寺社仏閣 ご朱印の旅

122781
ブログが面倒くさいので、掲示板で紹介していま~す。よろしくお願いいたします。
(広告、宣伝などの書き込みはご遠慮願います。)
名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
文字色
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

福井の旅 - モリゾーのひとり言

2026/04/24 (Fri) 10:20:45

桜の季節は終わり、もう夏じゃん…と、春はどこへ行ったのやら…
そんでもって、今年の春は福井県に行ってきましたが、今回は、去年の初夏に行った福井の旅から。去年、万博で通い詰めの大阪であったが、実は、それ以外にも愛媛や島根、奈良、三重、兵庫に行っていて、それも、万博の関西パビリオンのスタンプラリーつながりで訪れていた次第。その中に福井県も含まれていて、福井県の神社では「御竜印」なるイベント?を開催。山口県に並び、福井県にもこれからちょくちょく足を延ばす形となったわけでして…
ということで、“恐竜王国”に行ってきましたよ~

柴田神社 - モリゾーのひとり言

2026/04/24 (Fri) 10:22:31

福井駅へは名古屋からだと、高速バスが手っ取り早い。所要3時間ほどで到着した福井駅は、恐竜のオブジェで賑わいを見せていて、北陸新幹線が開通したこともあり、駅前は綺麗に整備されている。
福井県は子供の頃に家族旅行で東尋坊や小浜の海岸へ行った記憶があるが、それ以来の訪れで、初めてと言っていいほどの北陸地方である。
まずは、駅から南西に位置する柴田神社を目指す。商店街を歩き、平日ということもあってアーケード街は人が少なく、駅から少し離れた街の雰囲気はちょっともの寂しい感じ。そんな街の中に立派な鳥居が建ち、さっそく境内へ失礼する。
柴田神社は名称のとおり、柴田勝家公とお市の方を主祭神として祀る神社。地元では、以前から柴田勝家公を崇拝する人たちがいて、明治23年(1890)に遺徳を偲び、旧福井藩主や住民によって創建される。ここは元々、北之庄城があった場所で、天正3年(1575)に築城が始まり、9層なる天守閣があった平城として、当時としては安土城をしのぐほどの日本最大級であったと記録が残っている。境内には城の堀跡や一部の遺構がそのまま残されていて、勝家公の銅像が勇壮な姿で今も見守っている。
勝家公の妻お市の方の娘、茶々、お江、お初の三姉妹を祀る神社もあり、幸福や美容に御利益といった女性に人気の社もある。
拝殿は現代的な造りの拝所で、お参り。境内には他にも稲荷社や、かつて北陸道と南に位置する足羽川が交わる地に架けられたミニチュア版九十九橋もあり、半石半木で造られた、当時の写真付きで説明看板がある。
整備された境内を散策し、社務所で御朱印を拝受。三姉妹神社の御朱印も拝受し、次は、永平寺に向かうバスの時間が迫っているので、お礼を述べ、早々に駅へ向かう。

永平寺(1) - モリゾーのひとり言

2026/04/24 (Fri) 10:23:29

駅東口から永平寺行きの直通バスがあるので、それを利用し、30分ほどで到着。観光地化した門前界隈は、お土産屋が並ぶ通りとなっていて、それでいて、平日ということもあるのだろうか、静かな佇まいを見せている。
緩やかな裾野の道を上がると、新緑が眩しいほどの背の高い木々が現れ、曹洞宗の大本山といわれるだけあって、威厳というか、悠久の歴史がひしひしと伝わってくる。
通用門前にはつぼみのままの蓮の花が出迎え、ちょっとした池には蓮の葉に乗った観音さまの銅像が片膝に片肘を置いて寛いでいる。石段を上がり通用門を潜った正面の吉祥閣で受付を済ませ、ついでに御朱印と御朱印帳をお願いして、お隣の傘松閣でビデオを見る。季節の移ろい風景や修行僧の日常、当寺の歴史を学び、順路通り2階へ上がり、140名ほどの画家による絵屏風や鴨居の透かし彫り彫刻を見ては、伽藍を拝観する。
回廊内の階段を上がると、右手側に中雀門へと繋がる廊下があり、まずは伽藍中央に立ち、建物の全体を把握する。さしずめ、漢字の「日」の形のように回廊が繋がっていて、「日」の4画目に立派な山門、その3画目の中央に中雀門、2画目の上に仏殿・法堂の順で縦に並び、左に座禅をする僧堂、右に大庫院の建物が建ち、分かりやすい。
山門は裏側から見る形で、伽藍の中で最も古い建造物。寛延2年(1749)に造立、中国唐時代の様式の楼閣門で、両側に色彩の濃い四天王像が祀られているのが見える。山門の2回の楼上には五百羅漢が祀られているそうで、毎日、修行僧がここでお経を唱えていると。静寂の中に響く読経が凛と引き締まる空気感を想像し次へ。

永平寺(2) - モリゾーのひとり言

2026/04/24 (Fri) 10:24:22

中雀門から上の方へ目を向けると仏殿が見え、山の裾野に建てられているだけあって、石垣で固められた段差が何となく城郭をイメージしてしまうほどに、高い位置にある。回廊を回り込むように、傾斜のある板間の階段を上がると、ギシギシと音が鳴り、より歴史の重みを踏みしめているのだと感じながら仏殿に到着。
仏殿の内陣には入れず、外から遠目で祭壇の本尊、釈迦如来像を見、右側から過去・現在・未来を表す三尊が安置され、“過去・未来”は上からの直垂によって遮られてよく見えない。背の高い蓮の葉や雪洞(ぼんぼり)、上部の壁には遠目からなのでよく分からないが、精巧な彫刻が施されていて、華やかな祭壇に向かってお参り。
仏殿から朝課などの法要儀式が行われる法堂、法堂から回廊を伝い左手の承陽殿へ向かうと、僧侶は本来、ここから入るであろう承陽門が見え、門の唐破風下の彫刻が立派で、立ち止まって凝視するほどに素晴らしい。承陽殿は、曹洞宗発祥の道元禅師の御真廟で、「承陽」という言葉は仏法を承け伝えるという意味があり、“聖地”ともいわれる場所。なので、門の彫刻といい、ここの、他とは違う雰囲気といい、神聖な?面持ちでお参り。
後になって思い返せば、記憶が消されたかのように、中の様子を憶えておらず…唯一、あの彫刻だけがインパクト大で、ひょっとして、御真廟は実体があるようでないものなのか…現実はとかく幻でもある…と、「色即是空、空即是色」のフレーズを思い起こす。

永平寺(3) - モリゾーのひとり言

2026/04/24 (Fri) 10:25:15

永平寺は一度来ているのだが、子供の頃のことなのであまり覚えていない。“座禅道場”として有名な永平寺であるが、座禅はしたことがない。まぁ~、“黙想”という形で剣道練習後に決まってすることはあるのだが、座禅のあの、警策で肩を叩かれるお馴染みのシーンや足がしびれるシーンは、お笑いコントのイメージがこびりついて、何だか笑えてしまうのは私だけだろうか。
実際に修行されている僧侶さんたちは壁に向かってひたすら座禅を組む…私ら凡人にはとうてい及ばない集中力で励んでいるのを、Eテレとかで見て知っている。朝のお勤めでの一糸乱れぬ読経、なるべく音を立てずに食事をする行鉢、クラウティングスタートの体勢のまま床を雑巾で掛け走る作務…と、中々にハードな修行である。
その食事をする大庫院まで来ると、読んで字のごとく「大すりこぎ棒」が天井からぶら下がっていて、韋駄天が祀られている。浴室、山門、傘松閣と戻ってくると、団体客が屯していて、一般の観光客向けに座禅体験ができる“お勤め”なのだろう、私は時間の都合を理由にパスし、売店で線香を購入し、今いる吉祥閣から聖宝閣の宝物館へ移動。
国宝の「普勧坐禅儀(あまねく座禅を勧める教え)」を始め、書や絵画、器物、故事、古地図など当寺に伝わる宝物を観賞し、曹洞宗の教えや歴史を学ぶ。
帰り。参道を歩いていると、種田山頭火の詩碑を見つけ、石碑に書かれた文字を読む。
「生死の中の雪 ふりしきる」
「てふてふ ひらひら いらかをこえた」
「水音のたえずして御仏とあり」
山頭火は芭蕉の足跡を訪ねて東北を旅し、その帰りに永平寺に立ち寄り、この句を詠んでいる。熊本県の曹洞宗報恩寺での出家得度から禅宗となった山頭火は、総本山である永平寺を訪ねるのが念願だったのだろう、昭和10年ごろから“死に場所を求めて”いた旅と比べ、精神的に落ち着いた時期であったと、3句から推察する。
自然との一体感によって生じる心の中の仏…この世の真理を感じ、自分の内面と対話する中で、生まれた句であると…編み笠を被った山頭火の面影が見えるようで、私も、自然の息吹を感じながら後にするのでした~

福井県立恐竜博物館(1) - モリゾーのひとり言

2026/04/24 (Fri) 10:26:09

翌朝、福井駅東口発の「新感覚XRバス WOWRIDEいこっさ福井号」に乗る。恐竜博物館への入場券付き直行バスなのだが、事前にネット予約をしなければならない。“XRバス”は内窓をすべてモニター画面に改造し、天井にも大きな画面が埋め込まれ、移動中、映画館のように楽しみながら体験できる仕様となっている。
なので、バスの外観は窓がないラッピングされた形となっていて、子供向けの恐竜の絵が描かれ、バス乗車からすでに博物館は始まっている。
この日、予約された方は大人10名ほど。意外と平日にしては多いと思いながら、さっそくバスに乗り込むと、息苦しさを感じるほどでもないが、外観の自然光が入ることなくモニターの映像の光だけなので、密閉された空間が苦手な人はどうなのだろうという印象を受ける。
いよいよ出発となり、映像は物語形式で、タイムスリップやらニュース速報が流れたりと、有名俳優陣が説明したり、博物館に入る前に恐竜に関することを予習するかのように、よくできたコンセプトで仕上がっている。
映像の途中途中で、バスの車窓景色がモニターに映し出され、ある程度、バス酔いしにくい工夫がしてあり、いまどこを走っているのかも分かるが、その車窓モニターすら、すでに撮ったVTRなのではないか…(まぁ~、そんなことはないと思うが…)という考えも浮かんでしまう。何にせよ、60分ほどの移動はあっという間で、博物館に到着し、広い土地に広い駐車場、島根県安来市の足立美術館のような広さを想起し、恐竜のオブジェに見守られながら施設へと入館。

福井県立恐竜博物館(2) - モリゾーのひとり言

2026/04/24 (Fri) 10:27:00

エントランスで受付手続きを済ませ、順路通り、まずはエスカレーターで下る。建物は3階建て地下1階までの造りで、楕円の形をした構造の中へ長い長いエスカレーターが地下へと下っていく…まさに過去へ遡るイメージで建築されたのだろう。ちなみに、設計はあの黒川紀章で、さすが、古代のテーマに即したものだと考えられている。
地下1階に到着すると、“ダイナストリート”と呼ばれる洞窟を想定したトンネルには、いくつかの化石などのガラス展示があり、それを抜けると“動くティラノサウルス”がお出迎え。その先の空間は恐竜だらけの展示となっていて、規模が大きすぎる。
施設は3つのゾーンに分かれていて、まずは「恐竜の世界ゾーン」。全身骨格が50体以上展示されていて、“なんとかサウルス”とか“なんとかトプス”など詳しい名称は分からないが、映画「ジュラシックパーク」で見たようなスケールの大きい恐竜たちが紹介されている。
トカゲ系、猛獣系、鳥類系など、いわゆる、今いる動物系の祖先はこんな感じだったのではないかと考えられている説明で、その中で本物の化石が10体展示。海外から取り寄せたのだろう、どれくらいの値段で交渉したのだろうと、卑しく考えてしまう。
機械仕掛けで首や顎が動いたりする子供向けな恐竜に、“想像鳴き声”など大人でも楽しめるように初心者でも分かりやすく映像などで紹介し、次は「地球の科学ゾーン」へ。
こちらでは陸と海の堆積物、岩石、鉱物など地球上にある“地質学”を展示。やはり惹きつけるものはダイヤモンドやサファイアなどの鉱物で、アメジストを見ていると、島根県奥出雲の宿泊できる博物館、兵庫県のコウノトリ施設の近くにある玄武岩を訪れた時のことを思い出し、「そうそう」とある程度の学んだ知識を再確認しながら巡る。
一部には、福井県が”恐竜国“と銘打ったほどに、福井県で発見された化石「フクイラプトル」や「フクイサウルス」などを展示。発端は昭和57年(1982)、ここ福井県勝山市の杉山川左岸の崖で白亜紀のワニ類化石が発見されたこと。1988年から1999年にかけて調査発掘し、肉食恐竜の歯、骨、足跡、さらには「かぎづめ」が国内で初めて完全な形で発見されるなど、日本で見つかった恐竜化石のうち、約8割が福井で見つかっている。なので、大学に恐竜学部を創設するほど、福井県が”恐竜推し“しているのも頷け、発掘現場の再現や経過など、ここのブースが特に人気で、私も熱心に説明案内を見ながら学ぶ。

福井県立恐竜博物館(3) - モリゾーのひとり言

2026/04/24 (Fri) 10:28:03

ぐるりとバリアフリーの緩やかな通路を上がり2階へ。こちらでは「生命と歴史ゾーン」と題し、生命の誕生から人類への進化をテーマに、地球の環境の変化によって植物や脊椎動物の誕生、絶滅の歴史などを展示。
いろんな恐竜はたまた動物から進化を遂げてきたホモサピエンスは、これ以上、進化し続けていくのだろうか。環境が変わればそれに対応した、いわゆる宇宙人のようなハイブリッドの姿となって生き続けるのか、絶滅するのか…な~んて、考えながら見学は終了~。
いつの間にか上がってきた3階にはおみやげショップやレストランがあり、バスの時間まで昼食タイム。室内は何だか、ラボというか研究室を匂わせるカウンターとなっていて、食券で“スピノザウルスカレー”を購入し、フードコート形式で“ポケベル”のキカイを受け取り、待つこと数分、“ポケベル”が鳴ってセルフでカウンターへ。トレーに乗った“スピノザウルスカレー”は、他のお客さんたちの目を引くほどの、インパクト大のカレーで、相乗効果なのか「あれにしようよ」と言う声が聞こえてくる。
席につき、さっそく実食。恐竜のイメージ?そのままに、原始人のように骨付きチキンを貪り、スピノザウルスの形をした五穀米を崩してカレーと一緒に頬張る。博物館で食べる食事は何だか、実験的な感じがして、それがまたオモロイと、お腹を満たし、おみやげコーナーではお菓子やぬいぐるみなど多数販売。私は紙で3Dに組み立てられるティラノサウルスなどを購入し、博物館を堪能するのでありました~

福井城跡 - モリゾーのひとり言

2026/04/24 (Fri) 10:29:03

恐竜博物館から福井駅への移動も“XRバス”を利用し、内容は福井県の特産品や観光名所の紹介アピールの映像で楽しませてくれ、あっという間に到着。
駅西口から北へ600mほど歩き、城跡特有の、堀によって直線の道が斜めに曲がったりする名残りある交差点に差し掛かると、石垣や堀が見えてきて、石垣の上には城郭でなくビルが建っている。今は県庁となっている県の中心はとかく、城跡に置かれるのだろうかと、駿府城跡の静岡県庁を思い浮かべる。
さっそく“城攻め”ということで、御本城橋から失礼すると、場違いなほどに公官庁具合が強めで、城跡という雰囲気が台無しというか、旅行者にとってビルのアスファルト道路を歩くのは“迷い犬”のような、そんな気持ちで城跡の名残を探す。
福井城の歴史は、天正4年(1575)に柴田勝家が築いた北之庄城が前身。天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いで勝家公が敗北すると、北之庄城も焼失。その後の慶長5年(1600)に徳川家康の次男、結城秀康により、北之庄城の跡地に築城し、「北之庄」の「北」が「敗北」に通ずることから改めて、この地を「福居」とし、「福井城」と改名される。
以来、約270年にわたり、寛文10年(1669)の大火で焼失するまで天守は存在していたわけで、本丸は御殿跡を中心に現在では県庁、警察本部、県会議事堂が建っている。
で、その最初の普請者、結城秀康の石像を見つけ、天守台は北西角にあるようなので行ってみることに。石垣や「福の井」と呼ばれる井戸の遺構があり、昭和23年(1948)に起きた福井地震で崩落した痕跡や天守台が傾いてしまっている跡も見られ、やはり大きい災害に敵うものはないし、自然の摂理には逆らえないと、何とはなしに立ち尽くす。
天守台から西の山里口御門へ抜ける方へ行くと、枡形虎口となっていて、山里口御門から続く御廊下橋は屋根付き回廊と、ちょっと珍しい。堀を覗くと、水が御廊下橋を挟んで北側は溜まり、南側には枯れた状態。テレ東の「池の水ぜんぶ抜いてみた」の番組か!とツッコミを入れながら城跡を後にする。
(ちなみに、この旅を終えた一週間後に、本当に放送していたので、「本当かよ!」と自分でツッコミを入れてしまいました~)

