕に現れて、もうこの世に出ることはしないと嘆願したため、許して封を解いたと。その話を聞いた人々が、諸芸上達のご利益があると参詣したそうで、「へぇ~」と、その猫の目を見ていると、確かに引き込まれそうになるような。
「あぶない、あぶない…」あまりじっくり見ているとヤバいかも…と、ガイドさん曰く、境内の弁天堂に“レプリカ絵馬”があるので、そちらは撮影可能だということで、行ってみると人だかりが。「もう、みんな…猫に魅了されてるじゃんか!」
その光景を見、何だか滑稽な、「今夜、夢枕に現れるだろうな…」と、猫の絵馬を眺めるのでありました~
興聖寺(1) - モリゾーのひとり言
2026/03/21 (Sat) 10:29:34
千本出水バス停から市バスを乗り継いで、天神公園前バス停で下車、歩いてすぐの興聖寺山門にたどり着く。興聖寺は2回目の訪れ。
広大な敷地の中に大きな本堂、方丈を有し、紅葉の時期が有名だろうか、境内にはモミジの木々が配され、参道石畳を歩く。受付を済ませ、まずは本堂へと赴くと、その高さといい、声が響くほどの空間、祭壇前には大きな「達磨図」がで~んと掲げられている。そして、天井を見上げれば「雲龍図」もで~んと描かれていて、迫力満点。
ガイドさんによると、「達磨図」は、「達磨忌」の日のみ掛けられる日本最大級の巨大な掛軸。本堂の左手に豊臣秀長の家臣であった藤堂高虎寄進と伝わる達磨像も安置されていて、当寺の“達磨信仰”が崇敬されているのが分かる。
「雲龍図」も天井板の木目を利用しているのだろうか、雲の中でうねる龍の表現が素晴らしく、ずっと見上げていると首が痛くなる。
本堂の建物については、屋根を支える内側の格子状の、均等に並べられた木々が黄檗宗の様式で、当寺が臨済宗にもかかわらず、○○時代(忘れた…)に流行った黄檗宗の影響から造られたそうで、本堂でのこの様式はここだけでしか見られない、珍しいものだとか。
歴史としては、後陽成天皇や後水尾天皇の勅願所として、千利休に茶道を学んだ古田織部が開基、虚應円耳という方が開山、創建し「織部寺」とも呼ばれている。
古田織部といえば、徳川幕府への謀反の嫌疑を掛けられ、一家断絶となったことが有名だが…
大阪夏の陣で、徳川方の情報を豊臣方に漏らしたことで、家康の「茶頭」としての信頼は「裏切り」ともとれる疑念に、不信感が生じ、家康は切腹を命じ、織部は一切弁明せず、最後の茶会を開いた後、自決したと伝えられている。
真意のほどは分からないが、師である千利休が秀吉の切腹に、何も語らずに死を受け入れたことに倣い(ならい)、同じ行動を起こした?と、解釈されている(一部冤罪説という話も…)が…。
師の利休から、「人とは違うことをしろ」という教え、つまり、動的な歪んだ茶器や斬新な文様を採り入れた「織部焼」などは「へうげもの」と呼ばれる“奇抜な美意識”を生み、時代の潮流に乗った古田織部。そんな奇抜さがあったが故の自決ではなかったかとも想像する。
そんな織部の正室の「仙」は、興聖寺山内にお寺を建て、菩提を弔うために余生を送り、境内には織部公と5人の男児、仙の石塔が建てられている。
興聖寺(2) - モリゾーのひとり言
2026/03/21 (Sat) 10:30:33
本堂から方丈へと移動し、ガイドさんの案内によって説明を受ける。一際目を引く“青い襖”。写真家、杏橋幹彦氏による海の中から撮影された“うねる波間”の写真で、ちょうど真ん中で波が盛り上がる様相が、手を合わせている“合掌”を表していると。現代の技術で襖に写真を拡大させて表装したらしく、鮮やかな“青”が目に飛び込んでくる。