福井神社 - モリゾーのひとり言

2026/04/24 (Fri) 10:30:03

お堀沿いを北へ移動すると、大きな鳥居、大きな社号の入った石碑が建つ福井神社に到着。境内の参道から先、途中で左に折れ、護国神社かと思わせる横に長い敷地となっていて、第3の鳥居が芸術的な様相で建っている。直線的でシンプルでありながら、現代建築を採り入れた、視覚的に目を惹く造りとなっていて美しい。
鳥居を潜ると社殿が、これまたコンクリートで造られた形をしていて、まずはお参り。
当社の御祭神は、越前福井16代藩主の松平慶永(春嶽)。藩政改革や日本の近代化に大きく貢献した人物。昭和18年(1943)に県民の熱意により創建し、日本で最後の「別格官弊社」(国家に功績のあった臣下を祀る社)に列せられた神社であるとされている。
境内には摂社の恒道神社もあり、こちらは春嶽を支えた橋本佐内らを祀る神社として、幕末期に活躍した大物たちが“眠って”いらっしゃる。
絵馬殿?には春嶽が創設した藩校「明道館」で教えている橋本佐内が描かれた絵馬があり、安政の大獄で25歳の若さで処刑された橋本佐内は福井県民にとって、崇敬される存在であったのだと改めて知る。
社務所で御朱印を拝受。少し談笑していると、第1鳥居付近に大きな石標があり、それが福井地震で失ったものであるという。どうやらその石標が地震の時に、堀へ落ちてしまい、約10年後に堀の水を抜いた時に発見されたそうで、神社にとっては御利益となる特別な石標なんだとか。当神社の創建が昭和18年(1943)、福井地震が昭和23年(1948)だから、神社ができて5年後に被害に遭われた…早々にして苦労し難儀されたのだろう…と。禰宜?さんに感謝申し上げ、その復活を遂げた石標を見るべく元来た道を戻り、今は何もなかったかのように佇む石標を拝み、あやすようにポンポンと撫でるのでありました~

神明神社 - モリゾーのひとり言

2026/04/24 (Fri) 10:31:03

福井神社から北へ。城跡北側の東西を走るさくら通りを越え、敷地の広い境内だと分かるほどの公園も備えている神明神社へ。
鳥居を潜る時、ちょうど小雨が降り始め、公園内には誰もいない、遊具だけが佇んでいる風景は、どんよりとした天候も相まって、もの寂しい印象を与えている。境内にも人っ子一人いない情景の中、目の前に見える社殿の見事さに、手前に鎮座している狛犬も「どうだ!」と言わんばかりに威厳を放ち、逆に、先ほどの公園の雰囲気を忘れさせるかのように、寂寥感のような雰囲気を打ち消している。
神明神社の御祭神は天照大神。つまり、皇大神宮を元としている。伊勢に神宮ができて以来、この地の越前国足羽郡足羽郷北の庄三郷は、御戸帳(みとばり)を奉る御領地として崇敬されてきた土地柄。醍醐天皇の御代に、北之庄に明光長者という人がいて、日頃より神宮を深く崇敬していて、朝廷の許しを得て、当地に社殿を造営し、神宮より勧請したのが始まり。
御戸帳とは「幌」のことで、越前産の絹が使われ、伊勢神宮に奉納していたとはつゆ知らず、福井が絹織物を中心とする繊維関係の生産地であったことを知り、岐阜県の飛騨地方から嶺北にかけて蚕の飼育が盛んであったと、白川郷の合掌造りの資料館を訪れた時のことを思い出し、はたまた、街中を歩いていて、結婚式場やレンタル振袖の店がやけに多いなぁ~と感じ、「確かに!」とイメージが膨らむ。
それから、当神社の由緒には、歴代の国主の崇敬があり、北之庄には鎌倉時代に越前守護所が置かれていたとも云われ、越前における政治上の重要地点であり、平重盛をはじめ、源頼朝、北条氏、新田氏、斯波氏、朝倉氏、柴田勝家、丹波長秀、(…省略)松平氏と、それぞれの時代に国の安泰を祈願したほどの崇敬があったとのこと。松平秀康が福井藩に入封した時は、神領二十石寄進、重臣の本多富正は二の鳥居、秀康公の母である長松院は植木200本と、その他の歴代藩主も神社に“施し”を与えている。
社殿はコンクリート製っぽい造りとなっているが、前面の唐破風屋根の神明造りが立派で、威厳を保ち、そんな中でお参り。
右手には神楽殿、左手には合祭殿と呼ばれる恵比須、稲荷、袋羽神社を合祀した社が建ち、壁には分かりやすく家内安全などの御利益の名称が書かれてある。公園近くには聖徳太子堂もあり、形が六角形のお堂。明治24年(1891)に岡山に建立されたが、2年後に当境内に移築されたとのことで、どういう経緯で岡山からここに引越ししてきたのかは分からないが、堂内の太子像にお参りし、御神徳を得る。
社務所に伺うと、快く御朱印を書いて下さり、福井の天照大神に感謝申し上げるのでありました~

佐佳枝廻社 - モリゾーのひとり言

2026/04/24 (Fri) 10:32:03

神明神社から南西方向へ。福井城跡の“城西公園”を眺めながら外堀であろうか、ちょっとした人工池には蓮の花が中途半端に咲いていて、午後なので仕方がないか…と癒しを受け取る。
「佐佳枝廻社」という看板を見つけ、階段上は参集所のような建物があり、石壁面の高さが、元々は丘の上にある事を物語っている。マンションの入口のような階段を上がると、境内の“横っ腹”から失礼したみたいで、鳥居は左手(南側)に建っていて、右手に社殿と、敷地はかなり広い。社殿を見ると、拝所にはカラフルな千羽鶴?の飾り物が目立ち、七夕の時期に飾るような雰囲気の中、拝殿でお参り。
佐佳枝廻社は「さかえのやしろ」と読み、御祭神の一柱である松平慶永(春嶽)公の御命名による。文字通り、福井が「栄える」という願いも込められているが、元はお寺の境内にあった家康を祀る東照宮で、奉安する御正体には、3代将軍家光が調進された東照大権現の御神像の13体のうちの1体が納められていたそうで、寛永の大火の後、再建、移築を繰り返し、「佐佳枝廻社」と改称されたのは明治に入ってからとのこと。なので、改めて御祭神はというと、家康を始め、福井藩祖の松平秀康、福井藩16代目の松平慶永(春嶽)の3柱がメインで、境内には榮稲荷神社もあり、葵の御紋があちこちに権威をかざしている。
社殿は何となく新しい気がするが、戦後40年を経過して建物の老朽化に伴い、平成元年(1989)に神社を含む再開発を行ったそうで、平成4年(1992)に竣工し、現在に至っている。
社務所で御朱印を授かり、お礼を述べ、本来入るべき鳥居から退出し、その鳥居や社号の石標の大きいこと大きいこと…松平家の威厳を示すかのように全体を見渡し、平伏するかのように東照大権現さまに感謝申し上げるのでありました~

また42、京都の旅(2) - モリゾーのひとり言

2026/04/02 (Thu) 10:11:39

毎年、さくらの開花時期が早まり、温暖化が進む今日この頃。モミジと同様にサクラも短く散ってしまう現象に、季節感が無くなり、「風流」という言葉も無くなっていくのは悲しい。
で、今回は2月上旬に行った京都の旅。節分の日は仕事だったので仕方ないが、1月の“京の冬の旅”の消化不良を補うため、再び一泊二日の旅~

豊国神社 - モリゾーのひとり言

2026/04/02 (Thu) 10:12:58

京都駅のバスターミナルはあいかわらずの人の多さにうんざりする。東山方面に行く時は、ぎゅうぎゅう詰めのバスに乗らなければならないので、それを回避するため私は決まって地下鉄九条駅へ移動し、そこから202か207系統の祇園方面に向かうバスに乗車する。東山七条バス停で下車し、京都国立博物館の建物を見渡しながら、お隣の豊国神社へ通りを歩くと、通り沿いに大きな岩が積み重なる石垣があり、権威を表しているかのように配され、大きな鳥居に到着。
豊国神社はちょこちょこ訪れていて、“刀剣めぐり”で「骨喰藤四郎の小太刀」がデザインの御朱印帳を購入したことを憶えている。今回は、“京の冬の旅企画”で、書院と宝物館が拝観できると聞き、当神社へはよく参拝しているにもかかわらず、宝物館は一度も見たことがなかったので、この機会にと訪れた次第。参道から正面に建つ国宝の唐門が、異彩を放っているあいかわらずの”出で立ち“で、外国人観光客が多い中、しっかりとお参りし、受付を済ませ、まずは書院から。
書院は元は、「恭明宮」という明治時代初期に、京都に残った宮中女官の居住施設として建てられ、皇室歴代の位牌や念持仏を祀った、御所からここへ移築した遺構である。宮中の居住施設だったというから、きらびやかなイメージだと思ったら、質素な畳敷きの普通の室内で、そこに展示物が置かれている。
まず最初に目を引く屏風絵。案内の方によると、レプリカであるが「豊国祭礼図屏風」は名称の通り、神社の祭礼の様子が描かれていると。祭りなので、南蛮人や七福神などに扮した人たちが楽しそうに踊り、陽気にはしゃぐ?人々の中に、“たけのこ男”が混ざっているとのこと。今でいうコスプレーヤーが一人いて、“ウォーリーをさがせ!”ではないが、探す楽しみもあり、この時代からそういう文化があったんだということが分かる。ほかには秀吉が着ていたであろう羽織や甲冑、NHK大河ドラマの「豊臣兄弟」の出演者のサインなどを展示。書院から宝物館へ移動し、宝物館の入口には、龍が描かれた鉄灯籠からのスタートで、案内の方と一緒に拝観。
大正ガラスのショーケース内に、こちらは“モノホン”の「豊国祭礼図屏風」を展示。“たけのこ男”も健在で、他に、獏の頭の形をした「獏御枕」、甲冑や書状、掛け軸、秀吉の「歯」と伝わるものまで見応え十分。中でも、源頼朝から足利家、秀吉、家康と所持されてきた「骨喰藤四郎の小太刀」(レプリカ)は、龍の模様が施された、元は薙刀の矛先。正確には刀身の差表には倶利伽羅、差裏には不動明王が施されているとのことだが、裏面を見ることができないので分からない。“モノホン”はお隣の京都国立博物館に展示されているそうで、歴代の権力者が守り刀として好まれてきたことが分かり、権威の象徴であったのだろうと想像する。
社宝を拝観し、社務所には御朱印目当ての参拝者がずらりと並んでいて、“京の冬の旅”Vrの御朱印を拝受し、お隣の方広寺へ。

方広寺 - モリゾーのひとり言

2026/04/02 (Thu) 10:13:59

豊国神社境内からそのまま北へ移動すると、方広寺の敷地となっていて、そもそも、方広寺の専有地は昔、豊国神社を始め、京都国立博物館までの、だだっ広い土地が境内となっていたので、仕切りもなく、あの“鐘楼”も挟んですぐのところにある。
方広寺は十数年ぶりの訪れ。鐘楼はそのままだが、本堂は増築されて大きくなったような…私が最初に訪れた時は、ちょっと朽ちた小さいお堂だったような気がするが、昔の記憶は当てにはできないので、随分変わったなぁ~に留めておく。
横長の立派な本堂脇から受付を済ませ、まずは大黒天堂へ。秀吉が常に護持していた手のひらサイズの大黒天。十分の一くらいの大きい大黒天はお前立として安置されていて、その背後に手のひらサイズの大黒天が祀られているのでよく見えない。以前は住職さんの計らいで目の前で拝ませてくれ、いろいろなお話を聞かせていただいた思い出があるが、さすがに拝観者が多いこの時期では致し方ないのは理解できる。
案内の方によると、堂内の天井に施されている「龍図」は剥がれ落ちそうになったので、今では掛け軸として隣の部屋に展示してあるとのことで、その「龍図」は、明治大正時代の日本画家、吉川霊華が描いたもので、龍の上唇が獏みたいに長い特徴を持ち、かなり大きな掛け軸として修復されたよう。
そして、江戸時代に造られた三代目盧舎那仏が安置され、盧舎那仏はかつて秀吉が奈良東大寺に倣って、東大寺の約3倍の規模で大仏殿を造り、高さ約19mの大仏を完成させた、その十分の一のサイズが祀られている。
秀吉の栄華を極めた頃の大仏は、権威の象徴ともとれる“代物”で、結局、完成した翌年の地震により倒壊、その後も焼失、再建を繰り返し、昭和48年まで大仏の存在はあったというから、相当な管理費があったのだろうと想像する。ちなみに、四代目大仏もあり、愛知県から譲られた大仏で、写真を見たが、お顔立ちは岐阜県の正法寺にある岐阜大仏のような…“ハンサム顔”ではない。
そんな数々の惨事を乗り越えた盧舎那仏にお参り。他にも、左甚五郎作の龍の彫刻、わずかに残る巨大な石墨など、在りし日の大仏殿の遺物が展示され拝観。
鐘楼へと移動し、あの「国家安康 君臣豊楽」を見る。家康が難癖をつけ、大阪冬の陣へ持ち込んだフレーズ…もちろん、これだけの理由だけではない。家康は豊臣家の財力を削るため、寺社再建や江戸城の普請など多くの軍役や諸費用を捻出させ、はたまた、朱印船貿易の利益を我が物にするため、堺と長崎の商業都市を自らの統制下において、経済的な利益を奪う…まさに家康が“たぬき”といわれる所以で、豊臣家の滅びゆく歴史を、この鐘楼を眺めながら、兵どもが夢のあとのように哀しく耽る。
案内の方によると、鐘楼の内部には茶々姫(淀君)の呪いの姿が…見える人には見える…とのことで、私は「安珍清姫伝説」を思い浮かべ、中に入るのは遠慮し、御朱印を拝受し次へ。

大徳寺法堂・経蔵 - モリゾーのひとり言

2026/04/02 (Thu) 10:14:58

博物館三十三間堂前バス停から206系統の市バスに乗って、ぐるりと左回りで北大路バスターミナルを経由し、大徳寺前バス停で下車。京の冬の旅では、各社のスタンプを押印し、3つ集めれば指定の茶屋で“お接待”が受けられるおなじみの企画をしていて、今のところ7つ集まっている。限のいいところであと2つ訪れたいと思い、1つは仁和寺観音堂、もう1つはどこにしようか…茶屋の近くにある所がいいと、大徳寺法堂・経蔵へ行くことに。
大徳寺は塔頭寺院がいくつもあり、ほとんど拝観を済ませているが、メインの方丈や法堂も1回は訪れている。もちろん、法堂にある狩野探幽作の天井画「雲龍図」は有名で、手を叩くと法堂内の空間が振動し、音が天井に届くと、龍が鳴いているような“響き”が聞こえる体感は今でも憶えている。それをもう一度、体験してみたいとさっそく、大徳寺の敷地へと入ると、総門の先の石畳、一直線にならぶ伽藍を眺めながら、一番奥の法堂にたどり着き、受付を済ませる。
堂内は陽の光を遮断する効果からかもしくは、石の床により涼しく、というかこの時期は肌寒い。そんな空間で見上げれば「雲龍図」がにらみを利かし、これほどまでに天井の高さがあったのだと気づく。
小田原城主、稲葉正勝の遺志により、子の正則が再建したもので、法堂は僧侶たちの教育の場であり、中央には立派な“教壇”が設え、土台には獅子の彫刻で施されているのが見える。
案内の方によると、「雲龍図」は一回描いたものを切り分けて、天井に貼り合わせたのではないかと。確かに、巨大な絵をそのまま天井に貼り合わせるなんて、無理があるかもと納得し、さっそく柏手を打つ。“鳴き龍”が響き、空間が揺れる…鳴らし方にもコツがあるようで、案内の方は「うまいですね」と叩き方を誉めそやし、私もまんざらではない。湿気が多いと“鳴かない”こともあるそうで、“鳴き龍”が聞けて満足×2。
お礼を述べ、次は経蔵。経蔵は文字通り、お経が納められた蔵で、経蔵内には中央の心柱を軸にぐるりと回る仕組みとなっていて、一周回せばお経を読んだことと同じ功徳が得られるという、いわゆる“お経メリーゴーランド”?(たとえが変です…)。
一切経などの約3500冊の経典が納められていて、正式には回転式の「八角輪蔵」と呼ばれている。案内の方いわく、それぞれの箱にインデックスのように漢字一文字が書かれていて、全部繋げると、中国の物語の故事になるんだとか。どこに何があるかを識別するための“マーク”のようなものだと思っていたが、ちゃんと理由があるんだと知りオモロイ。
回転式といっても今は回転することができず、自分で一周回らなければならず、それで得られるならばと入口側へ廻る(入口は封鎖されていて、経蔵の背後からの拝観となっている)と、この「八角輪蔵」を考案した中国梁時代の傳大士像とそのお弟子さんが安置されていて、右手で“閉じピースサイン”をし、「悟りを開いたよ」と言っているかのように喜んだ表情をしている。そんな彼らに手を合わせ、輪蔵の心柱も見ることができ、大徳寺開創700年?という、そんな歴史を刻んできた寺院…訪れることができ感謝×2。

写真は経蔵。

大雲寺 - モリゾーのひとり言

2026/04/02 (Thu) 10:16:06

翌朝、地下鉄国際会館駅で下車し、京都バスで岩倉実相院前バス停へ。目的は岩倉実相院ではなく、その近所の大雲寺。たまたま見つけたネット情報で、「秘仏 335年ぶりの御開帳」のフレーズに心惹かれ、訪れた次第。行基作の十一面観音菩薩立像が拝めるとあって、岩倉病院跡地の公園の隣にある大雲寺へ向かうと、山門はなく、お寺というよりか、普通の民家というか、公民館というか、お寺っぽさを感じない建物が建ち、境内?にはお地蔵さんが数体あり、それが唯一“お寺”としての認識ができるアイテム?として保っているかのよう。
事前に電話連絡をしていて、本日は午前中のみということで、いつでも拝観できるわけではないことに、電話してよかった~と胸をなでおろし、さっそく、玄関のような引戸を開けると、銭湯の番頭台みたいに、左手がすぐ受付となっていて、拝観料と書置きの御朱印を支払い、中へ。室内は民家の集会所のような佇まいに、正面、鳥居に装飾を施されたような囲いの中に十一面観音菩薩立像が安置されていて、周りは奉納された手作りの仏像やミニ仏で埋め尽くされている。
住職さん?(管理されている人かも…)が一通り説明をして下さり、本尊の十一面観音さまは奈良時代に造られ、平安遷都の際、洞中に安置されていたのを光仁天皇が仙洞御所へ移動し、その後、藤原時平が拝領し、大雲寺に安置された経緯が古書に示されていると。
大雲寺は平安時代、円融天皇が比叡山延暦寺講堂の落慶法要の際、ここ岩倉の地を眺められ、霊地であると日野中納言藤原文範卿を遣わして、真覚を開祖として創建。円融天皇の勅願所として49の堂塔伽藍をはじめ、洛北屈指の名刹となったという。そのうちの観音堂に祀られていたのが十一面観音さま。奈良長谷寺の十一面観音と同じ霊木から造られたとのことで、行基は聖武天皇の玉体、つまり姿、顔、形を映して造ったと伝えられている。そのお姿を拝むと、聖武天皇はふくよかな容姿だったのだろうかと眺め入る。
兵火により頭頂部の“十一面”は焼失してしまい、それが返って「代受苦」として、頭や脳に関する御利益があると云われ、錫杖や蓮の葉が入った花瓶は江戸時代に造り替えられ、元禄4年(1691)以来の御開帳ということで、どんだけ忘れ去られたことかと。この間も昭和60年(1985)に火災で本堂が焼失、現、仮本堂で営まれてきたというから、「なるほど…」だから、こう言っては何だが、境内の様子が“お寺お寺”していないのかと納得。
説明を聞き終え、しばらく十一面観音さまと二人きりで相対していると、頬に一筋の涙を流したような跡が見え(ただのシミかも…)、当寺の法難を憂いてなのか、ようやく人様にお会いできる機会が巡って嬉しいのだろうと、いろいろと妄想してしまう。
住職さん曰く、これからは33年に一度の御開帳をしていくとのことで、またお会いできるだろうかと、貴重な仏像を拝観し、お礼を述べ後にする。

石座神社 - モリゾーのひとり言

2026/04/02 (Thu) 10:17:06

大雲寺から北へ坂道を上がると、石座神社がある。天禄2年(971)に大雲寺創建の折、石座明神を勧請して鎮守社としたのが現神社であるが、岩倉の産土神として尊崇されてきた石座明神は、元は、現在地から南にある山住神社で、“神社”といっても、巨大な岩石があるだけの“磐座”を称して、それ自体を崇敬する“神社”であったと伝わる。
その山住神社には現在、巨石はなく、御旅所としての役割を果たしていて、桓武天皇が平安京遷都の際、呪術による防衛ライン、つまり鬼門や四神相応といった陰陽道を用いた仕掛けで、桓武天皇が経典を4つの磐座に収めた場所の1つがここ、「北の磐座」であり、「磐座」=「岩倉」の名称となっている。
ちなみに、4つの「磐座」は東に大日山(粟田口辺りで現存せず)、西に金蔵寺(大原野辺り)、南に明王院不動寺(五条松原辺り)である。
そんなネットの情報を知って訪れた石座神社であるが、鳥居からの坂道石段参道を歩き、境内は立派な幣殿(神楽殿?)や本殿が建ち、至って鳥肌が立つような感覚のない、普通の神社である。
本殿は二社、向かって東側に八所明神、西側に十二所明神の社が建ち、前者は石座、新羅、八幡など、後者は八所、伊勢、貴船などを祀っていて、どちらもお参り。
本殿の右隣には一言主神社があり、名称の通り、一つの願いを叶えてくれる?神社。奈良御所市の、賀茂氏ゆかりの高鴨神社を訪れた時のことを思い返し、こちらもお参り。
社務所へ行くと無人であるが、「御朱印」という貼紙が貼ってあり、たぶん書置きの御朱印が置いてあるのだろうが、何もないので“売り切れ”ということだろう、諦めて境内を散策。
壁には「岩倉の火祭り」についての説明書きが貼ってあり、10月下旬に行われる大祭のようで、2基の松明が龍のように燃え盛る写真が掲載されていて、午前3時に点火し、松明が燃え尽きる明け方に神輿の渡御が始まり、行列が御旅所へ向かう流れとなっている。つまり、石座明神が1年に1度里帰りする行事ということか。
この火祭りは、村人を悩ませた大蛇を退治するために神火で追い払った故事とされ、この地域の伝承とされているらしい。
火祭りといえば、ここから北に位置する由岐神社の例祭「鞍馬の火祭」が有名であるが、火祭りって、大体、深夜に行われるので、見たい気持ちはあるのだが、「午前3時か…う~ん」と唸ってしまう。“年寄り”のひがみを言いつつ、写真だけで妄想を膨らませ、神社内での勇壮な火祭りの演舞をするのだろうか…石座さまに感謝しつつ、後にする。

仁和寺観音堂 - モリゾーのひとり言

2026/04/02 (Thu) 10:18:10

地下鉄国際会館駅に戻り、北大路駅、バスターミナルから北野白梅町バス停で乗り換え、10系統のバスに乗り御室仁和寺バス停で下車。目の前の仁王門はあいかわらずの大きさを誇り、阿吽像がにらみを効かしている。
仁和寺は何回も来ていて、やっぱし「御室桜」が有名。境内で地元の小学生から課外授業に付き合わされ、アンケート攻めを受けた思い出が蘇るが、京の冬の旅では観音堂が公開されるということで、私はまだ訪れていない観音堂だったので、初めての拝観となる。
受付を済ませ、広大な敷地の砂利道を踏みしめ、中門を潜ると、五重塔、御室桜、元紫宸殿の金堂等を見、久しぶりって感じ。
観音堂拝観には「00分、30分」の時間設定が設けられていて、次の回まで時間が余っているので、その間、京の冬の旅企画の“お接待”を受けに仁和寺境内にあるカフェで時間を潰す。レモネードを注文し、周りのポスターや映像などを見、仁和寺の四季折々の風景や歴史、仏像などを改めて学ぶ。傍らの案内には木の薄皮を使用した御朱印も紹介していて、購入はしないが外国人観光客が見入っている姿を微笑ましく見守る。
時間となり、観音堂前に行くと、拝観を終えた人たちがぞくぞくと退出し、これから拝観する人たちの行列が並んでいて、急いで続き、いよいよ堂内へ。
薄暗いお堂の中、ステージのような壇上には仏像群が並び美しい。観音堂の本尊は千手観音菩薩。脇侍に不動明王と隆三世明王、左右にはずらりと並ぶ二十八部衆、その前の須弥壇には風神、雷神が控え、計33躰を安置している。仏像群背後の壁面にはその33観音の他、六道図が描かれていて、絢爛豪華である。
僧侶が説明に入り、観音堂は建長6年(928)創建され、度重なる焼失を繰り返し、現在の堂宇は江戸初期の建築で、平成24年(2012)から6年に渡って修理が行われたとのこと。約380年経つにもかかわらず、色彩が残っていることや細かな躍動感ある造形がすばらしく、千手観音が合掌している手からは紐が観音堂外へとつながり、拝観後は、紐を掴めば御利益を得られると。
仏像群を見ていて、風神・雷神像の色彩が艶やかで、昔から残されたものなのだろうか、はたまた、修復して色が付いたのだろうか分からないが、昔の人はきっと、同じ色の風神・雷神像を見ていた…いや、ひょっとして拝むことさえできなかったのだろうか…と。
ステージに立つ“演者”は、ポーズをしているボディビルダーかのような…妄想をしてしまい、思わず声を掛けてしまうほどに、見入る。
拝観後、紐を掴みに手を合わせ、金堂前の納経所で御朱印を拝受。良い拝観となりました~

泉仙 - モリゾーのひとり言

2026/04/02 (Thu) 10:19:28

京の冬の旅企画“お接待”はあと2つ。今日はもう拝観する所ないので、“お接待”を受けに茶店を伺う。大徳寺境内にある「泉仙」さんで抹茶とわらび餅が食べられるということで、地図上では1月下旬に訪れた大徳寺大光院の東側に位置しているが、時間が決まっているので、前回は訪れることが叶わず、今回はちょうど良いタイミングなので訪れることに。
大徳寺大光院付近へ伺うと、何だか民家の小路に入ってしまい迷ってしまう。そんな様子を心配して見ていた地元住人の方が教えてくれ、「泉仙」は、大徳寺塔頭寺院の大慈院のことで、一旦総門の方まで行かないといけないという。お礼を述べ、東側へと初日に訪れたとおりに回り込み、案内看板の地図を頼りに、大慈院へ石畳を歩くと、細い路地、山門からの参道、京都らしい苔の生えた庭を見、お寺というか、もうお店の佇まいとなっている。
引戸を開け中に入ると、客間は二間8畳ほどの広さに案内され、先客が寛いでいる。“お接待”の券を渡し、抹茶とわらび餅が運ばれリラックスタイム。
「泉仙」は普段は、精進料理を提供する予約制のお店。なので、この、京の冬の旅企画でもない限り、訪れることはなかったであろう。大正ガラスっぽい窓からの外の風景は、外からは中が見えにくいように足元だけとなっていて、石畳とちょっとした枯山水が風情を醸し出し、落ち着ける空間。しばし寛ぎ、もう1つ、“お接待”を受けられるお店を思案する。

笹谷伊織 - モリゾーのひとり言

2026/04/02 (Thu) 10:20:31

大徳寺前バス停から206系統のバスに乗ってぐるりと右回りで南へ移動。七条大宮バス停で降り、交差点近くにある「笹谷伊織」さんへ赴く。“お接待”が受けられるお店は全部で31ヶ所。その中で、コストパフォーマンスが高い?「お菓子資料館」は本日定休日。まぁ~一度訪れてはいるのであきらめもつくが、「笹谷伊織」さんは3ヶ所ほどの“お接待”の店舗があり、クチコミを見ていて、気になったことがあったので訪れることに。
入店すると、ほとんどお土産をメインに扱っている感じの店内だが、4、5席ほどのお茶できるスペースがあり、夕方ということもあって、誰もいない。さっそく、“お接待”の券を渡し、運ばれてきたお菓子は、あずき餅とほうじ茶。あずき餅はどら焼きではないが、生地の中に粒あんが入った和菓子。何か他にニッキのような隠し味が入っているような…味がして、これまたほうじ茶と合う。
店にあるパンフレットがあったので読んでみると、「享保元年(1718)創業」とある。名称からして“ただモノではない”ことは感じていたが、初代、笹谷伊兵衛が御所の御用を仰せつかり、伊勢国の城下、田丸より京へ上がったことから始まると。
以来、およそ300年、京菓匠として歴史を重ねてきたと説明書きされていて、現在は10代目に当たる方が営んでいて、名物とされる「どら焼き」が有名のよう。
「どら焼き」と言っても、あの、ドラえもんが好きな「どら焼き」ではない。京都の東寺のお坊さんから依頼を受け、お寺の銅鑼の上で焼いたのが始まりで、秘伝の薄皮で棒状に伸ばした“こしあん巻”を竹の皮で包んだ和菓子だと。
毎月20日、21日、22日の3日間しか販売しておらず、クチコミによると、「もっちりとした弾力性の食感」とあるので、羊羹のような、ういろうのようなことだろうか…
買える機会があるならいつか購入してみたいものだと、食後、お土産として、あずき餅と他の和菓子を購入。京都の“お接待”を受け、今回も京都の旅は満足×2となりました~

また42、京都の旅(1) - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:23:34

梅の便りが届く頃、花粉症に梅干しを食べると良いという情報を得、気休めながら食べている。癌治療に関しては日々、医学が進んでいるが、アレルギーに関しては、100年はかかるという。日本人の2人に1人が花粉症という特異体質な我々に、解決の糸口は見つかるのだろうかと、私が生きているうちは無理だろうな…
さて、今回は1月下旬に行った“京の冬の旅”。一泊二日で行ったのだが、二日目の帰り、雪で新幹線がストップするのではという不安を抱えながら、結局は初日だけの旅となり、消化不良で2月上旬にも訪れました。2月上旬分はいずれ載っけますが、何だか、毎年の恒例行事となってしまった京都の旅を堪能~

大徳寺大光院 - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:24:54

今年で“京の冬の旅”は60回目の節目を迎え、NHK大河ドラマは「豊臣兄弟」と、今回は豊臣家に纏わる関連寺社が非公開文化財を特別展示している。
京都は1年ぶりの訪れで、毎度の事、バス地下鉄1日乗車券を利用し、まずは地下鉄北大路駅、バスターミナルから西へ建勲神社前バス停を目指す。もう、見慣れた街の景色を眺めながらバスを降り、交差点で信号待ちをしていると、通りの反対側にあるお漬物屋さんを見、時間があったら寄ってみようと、大徳寺大光院へ移動。
長年、京都に訪れているが、大光院は大徳寺の塔頭寺院の中ではあまり公開していないのではないだろうか、本坊より西へ離れた場所にあり、小路通りに建つ山門を潜り失礼すると、京都らしい苔の生えた軒先に石畳が続き、落ち着いた雰囲気。
受付を済ませ中に入ると、客殿南面にある枯山水庭園を眺めながら襖絵から拝観。狩野探幽筆の「黒雲龍図」がずらりと並び、元は伊達家所有の屏風絵で、当寺が再建された時に寄進されたものらしい。迫力ある龍の姿が黒雲の中でうごめいている…そんな表現だろうか、じっくりと見る。
大徳寺大光院は豊臣秀吉の弟である秀長の菩提寺。秀長と伊達家との関係は、秀長が病死してしまったので、繋がるところはないが、敢えていえば、北条小田原征伐後の伊達政宗上洛の際、秀長との会談が実現していれば、正宗への処遇や豊臣政権による奥州統治の在り方が大きく異なっていた可能性があったのではないかと(無理やりこじつけ…)。
そんな不遇の時代?を憂いてか、もし秀長が生きていたら…との想いもあって、伊達家は「黒雲龍図」を寄進したのかもしれないと、勝手に妄想する。
客殿中央には秀長公像と位牌が並び、手を合わせ、ガイドさんの説明を聞く。大光院は元は、奈良大和郡山に建立されていたのを、秀長の家臣であった藤堂高虎が大徳寺山内に移し、古渓宗陳(こけいそうちん)を開祖として創建。古渓宗陳は、千利休の参禅の師であり、秀長葬儀の際には導師を務めた人物。大徳寺の総見院で秀吉が信長の葬儀をした人もこの方で、秀吉が利休切腹を命じた際にも、大徳寺自体も破却せよという命令に、この方が身を挺して大徳寺を守ったほどに、今ある大徳寺はこの方のおかげといっても過言ではないと。
説明を聞き、枯山水庭園の西側には墓所があり、秀長と藤堂高虎の五輪塔があるとのことで、移動すると、墓所には入れず、斜め左方向(南側)へ遠目ながらの拝観。立派な五輪塔が並んで建ち、その時代に生きた漢(おとこ)たちに手を合わせる。
書院へと廊下を歩き、茶室「蒲庵(ほあん)」へ。「蒲庵」とは古渓宗陳の別号「蒲庵古渓」から名付けられたとされ、二畳ほどの広さに障子窓が意外と周りに取り付けられ、室内は明るい。この茶室は移設されたものであるが、その移設される前には、庭の露地に黒田長政と加藤清正、福島正則それぞれ1つずつ寄進したという「三石の庭」があったそうだが、その石はなぜか一緒には引っ越しされず、そういうことがあったという名残だけが伝わっていると。
秀吉の“ブレーキ役”でもあり、あらゆる戦国武将との縁があった秀長。秀長ゆかりのお寺を訪れ、御朱印も拝受し、秀長の人となりを想うのでありました~