格天井を見上げれば、それぞれ違う作画の春夏秋冬の花が描かれていて、最近製作されたような佇まい。
それとは逆に、平安時代に書写された「一切経」(中国から渡ってきたあらゆるお経の総称)の一部が展示されていて、話によると、5294巻という巻数を誇り、これらの経典群の中では三蔵法師が記録した大唐西城記十二巻中、最初の一巻が1200年以上前に書写されたものまであると。その古すぎる書写された一部は、虫食いの症状が生じていて、それを修復するのに○○○万円掛かるという…とんでもない額を、寄附を集めながら今も費やしていると。係の方に「虫って、紙を喰うんですか?」と素朴な疑問を投げかけると、紙にはデンプンが塗られていて、それが虫食いの要因であるとのことで、「へぇ~なるほど…」と納得。
黄檗宗から「鉄眼版一切経」が贈られたこともあるとのことで、万福寺近くの宝蔵院で、手作業で刷っている職人の見学をしたこと、その時の、棚に積まれた膨大な一切経の数々を目の当たりにして驚いたことを思い出し、気が遠くなるほどの作業だと痛感する。
傍らには、“寄附のお願い”があり、手ぬぐいと特別御朱印を拝受して、志納しお礼申し上げる。
方丈から茶室へと向かう廊下の途中には、“降り蹲踞(つくばい)”(水で手を清める茶室前に設置された手水鉢のこと)があり、深さが2mあるのは珍しいと写真に収め、「雲了庵」の茶室を拝観。庭には北白川の白砂を用いて、富士山のように山を造り、苔で模した川、木々などを配し、風情を醸した、落ち着いた雰囲気。ここに、モミジの“赤”が加われば、さぞ、綺麗なことであろうと、秋の時期に再び訪れることを“織部さん”に願うのでありました~
つけもの - モリゾーのひとり言
2026/03/21 (Sat) 10:32:04
興聖寺を拝観後、今日はここまでと限を付け、気になっていた漬物屋へ行ってみようと、再び市バスを乗り継いで、建勲神社前バス停へ。通りに面した提灯が目印の「京漬物 大こう本店」さんに入店すると、石畳の床が漬物屋にバッチリ想起できる造りとなっていて、冷蔵ケースにいろんな漬物が販売されている。店員さんがまずはこちらのテーブルにと、用意されている方へ案内され、試食タイムが始まる。
言われるがままテーブルに着くと、赤いお盆に数種類の漬物が乗っていて、ほうじ茶まで付いてくる。どこぞの茶店のような…いやいや、ここは漬物屋だと、ポリポリとつけものを試食し、なるほど…いろんなしくみがあるもんだ…と、さすが京都の、これが“おもてなしシステム”か…と感心し、味の食べ比べをする。
ゆずの香り漂う大根、長芋わさび漬け、京しば漬け、ワインらっきょなどなど、中々におもしろい。お土産に、いざ選択するとなると、迷ってしまい、まずは千枚漬けを確保し、ワイン漬けのらっきょ、その他を購入。老舗?漬物屋本店に訪れることができて、満足×2。
つづく…
また2、山口の旅(4) - モリゾーのひとり言
2026/02/23 (Mon) 10:21:40
私の花粉症センサーはまだ反応してないが、周りはもう“キテいる”と話す。うわ~、この季節が来たか~と、マスク必須の生活がまた始まるのか~と戦々恐々だが、梅、桜の季節でもあるこの時期、どこか行こうか毎年迷う。家でじっとしているのが一番いいのだが…
てなわけで、山口の旅、最終日まで紹介~
山口県護国神社 - モリゾーのひとり言