福勝寺 - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:26:38

建勲神社前バス停から左回りの206系統の市バスに乗って、千本出水バス停で下車。ここは、豊臣政権下での区画整理(聚楽第建設の為だったかな…)のため、お寺が多数引っ越してきた「出水」という界隈。なので、お寺が密集していて、今回の“京の冬の旅”でもありがたいことに、“3連チャン”で訪れることができる。
西に数分、最初に訪れるのは福勝寺。洛陽33観音霊場として1回訪れている。もう10年ぶりぐらいだろうか、山門を潜った境内、目の前に現れる本堂、左へ庫裏が続く建屋の狭い敷地の印象が昔と変わらずそこにあり、「そうそう、こんな感じだった…」と懐かしい。
福勝寺は「ひょうたん寺」と呼ばれ、秀吉が厚く信仰していた聖天堂に祀られている秘仏、歓喜天(聖天)に、出陣の際には「武運長久」を祈願してひょうたんを奉納したことで有名。節分の日には、家内安全、無病息災、学業成就、商売繁盛、金運上昇などなど…鬼に金棒的な御利益がある「ひょうたん守り」が売られ、行列ができるほどの人気ぶりで繁盛するそうな。歴代天皇も帰依して勅願寺とし、江戸時代に後西天皇から御所の「左近の桜」を枝分けして下賜されたことからも、宮家や地元の崇敬が厚かったのが分かる。
入口では切り絵御朱印を販売していて、秀吉の絵柄をモチーフにした赤、黄色、青のバージョンが目を引き、人気の赤をお願いし、まずは聖天堂へ。
聖天堂といっても本堂内に設えた6畳ほどの畳敷きの場所で、敷居を跨いだら隣は本堂内陣となっている。聖天堂の祭壇は○○会(忘れた…)が今も催されているとのことで、拝むこと叶わず、鴨居に描かれている天女が「ごめんね…」という表情で佇んでいる。その代わりに、祭壇の写真、歓喜天の本地仏が十一面観音であることから、金ピカの十一面観音が安置され、秀吉、家康公の木像、「ひょうたん守り」が展示されている。
お隣の本堂内陣にはきらびやかな天蓋に、正面中央に厨子に納められた薬師如来像をはじめ、聖観音、金剛薩睡像を安置。薬師如来像は50年に一度の御開帳なので、次は2034年というからあと8年待たなければならない。私の歳でもまだチャンスはあるということか、しっかりと次に出会えることを願い、お参り。
ガイドさんの説明を聞き、最後に節分の日に頒布される「ひょうたん守り」を事前に予約できるとのことで、今年の節分は行けないので諦めるが、節分の日だけの特別御朱印を郵送してくれるとのことで、ありがたく申し込みをし、歓喜天さまやお薬師さまに感謝申し上げるのでありました~

華光寺 - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:27:29

福勝寺からお隣の華光寺へ。初訪のお寺であるが、山門付近には拝観客の姿が多く、“京の冬の旅”では初公開なので、人気なのだろう、山門前の赤い帽子を被ったお地蔵様が笑顔で迎えてくれる。
境内は大きな本堂、その前に小さな池泉式回遊庭園があり、特徴的なのが、石鳥居が建っていること。受付を済ませ、本堂に上がると内陣には大きな祭壇、右手には毘沙門天像が祀られていて、先ほどの石鳥居の導線上にあるので、「だからか…」と納得。
ある程度、人数が集まりだしてからのガイドさんの説明となり、案内開始。歴史としては日尭(にちぎょう)上人が秀吉の外護を受けて創建した日蓮宗のお寺。日蓮宗に見られる「一塔而尊四士」という(聞いたことない…)形式で、中央に日蓮上人、その背後に「十界曼荼羅」を控え、その周りには釈迦如来や四天王像などが安置されている。日蓮上人像の頭には白い“綿三角帽子”が乗っていて、一部赤く染まったところがある。日蓮さんが日蓮宗布教の際、世の中には他宗教を忌み嫌う人もいて、石を投げられたりすることもあり、それを救う人もいて、頭に怪我をしてはと、手ぬぐいを頂き、頭に被り、血が滲んだ姿を表しているとのこと。「なるほど~」と聞いていたが、それぐらい苦労しないと何事も成就できないんだよ…という戒めにも聞こえる。
そして毘沙門天。平安時代後期、鞍馬寺の毘沙門天像と同じ木で造られたと伝わり、秀吉が伏見城で信仰していたと。甲冑を纏い、檄(げき)を手にし、足がちょっと短いような印象を与える下半身から頭へと目を向けると、忿怒の形相で威嚇している。どこか秀吉にも似ているイメージが湧き、じ~っと凝らして見る。普段は厨子に納められ、縁日の日でも薄い膜越しでしか見れないようで、今回の“京の冬の旅”では、はっきり御開帳して下さったそうで、ありがたくお参り。ちなみに、ガイドさんの説明の中で、鬼平犯科帳で有名な、長谷川平蔵宣似の父、宣雄の葬儀をこの寺で執り行ったという資料が残されていると。
書院へ移動すると、京都ゆかりの絵師による掛け軸や、日蓮さんの「御真筆断簡」、鴨居には日蓮さんの人生を絵図で紹介されていて、拝観。中でも、千本出水界隈に伝わる「出水の七不思議」なる「時雨松」と「五色椿」の話があり、「時雨松」は秀吉公お手植えの松で、晴天でも枝から雫を落とし、その様子が“しぐれている”ように見えたことからその名称がきている。現在はその古株が宝物として展示されていて、境内には2代目の「時雨松」が茂っているんだとか。
「五色椿」は春と秋の開花時になると、1本の木に異なる五色の花をつけたと云われていて、こちらは枯死したそうな。七不思議ということはあと5つ…ここ出水界隈には伝説の話がまだあるようで、“寺町”まわりだと、とかくこういう話は“あるある”である。
書置きの毘沙門天の御朱印と御主題を拝受し、境内の2代目の松や花が咲く椿がある庭園を眺めては、落ち着いた雰囲気に、冬の彩りを感じるのでありました~

光清寺 - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:28:36

華光寺の道を挟んだ真向かいに光清寺はある。山門を潜り境内に失礼すると、竹垣の囲いの中に石庭が芸術作品のようにある。立て看板には、重森三玲作の「心月庭」とあり、晩年の作とのこと。元は、大きな黒松が植えられていたらしいが枯死し、その後に白砂を設け、石組を配したということで、ここで重森三玲に会えるとは「なるほど~」と唸る。
石畳の参道を進むと、立派な松、その隣に大きな鐘楼があり、その向かいの入口で受付を済ませる。御朱印は4種。御朱印の値段もこのご時世、高くなってきているが、旅の高揚感に乗ってすべて拝受し、本堂へ移動。
東面に広がる石庭が、これまた見事で、こちらも重森三玲作の「心和の庭」で、誰が見ても「心」を表しているのが分かる。「心」は、苔の生える築山の上に仏像を表す12組の石が配されていて、「神仙世界」を表す枯山水庭園となっている。
拝観客が集まるまでしばらく庭園を眺め、見飽きることなく違う角度からの撮影をしていると、南面の竹垣も「心」を表していて、さすが重森三玲と唸る。
ガイドさんの説明が始まり、話を聞くと、創建は伏見宮貞致親王の生母の供養のために宮家ご領地に生母の「慈眼院殿心和光清大信女」の法名から称するようになったと。かつて、岩倉具視を輩出した岩倉家の菩提寺でもあったという。本堂には慈覚大師(円仁)作の聖観音菩薩立像が安置されていて、お参り。
左手鴨居に掲げられている額縁には、猫の絵が描かれており、出水の七不思議の1つ「浮かれ猫」の絵馬を見る。三味線の音を聞くと「浮かれ猫」が飛び出してくるという(遊女が現れて人間の煩悩を犯す)云い伝えがあり、当時の住職が法力で絵馬に封じ込めたと。あまりの法力の強さに住職の夢枕に現れて、もうこの世に出ることはしないと嘆願したため、許して封を解いたと。その話を聞いた人々が、諸芸上達のご利益があると参詣したそうで、「へぇ~」と、その猫の目を見ていると、確かに引き込まれそうになるような。
「あぶない、あぶない…」あまりじっくり見ているとヤバいかも…と、ガイドさん曰く、境内の弁天堂に“レプリカ絵馬”があるので、そちらは撮影可能だということで、行ってみると人だかりが。「もう、みんな…猫に魅了されてるじゃんか!」
その光景を見、何だか滑稽な、「今夜、夢枕に現れるだろうな…」と、猫の絵馬を眺めるのでありました~

興聖寺(1) - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:29:34

千本出水バス停から市バスを乗り継いで、天神公園前バス停で下車、歩いてすぐの興聖寺山門にたどり着く。興聖寺は2回目の訪れ。
広大な敷地の中に大きな本堂、方丈を有し、紅葉の時期が有名だろうか、境内にはモミジの木々が配され、参道石畳を歩く。受付を済ませ、まずは本堂へと赴くと、その高さといい、声が響くほどの空間、祭壇前には大きな「達磨図」がで~んと掲げられている。そして、天井を見上げれば「雲龍図」もで~んと描かれていて、迫力満点。
ガイドさんによると、「達磨図」は、「達磨忌」の日のみ掛けられる日本最大級の巨大な掛軸。本堂の左手に豊臣秀長の家臣であった藤堂高虎寄進と伝わる達磨像も安置されていて、当寺の“達磨信仰”が崇敬されているのが分かる。
「雲龍図」も天井板の木目を利用しているのだろうか、雲の中でうねる龍の表現が素晴らしく、ずっと見上げていると首が痛くなる。
本堂の建物については、屋根を支える内側の格子状の、均等に並べられた木々が黄檗宗の様式で、当寺が臨済宗にもかかわらず、○○時代(忘れた…)に流行った黄檗宗の影響から造られたそうで、本堂でのこの様式はここだけでしか見られない、珍しいものだとか。
歴史としては、後陽成天皇や後水尾天皇の勅願所として、千利休に茶道を学んだ古田織部が開基、虚應円耳という方が開山、創建し「織部寺」とも呼ばれている。
古田織部といえば、徳川幕府への謀反の嫌疑を掛けられ、一家断絶となったことが有名だが…
大阪夏の陣で、徳川方の情報を豊臣方に漏らしたことで、家康の「茶頭」としての信頼は「裏切り」ともとれる疑念に、不信感が生じ、家康は切腹を命じ、織部は一切弁明せず、最後の茶会を開いた後、自決したと伝えられている。
真意のほどは分からないが、師である千利休が秀吉の切腹に、何も語らずに死を受け入れたことに倣い(ならい)、同じ行動を起こした?と、解釈されている(一部冤罪説という話も…)が…。
師の利休から、「人とは違うことをしろ」という教え、つまり、動的な歪んだ茶器や斬新な文様を採り入れた「織部焼」などは「へうげもの」と呼ばれる“奇抜な美意識”を生み、時代の潮流に乗った古田織部。そんな奇抜さがあったが故の自決ではなかったかとも想像する。
そんな織部の正室の「仙」は、興聖寺山内にお寺を建て、菩提を弔うために余生を送り、境内には織部公と5人の男児、仙の石塔が建てられている。

興聖寺(2) - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:30:33

本堂から方丈へと移動し、ガイドさんの案内によって説明を受ける。一際目を引く“青い襖”。写真家、杏橋幹彦氏による海の中から撮影された“うねる波間”の写真で、ちょうど真ん中で波が盛り上がる様相が、手を合わせている“合掌”を表していると。現代の技術で襖に写真を拡大させて表装したらしく、鮮やかな“青”が目に飛び込んでくる。
格天井を見上げれば、それぞれ違う作画の春夏秋冬の花が描かれていて、最近製作されたような佇まい。
それとは逆に、平安時代に書写された「一切経」(中国から渡ってきたあらゆるお経の総称)の一部が展示されていて、話によると、5294巻という巻数を誇り、これらの経典群の中では三蔵法師が記録した大唐西城記十二巻中、最初の一巻が1200年以上前に書写されたものまであると。その古すぎる書写された一部は、虫食いの症状が生じていて、それを修復するのに○○○万円掛かるという…とんでもない額を、寄附を集めながら今も費やしていると。係の方に「虫って、紙を喰うんですか?」と素朴な疑問を投げかけると、紙にはデンプンが塗られていて、それが虫食いの要因であるとのことで、「へぇ~なるほど…」と納得。
黄檗宗から「鉄眼版一切経」が贈られたこともあるとのことで、万福寺近くの宝蔵院で、手作業で刷っている職人の見学をしたこと、その時の、棚に積まれた膨大な一切経の数々を目の当たりにして驚いたことを思い出し、気が遠くなるほどの作業だと痛感する。
傍らには、“寄附のお願い”があり、手ぬぐいと特別御朱印を拝受して、志納しお礼申し上げる。
方丈から茶室へと向かう廊下の途中には、“降り蹲踞(つくばい)”(水で手を清める茶室前に設置された手水鉢のこと)があり、深さが2mあるのは珍しいと写真に収め、「雲了庵」の茶室を拝観。庭には北白川の白砂を用いて、富士山のように山を造り、苔で模した川、木々などを配し、風情を醸した、落ち着いた雰囲気。ここに、モミジの“赤”が加われば、さぞ、綺麗なことであろうと、秋の時期に再び訪れることを“織部さん”に願うのでありました~

つけもの - モリゾーのひとり言

2026/03/21 (Sat) 10:32:04

興聖寺を拝観後、今日はここまでと限を付け、気になっていた漬物屋へ行ってみようと、再び市バスを乗り継いで、建勲神社前バス停へ。通りに面した提灯が目印の「京漬物 大こう本店」さんに入店すると、石畳の床が漬物屋にバッチリ想起できる造りとなっていて、冷蔵ケースにいろんな漬物が販売されている。店員さんがまずはこちらのテーブルにと、用意されている方へ案内され、試食タイムが始まる。
言われるがままテーブルに着くと、赤いお盆に数種類の漬物が乗っていて、ほうじ茶まで付いてくる。どこぞの茶店のような…いやいや、ここは漬物屋だと、ポリポリとつけものを試食し、なるほど…いろんなしくみがあるもんだ…と、さすが京都の、これが“おもてなしシステム”か…と感心し、味の食べ比べをする。
ゆずの香り漂う大根、長芋わさび漬け、京しば漬け、ワインらっきょなどなど、中々におもしろい。お土産に、いざ選択するとなると、迷ってしまい、まずは千枚漬けを確保し、ワイン漬けのらっきょ、その他を購入。老舗?漬物屋本店に訪れることができて、満足×2。


つづく…

また2、山口の旅(4) - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:21:40

私の花粉症センサーはまだ反応してないが、周りはもう“キテいる”と話す。うわ~、この季節が来たか~と、マスク必須の生活がまた始まるのか~と戦々恐々だが、梅、桜の季節でもあるこの時期、どこか行こうか毎年迷う。家でじっとしているのが一番いいのだが…
てなわけで、山口の旅、最終日まで紹介~

山口県護国神社 - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:22:47

4日目。県庁前バス停から宮野駅行きのバスに乗り、雪舟庭入口バス停で下車。交通量の多い国道9号線から北へ目を向けると、大きな鳥居が建ち、バス停から近い。
早朝8:00時ごろだとまだ神職さんの姿はなく、清々しい境内は護国神社らしい、何もない颯爽とした敷地となっている。
山口護国神社は日清戦争以降、山口県出身の英霊が眠り、現社地の南、国道9号線を挟んだ南に桜畠練兵場(現在の陸上自衛隊訓練場)において、盛大な招魂祭を斎行したことに始まる。昭和16年(1941)に社殿を創建、5万柱におよぶ御霊を祀っている。なので、歴史に名を残した大村益次郎や久坂玄瑞、高杉晋作、吉田松陰なども祀られていて、鳥居右手には招魂碑や飛行機のプロペラ、兵士の銅像が安置され、モミジが真っ赤に“彼ら”を照らしている。
両翼回廊式の拝殿でお参りをし、社殿右手には普通の池なのか、防火水槽用のため池なのかわからないが、その周りを囲むようにモミジが朝陽を浴びて赤く輝いている。こんな美しい光景を見られるのも、日本のために散った英霊たちのおかげだと、やはり護国神社ではしんみりとしてしまう。
社務所はまだ開いていないので、次に向かう常栄寺の帰りに再び立ち寄ってみようと。
…で、その帰り、社務所で書置きの御朱印を拝受し、御朱印帳がないか聞いてみると、小さい御朱印帳しかなく、大きいサイズはないとのこと。山口市内で大きい神社、たとえば山口大神宮とかにないかなぁ~と、丁寧に相談してくれ感謝×2。さて、どうしたものかと、かんがえるのでありました~

常栄寺(1) - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:23:46

山口県護国神社から北へ10分ほど歩いて駐車場にたどり着くと、モミジや雪舟さんの銅像に迎えられ、まだ誰も拝観に訪れていない様子。常楽寺には雪舟ゆかりの庭を目当てに訪れた次第だが、拝観は朝8:30からスタートなので、この秋の時期は多いのだろうと思っていたが、ちょっと拍子抜けしてしまう。まぁ~、それはそれで人がいない方がいいのだが…
山門を潜り、広い境内には枯山水庭園、地蔵堂と石畳を仕切りに理路整然と配置され、清潔感漂う空気感が流れる。受付で拝観手続きをする時、案内の方が「今日は庭園の方で工事関係者が重機を使い、雑音がしますので…」と申し訳なさそうに説明され、ひょっとして…それで人が少ないのか…と、とりあえず本堂へと足を運び中へ。
本尊は千手観音菩薩。この仏様が何ともすばらしい。千の手で誰一人漏らすことなく人々を救うため、いろいろなアイテムを持ち、手が後光のように見える。すっくと立つお姿は、堂々とされていて、向かいの縁側にある枯山水庭園をいつも見ていて、いいなぁ~と独り言ち、お参り。枯山水庭園はあの重森三玲が造られ、「南溟庭(なんめいてい)」といわれ、雪舟庭よりも優れたものを造られては困るという注文で造られたんだとか。重森さんも、はて?匙加減に困ったことだろう、見る人によってはこっちの庭が…なんていう人もいるかもしれない。
白砂に配置された石組、塀からの背景は裾野が見渡せる景観となっていて、よ~く考えられているのが素人目にも分かる。「南溟庭」を観賞し、本堂をぐるりと北側へ行くと、お待ちかねの雪舟庭園が広がる

常栄寺(2) - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:24:37

まずは縁側に座って観賞。雪舟庭園は、池泉式回遊庭園となっていて、池の周りには草木が生い茂る中にモミジの木々が見頃を迎えていて、美しい。石組の配置や芝生、苔、緑色の低木が色を添え、庭園を盛り上げている。始めは静かな空間であったが、ガガガ…っと音が響き始め、東屋の方で重機が動きだし、落ち着ける時間はあっという間。仕方がないが、雑音に急かされるように本堂から書院へと移動し、臨済宗中興の祖である白隠禅師の書や「郡山城下図」などの展示を見る。「郡山城下図」は、洞春寺でも説明したが、毛利隆元の菩提寺がこの地に移ってきたので、広島の郡山城跡が描かれているが、この絵図の様子と発掘調査で判明した遺構が一致していることが確認され、絵図の正確性が証明されたと云われている貴重な史料。へぇ~と、じっくりとその絵図を眺めて、次は庭園へ移動。

常栄寺(3) - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:25:30

常栄寺は元々は、大内政弘が別邸として建てたもので、庭は雪舟に依頼して築庭させたものと云われている。後に、政弘公の母、妙喜殿を弔うためのお寺として妙喜寺を創建し、その後、先ほども述べた毛利隆元の菩提寺、常栄寺と合寺し、今に至っている。
本堂は大正時代に焼失し、昭和27年(1952)12月に建立されたもので、庭園から眺める本堂も改めて立派な佇まいを見せている。小路を上がり、モミジを愛でながら竹林とのコラボを撮影し、山林の中へ。木々生い茂る中に光が射す、妙喜殿の供養塔があり、お参り。
道なりに進むと、「毘沙門堂」への案内看板があり、ここまで来たら行くしかないでしょ!と決意し、坂道を上がる。軽めの散歩道かと思って上がっていくと、徐々に登山道のような様相となってきて、いつしか、戻るわけにもいかない距離になってしまったので先を進む。ようやくたどり着いた~と思ったら「弘法大師堂」、再び次はと歩き始めると「薬師堂」…。「毘沙門堂」はたどり着けるのか?と、朝から汗をかきかきハードな?運動となってしまい、やっとこさ到着~。たどり着いた場所からは、さぞや境内を見渡せる風景が広がるのだろうと思っていたら、木々に囲われよく見えない…。
「毘沙門天さん…」
期待した私の早とちりと嘆きを入れつつ、お参り。ここまで登ったんだから御利益はあるだろうと勝手に解釈し、再び元来た道を戻る。
東屋の周辺には重機を動かしている作業員の方々が忙しく、これもやむを得ないのを受け入れ、本堂に戻ってきてそれなりの散策を堪能~。
1時間ぐらい経つが、誰も拝観に訪れている人はおらず、まぁ~、庭園を独り占めできた?だけでもラッキーなことだと、御朱印も授かり、山口県護国神社に立ち寄り次へ。

仁壁神社 - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:26:26

御朱印帳をどうしたものか…考えながら国道9号線を越えて、自衛隊訓練場の横の道を南へ行く。バスで行く予定であったが、遠回りとなるため、一度、グーグル地図で検索を掛けてみると、次に向かう仁壁神社には20分で歩いて行ける距離と判明したので、慣れない道を進み、住宅街に入る。
地元の神社~といった感じの鳥居が建ち、さっそく境内へ失礼すると、参道から徐々に木々生い茂る景色へと変わり、色とりどりの秋らしい装いとなっていて、社地はかなり広く、イチョウの木が黄色く色を染め、すっくと生えている。
仁壁神社は宮野地区(現在地より東北)の氏神として祀られていた、およそ1100年は経過、それ以前かもしれないほどに創建年代がわかっていない。御祭神は住吉三神が祀られていて、他に下照姫命や畔鉏高彦根命など、海上交通、交通安全、五穀豊穣、織物…つまり、衣食住に関係する神さまがこの地域の人々を見守っている。当神社は三ノ宮とも呼ばれ、赤田神社でも説明したが、大内義興公が崇拝していた五社のうちの1つ。なので、境内の雰囲気も赤田神社同様、格が違う…というか、何となく品があるというか、そんな感じがする。
とにもかくにも、杉の木や樫の木などの大木が並んでいて、空気感が違うのは間違いない。
拝殿でお参り。境内を散策すると、摂社・末社が多く祀られていて、それぞれに“○○の神さま”と説明書きがあるので、わかりやすい。
境内西側のイチョウの木が黄色く見頃を迎えていて、しばらく撮影タイム。確か…イチョウの木ってオスメスがあるって聞いたけど、どっちだろうか…と見上げながら、社務所へ。
前日に訪れることを宮司さんに約束していたが、境内で偶然お会いし、書置き御朱印を拝受。名古屋からの訪れに労って下さり、境内にある梅の木から採った梅干しと、イチョウの銀杏をいただき、感謝×2。梅干しと銀杏は、毎年のお正月に、参拝客に配られる品だったようで、特別のめでたい品を受け、この場を借りて、本当にありがとうございました~

御朱印帳を求め… - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:27:24

三ノ宮バス停でバスの時間までネット検索。実は、これまでの3日間の内、いろいろと御朱印帳を販売している所を訪ねている。たとえば、山口観光協会さんが販売している御朱印帳は、松田屋ホテルにあるとの情報で訪れたが、小さいものばかり。各寺社はもちろん、お土産売店にも聞いたが、小さいものばかり。目当ての縦18cm×横12cmぐらいの大きさの御朱印帳がなく、同じ大きさのを揃えたいというのもあって、まぁ~、こだわりっちゃ~、こだわりですが…。ちなみに、松田屋ホテルは、西郷隆盛や坂本龍馬らの勤皇志士たちが会合した場所で、エントランスから石畳の、暖簾をくぐったフロアは高級ホテルって感じで、私には敷居が高く畏れ多い。
…で、そんなこんなで、とある仏壇店に御朱印帳の情報を得、御朱印めぐりのセミナーを開催しているほどの、今どきめずらしい?仏壇店であると知り、数多の御朱印帳を販売していると。場所はJR仁保津駅から近く、確認のため電話をしてみると、目当ての御朱印帳を販売していているとのことで、急遽予定変更、バスもちょうど、JR山口駅行きが来て乗車、JR山口線を西へ向かう。
JR仁保津駅から国道9号線の通り沿いを西へすぐ、ふみおか仏壇店があり、意外と大きな佇まいを誇っている。
さっそく入店し、店員さんに案内してもらうと、デザイン性の良いものばかり、目当ての御朱印帳がずらりと並んでいる。迷ったあげく2冊購入し、御朱印帳を広げて飾るスタンドも販売されていて、「これイイじゃん」と店員さんに聞いてみるも、人気商品のため売り切れとのこと。まぁ~、御朱印帳を手に入れたことだけでも感謝で、山口の旅で仏壇店に立ち寄ることになるとは、とりあえず一安心で、お礼を述べ、後にする。
再びJR山口線を東へ、初日に降り立ったJR湯田温泉駅で下車すると、大きな“白キツネ”が私を見降ろし、「良かったねぇ~」と言われているようで、これも“白キツネ”のご利益なのか…と、感謝を込めて、見上げるのでありました~

井上公園 - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:28:16

JR湯田温泉駅から北へ。初日のホテルへ向かう途中の、気になっていた公園に立ち寄る。公園は公園だが、“史跡”といった感じの第一印象で、山口に来るまで知らなかったが、「井上」という名称が付くので、ひょっとして…と思っていたら、「井上馨」だと、旅を通じて知ることになる。
井上馨は天保6年(1833)、萩藩士、井上光享の次男として生まれ、(省略)明治新政府では外務大臣や農商務内務、大蔵大臣を務め、実業界でも成功を収め、政財界の元老として重要な地位を占める、明治維新の実現に貢献した人物。
そんな彼の生誕地ということで、生家は敷地面積がこれぐらいの広さだったのだろうかと、公園を眺める。
公園には銅像をはじめ「何遠亭」と呼ばれる建屋、八月十八日の政変で京から都落ちした三条実美らの七卿遺蹟之碑、中原中也の詩碑、種田山頭火の句碑などの史蹟のほかに、遊具や源泉かけ流しの足湯まである。「何遠亭」は、三条実美ら七卿を滞在させるために、井上馨の兄、光遠の邸宅から借り上げ、増築された建物で、今ある建屋は新しく再建されたものだが、当時は志士たちで国事を論じあったにちがいない。
室内に入れるので靴を脱いで中に失礼すると、畳敷きの落ち着いた空間で、茶室にもぴったりの雰囲気。見頃のモミジが彩り、公園の景観を眺めながら、論じ合っていた光景を想像する。
「何遠亭」の隣には、瓢箪池を中心とした小さな庭園があり、大内氏の別邸「築山館」造営時に豊後の大友氏から贈られたと伝わる“石”がある。大正時代に築庭した時、この“石”がこの地に移され、遠く豊後をさみしがり、雨の日には泣く音が聞こえると。
そんな“生きた石”に触れ、種田山頭火の句碑を読む。前回の山口の旅で、山頭火について述べたが、彼は酒と旅と温泉を愛し、ここ湯田温泉にしばらく滞在、もしくは防府からここまで約20kmの道のりを通っていたという話もあるほど、この地がお気に入りであったことを思い出し、散策しながら少し旅愁に浸る。
三条実美が植えたと伝わる松や碑文の説明案内を見、足湯には湯気が常に上がっていて、井上氏の史蹟に触れるのでありました~

温泉舎 - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:29:10

井上公園から北へ県道204号線を越えてホテルなどが立ち並ぶ中に、「温泉舎(ゆのや)」がある。白狐の石像が出迎え、奥へ行くと足湯(?)、その先に鉄塔が建ち、鉄塔の下には透明なパイプで源泉を汲み上げている機械(ポンプや受水槽)が見える。
湯田温泉の6つの源泉のうちの1つで、地下500mから汲み上げられている所で、源泉温度は62℃と高温。受水槽の隣には飲泉できるところがあり、自然石で造られた湯口からは温泉が滴り落ち、とても熱いのが見た目でも分かる。地元の方が水筒にお湯を入れている姿を見、飲んでも身体に良いのだろうかと…今回の旅で泊っているホテルで、毎回、温泉に浸かり、元気に動き回れるのは、この温泉のおかげだと思うと、飲んでも良い効果が得られるのだろうと、石像の白狐に感謝するのでした~

ふぐの唐揚げ定食 - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:30:07

ちょっと遅めの昼食は、ホテル近くの居酒屋で。お昼もランチとして営業していて、山口のお土産も置いてあり、観光客向けの店にちがいない。
メニューを見ると、定番の瓦そば、地内鶏などページをめくると居酒屋メニューが多種ある。フグの刺身もあったが、フグの唐揚げ定食を注文。誰かに聞いたのだが、フグは刺身よりも唐揚げにした方が、旨味が感じられるという話を、頭の隅っこに憶えていて、どんな味なのか…刺身は食べたことがあるが、唐揚げは初なのでオーダーし、実食!
ふっくらとした食感、クセがなく旨味がぎゅっと凝縮されたような(表現がオーバーです…)、「うまい!」の一言。ネット界隈では、フグ初心者はまず、唐揚げを食べてほしいというおススメがあり、その理由も、フグの持つ“身質”に関係しているとのこと。フグの身は繊維が細く、水分を多く含む構造をしていて、油で揚げると表面がすばやく固まり、中の水分と旨味が逃げにくくなると。さらに、骨付きのままだと、骨から旨味が染みだし、味に深みが加わることで、淡白から旨味の塊へと変化するようで…。
細かい骨が難儀だが、手に取ってむしゃぶりつき、レモンで味変し、時間をかけていただく…
いや~、満足×2の昼食で、ご当地グルメにありつくのでありました~

中原中也記念館 - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:31:11

一旦、ホテルに戻り、再び5分もかからない中原中也記念館へ。2日目の、お墓を先にお参りした以上、立ち寄らなければいけないと、街中の道を歩き、いきなりの背の高い大木の松、美術館ばりの、デザイン性の高いエントランス、コンクリート製の建物はどこか、冷ややかでありながら、館内への導線の草木が設えており、設計は、全国で公開競技が行われ、最優秀に選ばれた宮澤浩氏の作品平成6年(1994)に中原中也の生誕地に開館というから、まだ新しい施設である。
そんな施設を眺めながら入館し、受付を済ませ、さっそく展示物を観賞していく。
中原中也は山口県湯田温泉生まれ。開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして期待されて育った。学業成績も良く、神童と呼ばれていて、小学校高学年ころから短歌を始め、雑誌や新聞などに投稿し、文学に熱中しすぎる傍ら、不良少年ともとれる飲酒や喫煙を覚え、いつしか成績はガタ落ち。中学3年で落第。地元中学にいたくない訴えに、転校のため京都の立命館中学に移り…(省略)後は、女優と同棲とか、上京してフランス語を学んでフランスの詩人ランボーに傾倒するとか、同人雑誌を創刊、詩集を出版とか…とにかく、頭が良かったことは確かで、その素行が中学時代から親のプレッシャーが嫌だったのかなぁ~、グレちゃったな~と、人生の系譜を知る。
彼の弟の呉郎によると、中也の性格は父の“荒い血”と母の“静かなる血”を受け継ぎ、繊細で感情豊かでありながら、激しい気質の持ち主であったと。酒に溺れた際には、乱暴な行動が目立ち、太宰治との親交もあったが、大乱闘を起こすなどの逸話も残されており、詩集の作品には、孤独や苦悩が深く反映されていると。
展示には実際にやり取りした手紙や遺品、詩集の紹介をしていて、詩集の説明もわかりやすく解説。2階に行くと映像が流れ、より分かりやすく中也の人生を視聴。
30年という短い人生において、情熱的に生き、燃え尽きるように生涯を突っ走った…生き急ぎすぎたと思わざるを得ない中也は、それ故に、死してさらに評価を得たと、2時間以上経ってしまっただろうか、中原中也に対し、想いを馳せるのでありました~