2026/02/23 (Mon) 10:22:47
4日目。県庁前バス停から宮野駅行きのバスに乗り、雪舟庭入口バス停で下車。交通量の多い国道9号線から北へ目を向けると、大きな鳥居が建ち、バス停から近い。
早朝8:00時ごろだとまだ神職さんの姿はなく、清々しい境内は護国神社らしい、何もない颯爽とした敷地となっている。
山口護国神社は日清戦争以降、山口県出身の英霊が眠り、現社地の南、国道9号線を挟んだ南に桜畠練兵場(現在の陸上自衛隊訓練場)において、盛大な招魂祭を斎行したことに始まる。昭和16年(1941)に社殿を創建、5万柱におよぶ御霊を祀っている。なので、歴史に名を残した大村益次郎や久坂玄瑞、高杉晋作、吉田松陰なども祀られていて、鳥居右手には招魂碑や飛行機のプロペラ、兵士の銅像が安置され、モミジが真っ赤に“彼ら”を照らしている。
両翼回廊式の拝殿でお参りをし、社殿右手には普通の池なのか、防火水槽用のため池なのかわからないが、その周りを囲むようにモミジが朝陽を浴びて赤く輝いている。こんな美しい光景を見られるのも、日本のために散った英霊たちのおかげだと、やはり護国神社ではしんみりとしてしまう。
社務所はまだ開いていないので、次に向かう常栄寺の帰りに再び立ち寄ってみようと。
…で、その帰り、社務所で書置きの御朱印を拝受し、御朱印帳がないか聞いてみると、小さい御朱印帳しかなく、大きいサイズはないとのこと。山口市内で大きい神社、たとえば山口大神宮とかにないかなぁ~と、丁寧に相談してくれ感謝×2。さて、どうしたものかと、かんがえるのでありました~
常栄寺(1) - モリゾーのひとり言
2026/02/23 (Mon) 10:23:46
山口県護国神社から北へ10分ほど歩いて駐車場にたどり着くと、モミジや雪舟さんの銅像に迎えられ、まだ誰も拝観に訪れていない様子。常楽寺には雪舟ゆかりの庭を目当てに訪れた次第だが、拝観は朝8:30からスタートなので、この秋の時期は多いのだろうと思っていたが、ちょっと拍子抜けしてしまう。まぁ~、それはそれで人がいない方がいいのだが…
山門を潜り、広い境内には枯山水庭園、地蔵堂と石畳を仕切りに理路整然と配置され、清潔感漂う空気感が流れる。受付で拝観手続きをする時、案内の方が「今日は庭園の方で工事関係者が重機を使い、雑音がしますので…」と申し訳なさそうに説明され、ひょっとして…それで人が少ないのか…と、とりあえず本堂へと足を運び中へ。
本尊は千手観音菩薩。この仏様が何ともすばらしい。千の手で誰一人漏らすことなく人々を救うため、いろいろなアイテムを持ち、手が後光のように見える。すっくと立つお姿は、堂々とされていて、向かいの縁側にある枯山水庭園をいつも見ていて、いいなぁ~と独り言ち、お参り。枯山水庭園はあの重森三玲が造られ、「南溟庭(なんめいてい)」といわれ、雪舟庭よりも優れたものを造られては困るという注文で造られたんだとか。重森さんも、はて?匙加減に困ったことだろう、見る人によってはこっちの庭が…なんていう人もいるかもしれない。
白砂に配置された石組、塀からの背景は裾野が見渡せる景観となっていて、よ~く考えられているのが素人目にも分かる。「南溟庭」を観賞し、本堂をぐるりと北側へ行くと、お待ちかねの雪舟庭園が広がる
常栄寺(2) - モリゾーのひとり言
2026/02/23 (Mon) 10:24:37
まずは縁側に座って観賞。雪舟庭園は、池泉式回遊庭園となっていて、池の周りには草木が生い茂る中にモミジの木々が見頃を迎えていて、美しい。石組の配置や芝生、苔、緑色の低木が色を添え、庭園を盛り上げている。始めは静かな空間であったが、ガガガ…っと音が響き始め、東屋の方で重機が動きだし、落ち着ける時間はあっという間。仕方がないが、雑音に急かされるように本堂から書院へと移動し、臨済宗中興の祖である白隠禅師の書や「郡山城下図」などの展示を見る。「郡山城下図」は、洞春寺でも説明したが、毛利隆元の菩提寺がこの地に移ってきたので、広島の郡山城跡が描かれているが、この絵図の様子と発掘調査で判明した遺構が一致していることが確認され、絵図の正確性が証明されたと云われている貴重な史料。へぇ~と、じっくりとその絵図を眺めて、次は庭園へ移動。
常栄寺(3) - モリゾーのひとり言
2026/02/23 (Mon) 10:25:30
常栄寺は元々は、大内政弘が別邸として建てたもので、庭は雪舟に依頼して築庭させたものと云われている。後に、政弘公の母、妙喜殿を弔うためのお寺として妙喜寺を創建し、その後、先ほども述べた毛利隆元の菩提寺、常栄寺と合寺し、今に至っている。
本堂は大正時代に焼失し、昭和27年(1952)12月に建立されたもので、庭園から眺める本堂も改めて立派な佇まいを見せている。小路を上がり、モミジを愛でながら竹林とのコラボを撮影し、山林の中へ。木々生い茂る中に光が射す、妙喜殿の供養塔があり、お参り。
道なりに進むと、「毘沙門堂」への案内看板があり、ここまで来たら行くしかないでしょ!と決意し、坂道を上がる。軽めの散歩道かと思って上がっていくと、徐々に登山道のような様相となってきて、いつしか、戻るわけにもいかない距離になってしまったので先を進む。ようやくたどり着いた~と思ったら「弘法大師堂」、再び次はと歩き始めると「薬師堂」…。「毘沙門堂」はたどり着けるのか?と、朝から汗をかきかきハードな?運動となってしまい、やっとこさ到着~。たどり着いた場所からは、さぞや境内を見渡せる風景が広がるのだろうと思っていたら、木々に囲われよく見えない…。
「毘沙門天さん…」
期待した私の早とちりと嘆きを入れつつ、お参り。ここまで登ったんだから御利益はあるだろうと勝手に解釈し、再び元来た道を戻る。
東屋の周辺には重機を動かしている作業員の方々が忙しく、これもやむを得ないのを受け入れ、本堂に戻ってきてそれなりの散策を堪能~。
1時間ぐらい経つが、誰も拝観に訪れている人はおらず、まぁ~、庭園を独り占めできた?だけでもラッキーなことだと、御朱印も授かり、山口県護国神社に立ち寄り次へ。
仁壁神社 - モリゾーのひとり言
2026/02/23 (Mon) 10:26:26
御朱印帳をどうしたものか…考えながら国道9号線を越えて、自衛隊訓練場の横の道を南へ行く。バスで行く予定であったが、遠回りとなるため、一度、グーグル地図で検索を掛けてみると、次に向かう仁壁神社には20分で歩いて行ける距離と判明したので、慣れない道を進み、住宅街に入る。
地元の神社~といった感じの鳥居が建ち、さっそく境内へ失礼すると、参道から徐々に木々生い茂る景色へと変わり、色とりどりの秋らしい装いとなっていて、社地はかなり広く、イチョウの木が黄色く色を染め、すっくと生えている。