朝田神社 - モリゾーのひとり言

2026/02/23 (Mon) 10:32:10

最終日は午前中のみを予定に、JR湯田温泉駅からJR矢原駅へ移動。駅から西へ数分の朝田神社に向かう。
朝8:30ごろだと息が白い分、境内の清々しさは身が引き締まるほどに、それを朝陽が和らいでくれているよう。
朝田神社は周防五の宮。今回の旅で三、四の宮と訪れ、あと二の宮の出雲神社以外、訪れたことになる。ちなみに、一の宮は防府市の玉祖神社。
鳥居右手には田畑が広がる平地で、境内側面のモミジが光を浴びて美しい。神門そして拝殿、本殿と、一直線に並ぶ本殿の屋根から太陽が射し、境内を段々と照らす雰囲気の中、お参り。
当神社は6つの村社を合祀して現在地に遷された神社。その6つの神社の内の1つ、住吉神社があった場所で、全ての社殿を移転、整備するのに7年かかったとされている。
境内には鐘楼堂、佐用姫を祀る社、忠魂碑、かつて灯籠として使用していた石などを配し、社地はそこそこに広い。散策していると、駐車場に続々と集まる車、人を目にし、今日は何かあるのだろうか…と、社務所に伺うと、宮司さんにお会いし、事前連絡で留守録にお願いしていたのだが、御朱印を拝受でき、どうやら例祭があるとのことで、名古屋からの訪れに「それはそれは…」と労って下さる。
最後はこの朝田神社で山口の旅の締めくくりとなり、今回も充実した旅となりました~

また2、山口の旅(3) - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 10:59:33

今年こそは、京都の節分祭を…と思っていたのだが、仕事の都合上、行けなくなってしまい残念~。その代わりとまではいかないが、毎年恒例の「京の冬の旅」を堪能し、いずれアップする予定ですが、大雪で大騒ぎした、あの日に偶然行くことになってしまい、新幹線もどうなることやらで、無事、非公開文化財を見てきました~
インバウンドの多い京都は冬の時期以外は行かないことにしているが、日本全国行けない所が増えてきそうでいやだなぁ~と思う今日の頃。
大分、間を置いてしまいましたが、なんせ、“忙しい”を理由に投稿も毎度の事、遅れるのであしからず。山口の旅、3日目~

赤田神社 - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:01:05

3日目。湯田温泉バス停から秋吉行のバスに乗って、四ノ宮バス停へ移動。位置的には昨日訪れた吉敷の北側に当たる。バス停の目の前が赤田神社の“横っ腹”で、鳥居は南側にあるが、参道途中から境内へ失礼し、かなり広い社地の東側には吉敷川が流れ、風情がある。周りにはモミジの木々が配されていて、見頃を迎え、美しい風景を撮影しまくり、誰もいない朝の清々しい気分に背筋が伸びる。
拝殿でお参り。
赤田神社は元々、「良城大神宮」と呼ばれていて、成務天皇9年(139;この頃はまだ年号がない)に出雲大社から勧請された古社。元の場所は「古国之宮」として今も吉敷に祀られていて、昨日訪れた中原中也のお墓がある吉敷川西側に鎮座してある。養老元年(717)に現在の場所に移築され、地名から「赤田大神宮」と名称を改めた。
かつて山口を治めていた大内義興氏が崇敬していた五社があり、そのうちの四ノ宮がここで、山口市内にはあちこちに祀られていて、今回の旅で二ノ宮以外を訪ねる予定。
そんな由緒ある拝殿の天井を見上げると、龍の絵図が描かれていて、火防の神様として護っていて、右手には恵比須神社があり、こちらもお参り。その恵比須神社の右手には吉敷川が流れ、見頃のモミジが川沿いに映え、鴨や鷺が川の中でついばんでいる自然の風景の中を撮影しまくり、限をつけ社務所へ。
事前に宮司さんに連絡を入れていたが、書置きの御朱印が社務所に置いてあり、それを拝受。
参道中央にも見頃のモミジを愛でながらバスの時間までモミジ狩り散策するのでした~

菜香亭 - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:02:01

県庁前バス停まで戻り、野田学園前バス停で下車。東へ歩くと、初日に訪れた野田・豊栄神社鳥居の手前に「菜香亭」という施設がある。庭園のモミジがきれいという情報だけで来たのだが、どういう施設なのかわかっていない。
広い駐車場には、まだ朝早いということもあって、数台しか止まっておらず、案内矢印どおり建物の中へ移動。拝観受付をお願いすると、案内の方が一通り説明して下さり、当施設が“山口の迎賓館”であることを知る。
平成16年に開館したということで、まだ新しいのだが、建物事体は明治10年頃から120年余りかけて、親しまれた料亭「菜香亭」を移築復元したものらしい。料亭は八坂神社境内に創業し、山県有朋、井上馨、伊藤博文、田中義一、佐藤栄作などなど、名だたる著名人が訪れ、会合や文化活動などいろいろな場を提供してきたとのこと。
「へぇ~」とそんな施設だとはつゆ知らず感心し、案内の方が「午前中10:00ごろから2階へ団体客が予約を入れているので、それまで2階は見学できますよ」と促され、まずは2階から拝観。
2階は北、中、南客間の3つの部屋に分かれ、特に北客間には佐藤栄作が座ったと云われるソファがある。このソファの座面がふんわりしているのに対し、客用のソファは硬く、差別化している。そして、ここから望む回遊式庭園には、モミジが見頃を迎えていて、窓越しに美しい風景が醸し出されている。佐藤栄作首相もここから眺め、ゆったりとした空間で寛いでいたのだろうと、失礼ながら柔らかいソファに座って首相気分?を味わう。
1階に降りると、大広間展示室にはいくつかの扁額が鴨居に掲げられていて、百畳の大広間には総理大臣9人を含む29枚の書がずらりと飾ってある。最近だと、安倍晋三氏の揮毫もあり、ほとんどが四文字熟語とか漢詩っぽい文字が説明書付きで並んでいる。
佐藤栄作氏がノーベル平和賞を受賞した祝賀会がここで行われたというから、百畳もある大広間に人が埋まる光景を想像し、外を見れば庭園が広がり、主に政治の談合?がおこなわれていた料亭…といった勝手なイメージが膨らむ。
庭を眺め、歴史の一旦を担った“料亭”に想いを馳せ、落ち着いた雰囲気に、しばらく癒しを求めるのでありました~

龍福寺(1) - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:02:53

菜香亭から南西方向へ移動。大内居館跡にある龍福寺を目指す。町中の小路を西へ進むと、山門までの参道がモミジですごいことに。菜香亭の案内の方が、龍福寺の今年のモミジはあまり色取りが良くないという話を聞いていたが、とんでもない!彩りは見事で、好みは人それぞれ。私は緑色が多少入っているぐらいがちょうど良い塩梅で、紅葉ってる。
山門までいつ、たどり着けるのだろうかというぐらいに、撮影に夢中になってしまい、アングルを変えながら、時にはスマホ、一眼レフと替えながらモミジ狩りを堪能する。
ようやくたどり着いた山門付近も素晴らしい。境内にある黄色く色づいたイチョウの木を背景に、手前のモミジが名優の配置取りのようにカッコよく決めていて、絵になる。
龍福寺は、元は瑞雲寺という名称で、大内満盛が建永元年(1206)、白石の地(東へ30km離れた場所)に創建された。その後は、大内氏の菩提寺として、毛利氏が山口を支配し治めると、毛利義隆の菩提寺として、大内居館跡地に再興。大内居館跡のこの敷地は、膨大な広さの土地を有し、北は八坂神社、南は大殿大路周辺までを指す。
大内氏は百済の王族、琳聖太子(りんしょうたいし)の末裔という伝承があり、平安時代後期に現在の山口市大内に拠点を移したとされる。その後の14世紀後半に大内弘世が統治の本拠地を「山口」として館の整備が行われ、山口市の発掘調査によると、屋敷地が段々拡張して、少なくとも4つの庭園が存在するほどの規模だったことが分かっている。

龍福寺(2) - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:03:42

そんな龍福寺山門を潜り境内へ失礼すると、今までの参道の“赤い色彩”から今度は“黄色い色彩”へと変わり、1本のイチョウの木からの落葉が境内を埋め尽くしている。低木のサツキやツツジの丸く刈り込まれた緑の中に、黄色いイチョウの落葉が花のように重なって、境内全体を秋らしく彩り、イイ雰囲気。
境内には観音堂や宝現霊社、十三重石塔などが祀られていて、まずは本堂前でお参り。本堂はかつての大内氏の氏寺、興隆寺時代の釈迦堂で、明治時代に移築され、現在は室町時代の様相を復元した建物となっている。本堂脇には資料館があり、入口手前には馬に乗った大内義興公の銅像に出迎えられ、志納して入室。
大内氏の歴代の年表から始まり、掛け軸や居館跡の古地図などの宝物を見学。パンフレットを頼りに、境内に南東にある池泉庭園をぐるりと一周し、北側にある土塁跡、北西側にある小さな枯山水庭園、西側の西門や石組水路を見、広大な敷地を誇っていたことを肌で実感。
ちなみに南東の池泉庭園は「公的」、北西の枯山水庭園は「私的」空間であったとする説があり、公私隔てて使い分けていたことも窺い知る。
納経所で御朱印を拝受し、再び境内参道を散策し、紅葉の季節に訪れることができて良かった~と、大変満足×2。

洞春寺 - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:04:36

龍福寺から東側の通りにあるコミュニティバスのバス停から、洞春寺前バス停へ移動。次に向かう洞春寺は、初回に訪れた香山公園手前のお寺で、バス停から少し坂道を上がると、潜れない山門があり、門の左手から駐車場へと繋がる道を歩き、到着。
洞春寺は中国33観音霊場の16番札所なので訪れた次第だが、歴史の変遷を見ると、少々複雑なお寺のよう。元々は、大内盛見公の菩提寺、国清寺であったが、支配下が毛利氏に移ると、毛利元就の嫡男、隆元の菩提寺、常栄寺となり、明治維新のころ、政府を山口に移すにあたり、萩にあった元就の菩提寺、洞春寺を現在地に移転し、常栄寺は東の外れの宮野下に(いずれ訪れる)移すことになり、建物はそのままに転用されてきたとのこと。
…で、元就の菩提寺、洞春寺は元々、安芸国にあって、関ケ原の戦いで毛利家は敗北、故郷の安芸国(広島)を没収され、徳川幕府によって防長2カ国に移封。減封されたうえ、政治の役割を担わせることは許されず、萩を本拠地としてスタート。そんな背景から洞春寺は安芸国→長州・萩→山口と移ってきた歴史を持つ。
中門から境内へと失礼し、正面の本堂、左手に観音堂があり、どちらもお参り。西側の墓地には大内盛見公のお墓と、国清寺時代からあったとされる「大蔵経」というお経を納める経堂跡(礎石跡)があるのだが、私は行ってはおらず、後からネット調べで知って、今にして思えば惜しいことをしたと後悔。この経堂は、滋賀県大津市の三井寺に移されていて、もちろん私はそれを見たことがあるが、「国清寺」と聞いて、どこかで聞いたことがあるお寺の名称だと…それがここの寺の所縁であるとはそれまで気づかず、そんでもって、井上馨のお墓(分骨)もあったとは…心中で手を合わせる。
庫裏へ移動し、御朱印を拝受しに伺うと、「御用の方は鐘を鳴らして下さい」とあるので、小さな鐘をカーンと鳴らしたが誰も出てこない。
「?」
もう一度鳴らすと、外国の方が出てきて、日本語が通じず、身振り手振りでご住職について伺うと、「アイドントノー」と所在が分からない様子。どうしたものか…
とりあえず、本堂裏手の庭は見れるか、カタコトの英語で伝えると「OKOK」と案内して下さり、そこでは数人の外国の方々が壁画にせっせとアートを施していて、何となく、お寺の経営方針が垣間見えた気がしたが、裏庭には色づいたモミジ、本物の生きた羊や馬(飼っているのだろう)、アート仏像などを見、時間を持て余す。
全て見終えて、さてどうしたものか…本堂内で待たせてもらうことにし、一応電話をしてみると、庫裏の方でベルが鳴っているのが分かるが、どこかへ転送されたようで、住職さんのスマホに繋がり、「あと10分ほどで戻ります」ということで、どこかへ出かけていた様子。
…で、住職さんと挨拶を交わし、御朱印を拝受。歴史あるお寺とアート作品のギャップにちょっと躊躇してしまうが、外国の方が修行に来ているお寺は岡山にもあった(曹源禅寺)ことを思い出し、「サンキュー!」と別れるのでありました~

瑠璃光寺 - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:05:31

香山公園へと繋がる散策路を上がり、初日に訪れた公園を横切る。相変わらずの美しい五重塔の景色に、多くの観光客が写真を撮っていて、その一角に瑠璃光寺の山門があり、自然と誘われるように観光客が入り、私も同じように境内へ。
ここ瑠璃光寺は、室町時代、大内義弘公の菩提寺、香積寺があり、弟の盛見公が五重塔を建立したことは前にも説明したが、江戸時代、山口を治めた毛利輝元が萩入城に伴い、香積寺は解体され萩へ移り、五重塔はそれを免れた。管理者不在の塔は老朽化が進み、長州藩2代目の綱広公により大修理を行い、それ以降、大内氏一門の陶弘房の菩提寺として周防の国に大伽藍を有していた中国三山の瑠璃光寺に託され現在に至っている。
本尊は薬師瑠璃光如来。境内にはあちこちに一畑薬師や長寿薬師如来、身代わり地蔵尊、水かけ地蔵尊、金比羅大権現等々が安置されていて、お参りしがいがあり、所狭し?と御利益をいただける伽藍となっているので、一種のアトラクションのような誰でも気軽にお参りができる様相となっている。
金比羅堂へは少し石段を上がった先にあり、大権現にお参り後、高台からの景色は風情があり、しばらく佇む。
資料館には寺宝や五重塔の模型などが展示されているそうだが、今回はパスして納経所へ。
御朱印が数種類あり、つい最近まで五重塔が檜皮葺張替えの“令和の大修理”を行っていた寄付金を募っていて、そのための御朱印や檜皮入りお守りなどがあり、全部ではないが拝受する。
御朱印帳が埋まってきたので、販売してないか聞いてみると、売店で売っているとのことで行ってみるが、サイズの小さいものばかりで、大きい(標準サイズ?)のがないので、諦める。
最後は五重塔を拝み、この景色を忘れないように堪能するのでありました~

瓦そば - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:06:25

バスの時間まで1時間ほど待たなければならないので、ちょうどお土産屋の中にお食事できる店があるので昼食タイム。店のイチオシ、「瓦そば」を迷わず選択し注文。
この旅前の下調べで、山口って何があるのか…名産やご当地グルメは…と、やはり1位は「ふぐ」で2番目に「瓦そば」が出てくる。テレビの“ケンミンショー”などで知ってはいたが、一度も食べたことがないので、人生初実食。
瓦そばは、明治10年に起こった西南の役において、薩摩軍が野戦の合間に、身近にあった瓦に火をかけて野菜や肉などを焼いて食べていたのをヒントに、下関で発祥したらしい。
運ばれてきた瓦そばは、黒い瓦の上に茶そば、錦糸卵、ネギ、牛肉、麺が盛り上がった頂上には輪切りのレモン、明太子が乗っていて、色取りも見た目もおもしろい。温かいつゆも一緒に付いてきて、つゆに浸けてたべるのか…と、ある意味、焼きそばをつゆに浸けて食べる…東北地方にも似たような料理があったような…なるほど…こういうのもアリなのか…と、熱々のそばをつゆにダイブして、たまに薬味で味変し、堪能~
山口のご当地グルメを食し、満足×2。