仁壁神社は宮野地区(現在地より東北)の氏神として祀られていた、およそ1100年は経過、それ以前かもしれないほどに創建年代がわかっていない。御祭神は住吉三神が祀られていて、他に下照姫命や畔鉏高彦根命など、海上交通、交通安全、五穀豊穣、織物…つまり、衣食住に関係する神さまがこの地域の人々を見守っている。当神社は三ノ宮とも呼ばれ、赤田神社でも説明したが、大内義興公が崇拝していた五社のうちの1つ。なので、境内の雰囲気も赤田神社同様、格が違う…というか、何となく品があるというか、そんな感じがする。
とにもかくにも、杉の木や樫の木などの大木が並んでいて、空気感が違うのは間違いない。
拝殿でお参り。境内を散策すると、摂社・末社が多く祀られていて、それぞれに“○○の神さま”と説明書きがあるので、わかりやすい。
境内西側のイチョウの木が黄色く見頃を迎えていて、しばらく撮影タイム。確か…イチョウの木ってオスメスがあるって聞いたけど、どっちだろうか…と見上げながら、社務所へ。
前日に訪れることを宮司さんに約束していたが、境内で偶然お会いし、書置き御朱印を拝受。名古屋からの訪れに労って下さり、境内にある梅の木から採った梅干しと、イチョウの銀杏をいただき、感謝×2。梅干しと銀杏は、毎年のお正月に、参拝客に配られる品だったようで、特別のめでたい品を受け、この場を借りて、本当にありがとうございました~
御朱印帳を求め… - モリゾーのひとり言
2026/02/23 (Mon) 10:27:24
三ノ宮バス停でバスの時間までネット検索。実は、これまでの3日間の内、いろいろと御朱印帳を販売している所を訪ねている。たとえば、山口観光協会さんが販売している御朱印帳は、松田屋ホテルにあるとの情報で訪れたが、小さいものばかり。各寺社はもちろん、お土産売店にも聞いたが、小さいものばかり。目当ての縦18cm×横12cmぐらいの大きさの御朱印帳がなく、同じ大きさのを揃えたいというのもあって、まぁ~、こだわりっちゃ~、こだわりですが…。ちなみに、松田屋ホテルは、西郷隆盛や坂本龍馬らの勤皇志士たちが会合した場所で、エントランスから石畳の、暖簾をくぐったフロアは高級ホテルって感じで、私には敷居が高く畏れ多い。
…で、そんなこんなで、とある仏壇店に御朱印帳の情報を得、御朱印めぐりのセミナーを開催しているほどの、今どきめずらしい?仏壇店であると知り、数多の御朱印帳を販売していると。場所はJR仁保津駅から近く、確認のため電話をしてみると、目当ての御朱印帳を販売していているとのことで、急遽予定変更、バスもちょうど、JR山口駅行きが来て乗車、JR山口線を西へ向かう。
JR仁保津駅から国道9号線の通り沿いを西へすぐ、ふみおか仏壇店があり、意外と大きな佇まいを誇っている。
さっそく入店し、店員さんに案内してもらうと、デザイン性の良いものばかり、目当ての御朱印帳がずらりと並んでいる。迷ったあげく2冊購入し、御朱印帳を広げて飾るスタンドも販売されていて、「これイイじゃん」と店員さんに聞いてみるも、人気商品のため売り切れとのこと。まぁ~、御朱印帳を手に入れたことだけでも感謝で、山口の旅で仏壇店に立ち寄ることになるとは、とりあえず一安心で、お礼を述べ、後にする。
再びJR山口線を東へ、初日に降り立ったJR湯田温泉駅で下車すると、大きな“白キツネ”が私を見降ろし、「良かったねぇ~」と言われているようで、これも“白キツネ”のご利益なのか…と、感謝を込めて、見上げるのでありました~
井上公園 - モリゾーのひとり言
2026/02/23 (Mon) 10:28:16
JR湯田温泉駅から北へ。初日のホテルへ向かう途中の、気になっていた公園に立ち寄る。公園は公園だが、“史跡”といった感じの第一印象で、山口に来るまで知らなかったが、「井上」という名称が付くので、ひょっとして…と思っていたら、「井上馨」だと、旅を通じて知ることになる。
井上馨は天保6年(1833)、萩藩士、井上光享の次男として生まれ、(省略)明治新政府では外務大臣や農商務内務、大蔵大臣を務め、実業界でも成功を収め、政財界の元老として重要な地位を占める、明治維新の実現に貢献した人物。
そんな彼の生誕地ということで、生家は敷地面積がこれぐらいの広さだったのだろうかと、公園を眺める。
公園には銅像をはじめ「何遠亭」と呼ばれる建屋、八月十八日の政変で京から都落ちした三条実美らの七卿遺蹟之碑、中原中也の詩碑、種田山頭火の句碑などの史蹟のほかに、遊具や源泉かけ流しの足湯まである。「何遠亭」は、三条実美ら七卿を滞在させるために、井上馨の兄、光遠の邸宅から借り上げ、増築された建物で、今ある建屋は新しく再建されたものだが、当時は志士たちで国事を論じあったにちがいない。
室内に入れるので靴を脱いで中に失礼すると、畳敷きの落ち着いた空間で、茶室にもぴったりの雰囲気。見頃のモミジが彩り、公園の景観を眺めながら、論じ合っていた光景を想像する。
「何遠亭」の隣には、瓢箪池を中心とした小さな庭園があり、大内氏の別邸「築山館」造営時に豊後の大友氏から贈られたと伝わる“石”がある。大正時代に築庭した時、この“石”がこの地に移され、遠く豊後をさみしがり、雨の日には泣く音が聞こえると。
そんな“生きた石”に触れ、種田山頭火の句碑を読む。前回の山口の旅で、山頭火について述べたが、彼は酒と旅と温泉を愛し、ここ湯田温泉にしばらく滞在、もしくは防府からここまで約20kmの道のりを通っていたという話もあるほど、この地がお気に入りであったことを思い出し、散策しながら少し旅愁に浸る。
三条実美が植えたと伝わる松や碑文の説明案内を見、足湯には湯気が常に上がっていて、井上氏の史蹟に触れるのでありました~
温泉舎 - モリゾーのひとり言
2026/02/23 (Mon) 10:29:10
井上公園から北へ県道204号線を越えてホテルなどが立ち並ぶ中に、「温泉舎(ゆのや)」がある。白狐の石像が出迎え、奥へ行くと足湯(?)、その先に鉄塔が建ち、鉄塔の下には透明なパイプで源泉を汲み上げている機械(ポンプや受水槽)が見える。
湯田温泉の6つの源泉のうちの1つで、地下500mから汲み上げられている所で、源泉温度は62℃と高温。受水槽の隣には飲泉できるところがあり、自然石で造られた湯口からは温泉が滴り落ち、とても熱いのが見た目でも分かる。地元の方が水筒にお湯を入れている姿を見、飲んでも身体に良いのだろうかと…今回の旅で泊っているホテルで、毎回、温泉に浸かり、元気に動き回れるのは、この温泉のおかげだと思うと、飲んでも良い効果が得られるのだろうと、石像の白狐に感謝するのでした~
ふぐの唐揚げ定食 - モリゾーのひとり言
2026/02/23 (Mon) 10:30:07
ちょっと遅めの昼食は、ホテル近くの居酒屋で。お昼もランチとして営業していて、山口のお土産も置いてあり、観光客向けの店にちがいない。
メニューを見ると、定番の瓦そば、地内鶏などページをめくると居酒屋メニューが多種ある。フグの刺身もあったが、フグの唐揚げ定食を注文。誰かに聞いたのだが、フグは刺身よりも唐揚げにした方が、旨味が感じられるという話を、頭の隅っこに憶えていて、どんな味なのか…刺身は食べたことがあるが、唐揚げは初なのでオーダーし、実食!