古熊神社 - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:07:32

香山公園五重塔バス停からJR山口駅行きのバスに乗って、途中の米屋町バス停で下車。次に向かう場所は、公共交通機関の手段が使えないため、事前にアプリ登録で山口市内のレンタサイクルが利用できる方法を活用し、さっそく自転車ポータル場所から借り、南東方向へ自転車を走らせる。
山口市内の商店街、JR山口線の線路を越え、椹野川に架かる橋を渡り、東側を真っすぐ進むと、緩やかな坂道に鳥居が建っていて、小さな駐車場に自転車を停め、境内に失礼する。
古熊神社は「ふるくま」と読み、御祭神は菅原道真公。由緒には道真公が大宰府左遷の際、御子である菅原福部童子が父を慕ってその後を追うが、山口にて不幸にも病のため11歳で亡くなり、当時の人々の手によって、山口の北野小路(現在地から西へ1km離れた場所)に拝堂を設け、応安6年(1373)大内弘世が京の北野天満宮より御神霊を勧請し、福部童子も配祀神として「山口北野天神」または「今天満宮」と称され、現在地に崇められたとある。「古熊」は明治時代に入ってから改称された名称で、当地の地名に基づき、“山口の天神さま”として親しまれている。
こちらの社宝には「御簾天神彫画一軸」という掛け軸があって、福部童子が旅の道中、周防国山口にて夏の疫病にかかり、身動きが取れなくなってしまった時、従者が急いで大宰府にいる道真公の元へ知らせに行くと、道真公自身で描いた掛け軸を従者に渡し、再び山口の地へ戻り、童子が眠っている部屋の壁に掛けると、それは道真公のお姿が浮かび上がるような細工が施してあり、童子は大層お悦びになったと。が、時すでに遅し…疫病は童子の身体を蝕み、その短い生涯を終えられた…というエピソードがある。絵が浮かび上がる手法が平安時代から考えられていたこともすごいが、その道真公自身で描いた“自分”はどのようなものだったのかを一度見てみたい。
拝殿周りには摂社末社が祀られていて、牛や馬の石像、角が生えた鼻の大きい特徴的な狛犬もいて、ごあいさつ。拝殿は元々、楼門として造られたものに床を張り、室町時代特有の“二重入母屋楼門造”となっていて、本殿の蟇股が向かって左に「竹に鳳凰」右に「松に鳳凰」中央に「梅に大内菱の家紋が施され、凝った造りとなっている。
拝殿でお参り。本殿左手には放生池があり、その周りに生えるモミジが見頃を迎え、撮影タイム。美しい紅葉の彩りに、今回の旅は偶然にも訪れる神社にモミジの見頃に出会え、嬉しい限り。
社務所では初日に訪れた野田・豊栄神社(“とかさ”と読む)の御朱印も拝受し、菅公・福部童子にお礼申し上げるのでありました~

山口ザビエル記念聖堂 - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:08:28

米屋町のサイクルポートに自転車を戻し、北にある亀山公園を目指す。公官庁のビルが建つ一角に、一際高台に目立つ教会?のような2つの塔の建物が見え、坂道を上がる。
訪れる予定はなかったが、頭の隅っこに「モミジ=ザビエル聖堂」という情報を憶えていて、「ザビエルって、あのザビエル?」というのもあって、訪れた次第。
広い駐車場はかつて、高嶺城跡があった亀山公園と隣接してある山口ザビエル記念聖堂のためのもので、今は、平日の午後3時ということもあって車はまばら。そして、美術館と思わせるような聖堂は直角三角形の屋根に双頭の時計台、十字架をあしらったデザインに、2階のテラス?からザビエル像がこちらを見ている。
1階のエントランスには瓢箪型の人工池が光の反射で天井に形を現し、教会というよりかは美術館といった印象を受ける。
受付では拝観料200円と安く、館内では騒がず静かにすることが義務づけられていて、さっそく静かに入館。1階は広いフロアでフランシスコ・ザビエルの生い立ちからはじまり、カトリックの教え、遺品、像や版画、祭具、手紙などなどを展示。
ザビエルはスペインで生まれ、パリのソルボンヌ大学(当時から大学があったことに驚)に入学。ベネチアで司祭叙階し、1540年ローマを去って1年後、インドへ。1549年に日本の鹿児島に到着し、1年後、長崎の平戸と山口に滞在。1551年1月に京都、4月に山口滞在、11月には日本を去り、1552年12月に中国の上川島(サンチャン)に帰天した。日本で初めてキリスト教を伝えたザビエルは、山口にとって最初に教会を創設した地であり、今でこそ当たり前の行事であるクリスマスも、山口で初めて祝われたという。
「へぇ~」と、ここ山口が拠点であったことを知り、さらに日本に与えたキリスト教の影響は、歴史でもお馴染みの、キリシタン弾圧に伴う、踏み絵やマリア観音、墓石など、過去の寺社で訪れた時に見た歴史的遺産を思い返いながら、歴史を感じる。
2階へ移動すると、いわゆる祭壇や祈りを捧げる広い空間となっていて、デザイン性のあるステンドグラスに、背後にはパイプオルガンのパイプが見え、常に聖歌?が流れている。
休憩がてら、しばらく椅子に座って聖歌を聴き、仏教もキリスト教も手を合わせて祈ることは共通していて、この世の不幸がなくなるための祈りは、ホントに届いているのだろうかと、「神さま~」と、吉本新喜劇の桑原さんをなぜか思い起こす。
2階から出口となっている外に出ると、あのザビエル石像の背景には、亀山公園の見頃のモミジが見え、駐車場へ下る坂道の先にはマリア像、駐車場真向かいの一角には布教活動をするザビエル銅像や鐘があり、遠く離れた日本までよ~く来なさったと、ザビエル銅像に別れを告げるのでありました~

亀山公園 - モリゾーのひとり言

2026/02/15 (Sun) 11:09:38

山口ザビエル記念聖堂から亀山公園へと石段を上がり、あちこちに生えているモミジを撮影しながら散策。山の縁を巻貝のように上へと続く道を歩くと、山口市内の東西南北の景色が眺められ、イチョウやカエデなどの秋らしい風景が街中に映え、良い気分。
亀山公園はかつて、大内氏28代当主の大内盛見公の別荘があった「長山」という所。大内氏滅亡とともに、別荘の主もいつしか消え、毛利氏がこの地を治めると、輝元の従弟にあたる秀元が城を築こうとしたが、関ケ原の戦いで敗戦し、城は建てられることなく領地も没収、そのままとなるが、明治に入り、元長州藩の功績を称えようと、毛利敬親公の銅像ほか、毛利のお殿様の5体の銅像を建てられることになった。が、昭和の戦争で銅は軍に供出され、現在では敬親公像のみとなった。ちなみに、敬親公像は昭和55年(1980)に再建されたもの。
そんな山頂広場に到着すると、馬に乗った敬親公が山口市内を見守り、小学校の遠足の休憩場所のような芝生広場が広がる。もちろん、モミジも色を添え、夕暮れ時、屋根のあるベンチで休憩していると、西の空が何だか怪しくなってくる。雲の流れが速くなり、雨が勢いを増して横殴りに降り出してくる。「なんなん?」と思いながら、しばらくして、徐々に雲から射す夕陽が眩しく、通り雨だった天候に、「これは神の啓示か…」と、敬親公像を何とはなしに眺めるのでありました~

つづく…

また2、山口の旅(2) - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:11:25

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
毎年、初詣は名古屋市内の神社をお参りするのですが、熱田神宮とか大須観音とか参拝者が多い所は避けて、地味~に訪れたことのない所を選んでお参りしています。今年は午年。馬にちなんだ神社って名古屋市内には無さそうなので、午の方角は南…ということで、ここでは紹介しませんが、地元の宮司さんや禰宜さんら氏子さんらのおもてなしがありがたく、日本人に生まれて良かった~と思う今日この頃。
さて、山口の旅2日目もかなり密度の濃い旅で、紅葉狩りを堪能~

維新百年記念公園 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:12:38

2日目。湯田温泉バス停から県庁前バス停で乗り換え、終点の児童センター前バス停へ移動。ここは、西へ2km離れた維新百年記念公園。維新公園は昭和38年に行われた山口国体のため、陸上競技場が建設され、その10年後に公園として整備し開園。スポーツ文化の拠点として、ラグビー、サッカー、テニス、武道などの施設が生まれ、山口では有名な運動公園として市民の憩いの場となっている。
この公園にはメタセコイヤの並木が秋になると、綺麗に色づく写真をネットの情報で知り、訪れた次第だが、さっそく公園内を歩くと、背の高いメタセコイヤの木々が目立つように道路わきに、あちこちにあり、自然と足がそちらの方に向いてしまう。
各競技場の広さといい、ジョギングコースでは朝から地元の人たちが走っていて、改めてスポーツに特化した施設、公園であると認識。
メタセコイヤ並木の道を散策し、オレンジに色づく紅葉を愛で、小川沿いにはちょっとしたモミジの木々も秋らしく赤く染まっていて、しばらく撮影タイム。清々しい気分で次へ。

出雲大社山口分院 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:13:50

維新百年記念公園の北側は国道9号線の山口パイパスで交通量が多い。その道路下を潜る地下道があり、北へと進み数分、出雲大社山口分院に到着。
鳥居から先の参道、モミジやイチョウの木々が秋らしく彩りを見せ、境内を華やかにしている。正面の拝殿には、出雲大社ではおなじみの注連縄が飾られていて、立派である。
出雲大社山口分院は明治15年(1882)に出雲大社大宮司の千家尊福に心服した末田真穂が出雲大社の御分霊を奉斎し建立したのが始まり。山口藩士だった末田氏が赤間宮の禰宜に奉職中に、大宮司の巡教に随行したのが契機となったそうで、このような分院は中国地方に散らばって祀られている。
御祭神は大国主神をはじめ、高皇産大神ほか、5柱相殿として祀られていて、特に縁結びに御利益があるとのこと。
拝所で2礼4拍でお参り後、本殿側へ回ると、あの”柱”で支えていて、ここも”出雲らしい”風貌でそこにある。出雲を訪れた時の、神魂(かもす)神社を思い出し、ここ山口の地にも出雲信仰が根付いている事を実感し、社務所へ。
無人である社務所に電話をしてみるが繋がらず、とりあえず、次の目的地、玄清寺を目指すべく、帰りに後でまた連絡してみようと、先を急ぐ。
(ちなみに、その後、連絡が取れ、御朱印を拝受。ありがとうございました~)

玄清寺 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:14:42

再び小さな川沿いを北へ歩き、集落へと入る。この地域は天神山と呼称する丘陵地で、古墳が7基存在していて、竪穴式石室や箱式石棺などが発掘されている。
そんな集落の中に建つ玄清寺。吉敷毛利家の墓所があり、初代、秀包(ひでかね:毛利元就
第11子)が創建したお寺で、3代目の元包(もとかね)が吉敷に領地替えになり、現在の地に移ってきたらしい。
結界門からの参道、山門近くには真っ赤に彩られたモミジが秋の装いを醸し出し、安置されている願掛け地蔵たちも赤い滴れを着て、何だか嬉しそう。
山門を潜り、境内に失礼すると、”苔にモミジ”と美しい。正面に本堂、左手に鐘楼、毘沙門堂が建ち、本堂に安置されている釈迦如来さまにお参り。
毘沙門堂には大内義興公の位牌と念持仏が安置されていて、かつて室町時代にあった凌雲寺に伝わった仏像を移したもので、2躰の毘沙門天のほかにも吉祥天像など、室町以前の仏像を安置していたと伝わり、大内氏は毘沙門天を崇拝していたことが分かり、ここでもしっかりとお参り。
毘沙門堂から誘われるように吉敷毛利家の墓所へと行くと、丘に沿って下方から14代13代…初代へと上方へ五輪塔や墓石が続いていて、かなり広い。モミジの見頃具合も相まって、歴代の吉敷毛利家の親族に頭を下げ敬い、御朱印は本堂内で書置きのを拝受したので、そのお礼にと感謝申し上げるのでありました~

龍蔵寺(1) - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:15:46

さらに西へ続く一本道を歩いていく。ここまで30分ほどかかっているが、昨今の熊出没ニュースを見、山口でも生息しているのだろうかと、警戒感強めで歩く。
私を追い越す車が数台、やはり次に向かう龍蔵寺のイチョウの木が目当てなのだろう、この秋の時期に訪れる参拝客がこの地域では多いのかもしれないと、徐々に山寺の雰囲気が漂う景観になってきて、駐車場周りにはモミジの木々が赤く染まり、そこそこの車が駐車している。
七福神の石仏が見守る中、入口には寺院保持のための志納金投入箱があり、200円チャリンと志納して境内へ。木々生い茂る中の長い石段、その途中にある楼門にはいろんなお守りグッズや絵馬などがあり、一呼吸おいて、再び石段を上がると、イチョウの落葉が散乱する光景、たどり着いた本堂周りの“黄色いじゅうたん”が広がり美しい。
大イチョウは国の天然記念物に指定されている樹齢約千年の老木。上の方にしか葉が生えてなく、地面を埋め尽くすイチョウの落葉は風情があり、その老木の根元には洞穴観音の石像が祀られていて守っている姿に合掌。
本堂でさっそくお参り。本尊の阿弥陀如来像は当寺で最も古い仏像であると云われていて、大内弘世公が山口に拠点を移したころ、東西南北に寺院を建て、それぞれに守り本尊を安置したことから、西の位置に西方浄土の阿弥陀如来をお祀りした由縁があり、遡ること、文武天皇の時代に、役小角が熊野権現を勧請したことに始まる。聖武天皇の時代には行基菩薩が建立、山口で一番古いお寺であるらしい。

龍蔵寺(2) - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:16:39

境内を散策すると、まずは「八百屋お七の供養塔」がある。江戸の大火で火刑となったお七の兄が全国行脚で、弔うために建てた宝篋印塔。八百屋お七の話はどこかのお寺で聞いていたが、ここ山口の地で出会うとは…亡くなられた人々への懺悔を、兄が代わりに行っていた想い…もう十分罪は償われたと、黒く苔むした宝篋印塔が物語っている。
本堂右手奥へ進むと、青不動明王の巨象がにらみを効かしている。10mもの背丈のある不動明王の脇侍には馬頭観音と阿弥陀如来が安置されていて、ペット供養、永代供養として扱われている。奥之院へと繋がる山道には「鼓の瀧」があり、見上げると橋が架かり、モミジが見頃を迎えていて、いい雰囲気。流れ落ちる滝壺で滝行でもするのだろう、今は水量が少ないが、修験者が修行する場所もあり、傍らには六地蔵がモミジの落葉の中、寒そうに静かに佇んでいる。
今回は奥之院へは行かないが、山道を登ると摩崖仏もあるそうで、滝の下から手を合わせるだけにして、護摩堂へ移動。不動明王を中心に、フィギュアのような仏像がずらりと壁一面に並び、“彼ら”に見守られながらお参り。
納経所で中国33観音霊場の御朱印を拝受し、山口県最初の33観音霊場…これから山口の旅はまだまだ続く。

中原中也のお墓 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:17:39

再び出雲大社山口分院へ歩いて戻り、御朱印を拝受してから東へ。吉敷川に架かる橋を渡ってすぐの墓地に立ち寄る。
「中原中也のお墓」の矢印看板どおり進むと、墓地の中央に立派な墓石が建ち、中也個人ではなく、中原家のお墓のよう。「累代の墓」の後ろには養祖父母のお墓もあり、どちらも中也の“字”で書かれたものらしい。
ネットによると、養祖父母の政熊さんコマさんはカトリック信者で、中也の字の上には十字架が彫られていて、墓石の側面には「天正十年五月十一日 ペドロ 六十八才」とある。“ペドロ”とはカトリック名のことで、中也のお墓というよりかは代々のお墓という印象が強い。
中原中也のことに関しては後ほど説明する(省くかも…)が、晩年、鎌倉市の寿福寺裏にあった家で過ごされ、享年30歳の若さで亡くなられた天才詩人の波乱万丈?な人生に想いを馳せ、手を合わせる。

土師八幡宮 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:19:05

近くの吉敷郵便局前バス停からコミュニティバスに乗って西光寺バス停で下車。西へ歩いて数分の土師八幡宮へ。前日訪れた熊野神社でいただいた御朱印は全部で8つ。そのうちの4つがここ吉敷周辺に点在していて、よくもこんなに兼務しているもんだと、宮司さんの苦労が垣間見えつつ、拝受したからにはしっかりとお参りしようと、訪れた次第。
「土師(はじ)」というと、陶器にちなんだ神社なのかなぁ~とイメージし、さっそく鳥居を潜り石段を上がる。
土師八幡宮は由緒によると、元々「土師宮」と称していて、天穂日命、乃野宿祢、菅原道真の3柱の御祭神であったのが、この地の領主になった福原広俊という人物が安芸国高田郡福原村にあった内部八幡宮を移して合祀し、他応神天皇、宗像三女神などを含め、土師八幡宮と改めたとのこと。この付近ではごく最近まで陶業が行われていて、山麓には良質な陶土があったことからも、昔から土師を生業に営まれていたのだろう。
そんな“土師”のイメージから、鬱蒼と茂る木々の中の石段参道は、土器などを焼く長い窯であったのだろうかと歩きながら思い、境内にたどり着いた拝殿でお参り。
社殿の左側には大宮神社、右側には宇賀神社が祀られていて、地元に根差した“シンプル神社~”って感じで、古より続く神さまたちにお会いできて感謝×2。
帰りにふと見た狛犬が“車だん吉”似(知ってるかな~)、紙でできた白い蛇、を何とはなしに眺め、「お笑いまんが道場か!」とツッコミを入れてみるのでありました~