ふっくらとした食感、クセがなく旨味がぎゅっと凝縮されたような(表現がオーバーです…)、「うまい!」の一言。ネット界隈では、フグ初心者はまず、唐揚げを食べてほしいというおススメがあり、その理由も、フグの持つ“身質”に関係しているとのこと。フグの身は繊維が細く、水分を多く含む構造をしていて、油で揚げると表面がすばやく固まり、中の水分と旨味が逃げにくくなると。さらに、骨付きのままだと、骨から旨味が染みだし、味に深みが加わることで、淡白から旨味の塊へと変化するようで…。
細かい骨が難儀だが、手に取ってむしゃぶりつき、レモンで味変し、時間をかけていただく…
いや~、満足×2の昼食で、ご当地グルメにありつくのでありました~
中原中也記念館 - モリゾーのひとり言
2026/02/23 (Mon) 10:31:11
一旦、ホテルに戻り、再び5分もかからない中原中也記念館へ。2日目の、お墓を先にお参りした以上、立ち寄らなければいけないと、街中の道を歩き、いきなりの背の高い大木の松、美術館ばりの、デザイン性の高いエントランス、コンクリート製の建物はどこか、冷ややかでありながら、館内への導線の草木が設えており、設計は、全国で公開競技が行われ、最優秀に選ばれた宮澤浩氏の作品平成6年(1994)に中原中也の生誕地に開館というから、まだ新しい施設である。
そんな施設を眺めながら入館し、受付を済ませ、さっそく展示物を観賞していく。
中原中也は山口県湯田温泉生まれ。開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして期待されて育った。学業成績も良く、神童と呼ばれていて、小学校高学年ころから短歌を始め、雑誌や新聞などに投稿し、文学に熱中しすぎる傍ら、不良少年ともとれる飲酒や喫煙を覚え、いつしか成績はガタ落ち。中学3年で落第。地元中学にいたくない訴えに、転校のため京都の立命館中学に移り…(省略)後は、女優と同棲とか、上京してフランス語を学んでフランスの詩人ランボーに傾倒するとか、同人雑誌を創刊、詩集を出版とか…とにかく、頭が良かったことは確かで、その素行が中学時代から親のプレッシャーが嫌だったのかなぁ~、グレちゃったな~と、人生の系譜を知る。
彼の弟の呉郎によると、中也の性格は父の“荒い血”と母の“静かなる血”を受け継ぎ、繊細で感情豊かでありながら、激しい気質の持ち主であったと。酒に溺れた際には、乱暴な行動が目立ち、太宰治との親交もあったが、大乱闘を起こすなどの逸話も残されており、詩集の作品には、孤独や苦悩が深く反映されていると。
展示には実際にやり取りした手紙や遺品、詩集の紹介をしていて、詩集の説明もわかりやすく解説。2階に行くと映像が流れ、より分かりやすく中也の人生を視聴。
30年という短い人生において、情熱的に生き、燃え尽きるように生涯を突っ走った…生き急ぎすぎたと思わざるを得ない中也は、それ故に、死してさらに評価を得たと、2時間以上経ってしまっただろうか、中原中也に対し、想いを馳せるのでありました~
朝田神社 - モリゾーのひとり言
2026/02/23 (Mon) 10:32:10
最終日は午前中のみを予定に、JR湯田温泉駅からJR矢原駅へ移動。駅から西へ数分の朝田神社に向かう。
朝8:30ごろだと息が白い分、境内の清々しさは身が引き締まるほどに、それを朝陽が和らいでくれているよう。
朝田神社は周防五の宮。今回の旅で三、四の宮と訪れ、あと二の宮の出雲神社以外、訪れたことになる。ちなみに、一の宮は防府市の玉祖神社。
鳥居右手には田畑が広がる平地で、境内側面のモミジが光を浴びて美しい。神門そして拝殿、本殿と、一直線に並ぶ本殿の屋根から太陽が射し、境内を段々と照らす雰囲気の中、お参り。
当神社は6つの村社を合祀して現在地に遷された神社。その6つの神社の内の1つ、住吉神社があった場所で、全ての社殿を移転、整備するのに7年かかったとされている。
境内には鐘楼堂、佐用姫を祀る社、忠魂碑、かつて灯籠として使用していた石などを配し、社地はそこそこに広い。散策していると、駐車場に続々と集まる車、人を目にし、今日は何かあるのだろうか…と、社務所に伺うと、宮司さんにお会いし、事前連絡で留守録にお願いしていたのだが、御朱印を拝受でき、どうやら例祭があるとのことで、名古屋からの訪れに「それはそれは…」と労って下さる。
最後はこの朝田神社で山口の旅の締めくくりとなり、今回も充実した旅となりました~