赤妻神社 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:20:04

土師八幡宮から東へ住宅街を抜け、ちょっとした坂道、近道っぽい細道を経由し、赤妻神社に15分ほど歩いて到着。ここも熊野神社兼務の社で、近くの小さい公園には黄色いイチョウが出迎え、規模の小さい境内にはモミジが2本見頃を迎えていて、住宅内の一角にあるような、旅人なら通り過ぎてしまうぐらいの神社とはいえない土地に祠がある様相。
赤妻神社の御祭神は錦小路頼徳という人物。創建当初は「安賀郡麻神社」という名称で、一体「誰?」となる。説明看板によると、錦小路頼徳は堂上公家(出家)の唐橋在照の子で、錦小路頼易の養子(…というても誰?となる)。三条実美らの同志公家らを攘夷親征の大和行幸を計画したが、八月十八日の政変で失脚。いわゆる“七卿落ち”といわれる処罰で長州に下ることに。その“七卿”のうちの一人が錦小路頼徳卿であると。
長州に滞在中に、下関視察の際に発病して没し、享年30歳だったという。遺骸は湯田にある龍泉寺に運ばれ、葬儀の後、ここ赤妻の地に葬られた2か月後に神霊を勧請した神社となっている。
境内には没後、王政復古時の官位(正四位)を賜られ、その記念碑がお墓の後ろに建てられている。三条実美らの発起人の名前がずらりと彫られいて、記念碑は地震があれば倒れそうなくらい傾いていて、注意書きがしてあるのも何となく時代を感じる。
それからもう一つ、明治維新に尽力した長州藩士、広沢真臣のお墓もある。明治新政府では民部大輔や参議など歴任して活躍した人物だが、明治3年(1870)に東京麹町の私邸で暗殺され、この事件が警察史上第1号の迷宮事件とされている。犯人は未だ誰なのか分かっていないが、政敵の木戸孝允や反政府の人物などの説が挙げられているが、真相は謎のまま。
広沢氏は萩生まれで、長州藩内では外交官的な存在で、確か…何かの戦争で勝海舟と宮島で休戦交渉を行った人物という記憶しかないが、藩庁が萩から山口に移った際に、現在の山水園(熊野神社右手に位置)に居宅を構えていたそうなので、この地にねむっていらっしゃるのだろう。(ちなみに、こちらにあるお墓は分霊で、東京世田谷の松陰神社に改葬されている)
こんな小さな土地…いや失礼…境内に歴史を動かした人物がいるとはつゆ知らず、しっかりと手を合わせ次へ。

朝倉八幡宮・湯田温泉神社 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:21:25

赤妻神社から坂道を下りて東へ移動。住宅街を進むと、一際大きな敷地の病院が建っている。その敷地内をショートカットして北へ抜け、民家の細い路地を歩き20分ほどで朝倉八幡宮に到着。
ここも熊野神社兼務の神社。隣の大林寺の敷地にある大イチョウが黄色く色づき、その大木を眺めながら鳥居を潜ると、丘の上にあるので何だか清々しい。境内には本殿の他に、湯田温泉神社、四柱神社、稲荷神社があり、山口市指定の天然記念物、「イヌマキ」と呼ばれるマキ科の針葉高木が1本、御神木のように生えている。
拝殿でお参り。朝倉八幡宮は貞観元年(859)、宇佐八幡宮から朝谷村に勧請されたのが始まりで、大内正弘の時代に、今八幡宮に合祀されたが、後にまた元の場所に戻され、大内氏滅亡とともに廃れてしまったのを、江戸時代の享保年間に現在の地に遷して再興したとのこと。先ほどの“七卿落ち”で山口に下向していた三条実美らがこの地に滞在の折、度々、当神社を訪れ、尊王攘夷を祈願したというから、御祭神の応神天皇、神功皇后への神頼みをしていた光景が目に浮かぶ。七卿のうちの四卿が和歌を奉納していて、境内には句碑が建ち、歴史の趣を味わう。
拝殿の左手には四柱神社、右手には湯田温泉神社、稲荷神社が建ち、どちらも立派な社殿。山口滞在期間中、ホテルでの温泉に浸る「あぁ~」という感嘆の声は、改めて、感謝の気持ちが込められているんだと、湯田“恩”泉の白狐に手を合わせるのでありました~

平清水八幡宮 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:22:30

済生会病院前バス停から下湯田バス停で乗り換え、山口大学行のバスに乗り移動。終点は山口大学のキャンパス内にバス停があり、校内から次の目的地、平清水八幡宮へ。
久しぶりのキャンパス内を歩き、校舎やグランド、学生らを見、私の年齢だと、さぞかし、教授レベルのいで立ち?に見られるのだろうか…と妄想し、南へ移動。
キャンパスを出て、信号を待っていると、周辺に建つアパートや小ぶりなマンションはすべて学生たちで埋め尽くされている物件なのだろう、親元を離れ、一人暮らしの生活を始めた頃のことを思い出しながら、大きな灯籠から少し歩いた所にある鳥居に到着。
鳥居からは真っすぐに延びる参道は、南へと続き、鬱蒼と茂る木々の中へと景色が変わり境内へ。社殿は南を背に建っていて、傍らのモミジの木が赤く染まり、そんな中で拝殿でお参り。
平清水八幡宮は大同4年(809)、宇佐八幡宮から勧請されたと伝わる。社名の由来は、境内に“平清水”という名水があり、常に水面が水平で、干ばつにも水量の増減がない不思議な水なんだとか。
…で、その名水はどこに?と探すが、どこにあるのかわからず、諦めてとりあえずお参り。
こちらの神社には社宝として、南北朝時代作の木造の狛犬と随身倚像などがあり、本殿に納められていると案内看板に載っている。土足厳禁の拝殿からちょっとだけ覗くが暗くてよくわからない。が、それよりも、拝殿の鴨居や天井に飾られている奉納絵馬に魅せられてそちらを眺め、源平合戦だろうか、やはり“平”という字に関連してなのか、戦国武将が砂浜と船の上からのにらみ合いの絵馬もある。
八幡宮だけあって、武神の神様らしい絵馬を拝見し、こちらも熊野神社兼務社なので、御朱印は拝受してあり、八幡宮さまに感謝し、次へ。

山口大神宮 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:23:56

山口大学から県庁前バス停へ移動し、山口県庁西側に建つ山口大神宮へ。“神宮”ということは、伊勢神宮関連か?と由緒を見ると、「高嶺太神社」が前身で、永正17年(1520)に大内義興が朝廷公認のもと、伊勢神宮を勧請したことに始まる。
将軍職を追われた足利義稙が周防国に逃れて、大内義興を頼りに、それを義興公が快く迎え入れ、義稙を奉じて上洛。復職させたことや長期に渡って都に留まり、将軍を助けたことなどから、京での体験の中で、地元に伊勢神宮を勧請したい考えが芽生えたと云われている。
“神宮”なので、内宮外宮はもちろん、あの式年遷宮の儀式もあり、明治時代に至るまで唯一ここだけ、分霊を賜れた“神宮”といえるほど。
なので、中国・九州地方の方では“西のお伊勢さん”と親しまれていたそうで、多くの方が参詣に足を運んだという。
さっそく鳥居から失礼し、長い石段を上がり、社務所近くには馬舎が見える。馬といっても木彫りの馬で、2頭参拝者をじっと見守っていて、今八幡宮にも同じ馬舎があったが、同じ方が制作したのだろうかと、神馬にご挨拶。石段の途中には高嶺稲荷神社、“鷺岩”があり、大きな石の上に灯篭が乗っている。前日に訪れた八坂神社での神事「鷺舞」が終わった後に、サギの頭や羽をこの岩の上に置いたので、そういう名称になったらしい。
そんな岩を眺めながら境内にたどり着くと、神楽殿、多賀神社が建ち、さらに右手に折れる参道…モミジが彩を見せ秋らしい雰囲気に、その中に七五三詣での家族連れが2、3組、カメラマンを伴って撮影をしている。そんな時期なのか~と邪魔しないようにさらに奥へと進むと、一際空気が変わる敷地へ。
左側に外宮、右側奥に内宮が祀られ、なるほど…伊勢の雰囲気が漂う。外宮の前には「籾置岩」という平たい大岩があり、岩の上に種子を置き、作物の虫よけや豊作を祈ったと云われ、豊受大神に相応しい(食物の神さまなので…)信仰が息づいている。
内宮の前には「御敷地」という、次回遷宮が行われる敷地が用意されていて、前回は先に建っていたんだと想像する。内宮周りにはイチョウやモミジが見頃を迎え、撮影タイム。
“モノホン”の伊勢神宮と比べると、雰囲気や規模は到底及ばないが、確かに天照大神が坐ることを感じ、両宮にお参り。
境内には先ほどの多賀神社横から高嶺城へ繋がる登山道があるそうで、次のバスの時間も考え、今回は断念。社務所で御朱印を拝受。御朱印帳が埋まってきたので、今まで訪れた神社に聞いてきたが、どこも御朱印帳を売っているところがなく、「どうしたものか…」と後にする。

写真は内宮

木戸神社 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:24:52

県庁前バス停に戻り、児童センター行のバスに乗り、市保健センターバス停で下車。交通量の多い国道9号線の信号を北へ渡り、すぐの木戸公園へ。見頃を迎えたモミジが彩りを放ち、まずは隣の木戸神社へ行く。
鳥居前には、地元の方だろうか、色鮮やかな花を植えた花壇が迎え、こういうちょっとした気配りというか、参拝者を良い気持ちで迎えてくれるおもてなしが嬉しい。
鳥居を潜り、木々が並ぶ真っすぐな参道を進むと、拝殿と小さな本殿が建ち、さっそくお参り。御祭神はもちろん木戸孝允。元々、ここは木戸邸があった場所で、木戸氏は当時の糸木村村民の学資捻出のために所有林の寄附を遺言したとのこと。
明治10年(1877)に没すると、家を継いだ養子の正二郎により、遺言通り土地は提供され、明治19年(1886)に「木戸公恩徳碑」とともに神社が創建されたのが始まり。
本殿側へ向かうと、モミジやイチョウの木が見頃を迎え、木戸さんも喜んでいるにちがいないと、秋の装いに彩られながらぐるりと一周し、拝殿にてお参り。武芸に加えて政治においても“秀”を発揮した木戸は「文武両道の神」として崇められているそうで、地元の人々には慕われる存在なのだろうと、西側の公園へ移動。

木戸公園 - モリゾーのひとり言

2026/01/10 (Sat) 10:26:07

木々が生い茂る中に、モミジがあちこち彩りを見せ、撮影タイム。木戸さんの邸宅があったころは散歩でもして、政治の有り様を考えていたのだろうと、想いを馳せ、激動の幕末・明治を駆け抜けた人となりを追う。
長州藩士に生まれた和田小五郎は、少年時代はいたずら好きの悪童だったという。病弱にもかかわらず、舟を転覆させて船頭さんに舵で殴られ、額に三日月の傷がつくほどの怪我をして血を流していても、笑顔でゲラゲラ笑っていたと。
そんな彼が転機となった出来事が、姉と母を立て続けに亡くしたこと。彼は布団の中で出家することを決めてはいたが、書物の中に世界が広がっていることに気づき、学問に目覚め、自分は何者なのか?何のために生きているのか?を考える。桂小五郎となった15歳に元服。この頃は地元、萩の柳生新陰流の道場に通い、剣術に力を注ぎ、21歳の頃、剣術修行で藩の許可を得て江戸へ留学。江戸では三大道場の1つ、練兵館(神道無念流)に入門し、免許皆伝を得るまでに成長。大村藩などの江戸藩邸に招かれ、剣術指南をするほどの剣豪として天下に轟かせるまでに。当時の近藤勇からも「恐ろしいほどに手も足も出なかった」とか。土佐藩開催の剣術大会では坂本龍馬と対戦し、2対3で小五郎が勝利した史料も残されているほど。
そんな中で時代はペリー来航により、小五郎の好奇心は兵学や砲術へと舵を切り、大村益次郎との出会い…その後の展開は省略するが、明治維新まで時代の波に飲まれていきながら、この当時の人々は小五郎を含め、ある意味、新鮮で活気があった世の中であったのだろうと。
そんな木戸さんの人生を追いながら、公園のちょっとした池の鯉も、夕暮れの薄暗い雰囲気に飲まれ、ノスタルジーに観賞し紅葉狩りを楽しみ、小川の横には旧邸宅跡のレンガ造りの建物が建っていて、そちらへ移動。今はその土地に住んでいる所有者がいて、中には入れないが、建物の外観はどこか、当時を思わせるような造りに見え、じーっと見ているのは忍びないので、早々に立ち去り、今日はここまで~


つづく…

また2、山口の旅(1) - モリゾーのひとり言

2025/12/24 (Wed) 10:41:44

お久しぶりです。今年の紅葉の旅は、去年に引き続き山口県。前から言っているが、中国33観音霊場を制覇すべく、中国地方の旅を年1回はするようにしている。今回も素晴らしい寺社巡りを体験し、まだまだ巡っていない場所があるなぁ~と実感しつつ、今年もあっという間の12月。
今年もヘタクソな文章を読んで下さり、ありがとうございました~
また来年もヘタクソな文章で載っけますので、よろしくお願い致します~

熊野神社 - モリゾーのひとり言

2025/12/24 (Wed) 10:43:20

今回は、山口市中心部にある湯田温泉界隈の寺社を散策する。新幹線で新山口駅へ向かい、JR山口線に乗り換え、湯田温泉駅の改札を出ると、温泉街というイメージはなく、普通の田舎の駅といった印象で、駅前はホテルがない。ただ、巨大な“白狐の像”が出迎えていて、ひっそりとしている中、北へ700mほど歩いた所に温泉街があり、まずは4泊5日お世話になるホテルに荷物を預ける。
さっそく、ホテルから900mほど離れた熊野神社へ移動。ネットの情報によると、7つほどの兼務している神社があり、その御朱印を全て拝受できるとのことで、もちろん全部お参りする予定だが、こちらに湯田温泉発祥の稲荷神社があるということで訪れる。
NTT山口局前バス停から北へ数分、鳥居から長い石段が見え、途中には見頃のモミジが赤く染まっている。「秋~」といった雰囲気を愛でながら石段を上がり、拝殿に到着。
熊野神社は名称の通り、紀伊国の熊野本宮大社から御霊を、権現山山頂に勧請し、大内氏24代目当主の大内弘世が社殿を建立したことに始まる。背後の権現山は「白狐伝説」の地で、3本足の年老いた霊狐が住んでいたらしい山で、30代目大内義興の時代に村のお寺にあった小さな池に毎晩、傷つけた足を浸けに白狐が現れていたそうな。それを見て和尚が温かいお湯であることを発見、さらに深く掘ると、大量の湯がこんこんと湧き出て、薬師如来の金像も発見されたことから、湯田温泉発祥の由縁として熊野神社の境内に白狐稲荷神社が祀られている。
「あれっ…」熊野権現って、3本足のカラスじゃなかったっけ…という疑問は伝説なので無視して、その後、大内氏が滅亡すると、管理されずに荒廃が続き、長州藩6代藩士の毛利索弘が再興したと伝えられている。
「それで駅前に大きな白狐のオブジェがあったのか…」と、振り返りながら拝殿でお参り。
拝殿の柱には「参拝鈴」という看板があり、「青い丸印に手をかざして下さい」とある。案内通りかざしてみると、テープで鈴の音が鳴り、よく見れば“鈴”が天上からぶら下がってないことに気づき、「なるほど…」と、よく考えられていて感心×2。
境内を散策し、口を大きく開けた狛犬に挨拶し、本殿右手側の御中主神社にも手を合わせ、石段横の道を下って行くと、白狐稲荷神社がある。小さな祠の前に白狐の置物が数多置いてあり、お神酒も備えてある。やはり、湯田温泉発祥の神社だけあって、ここでもしっかりとお参りし、社務所兼自宅が少し離れた所にあるので、そちらへ伺い御朱印を拝受。兼務している神社の地図もいただき、お礼を述べ次へ。

今八幡宮 - モリゾーのひとり言

2025/12/24 (Wed) 10:44:12

山口市内のバスはJRバスと防長バスが利用でき、どちらもICカードで乗車できる。事前に路線図や時刻表をコピーしたものを用意し、NTT山口局前バス停から自衛隊前バス停へ移動し、すぐ目の前の三叉路に建つ鳥居から失礼する。
小雨が降ったり止んだりする天候の中、次に向かう今八幡宮は、大内氏の居館があった場所から北東の位置に当たることから鬼門除けの宮としての守護を担い、創建時代は不明であるが、鎌倉時代の弘安年間、大内弘成の娘に「今八幡殿」という名が見えることから、これ以前よりもあった古社であることは間違いないみたい。
長い石段を上がり、たどり着いた境内にはそこそこ広く、翼廊のある楼門と拝殿がくっついた囲いの向拝が珍しく、床板を敷く「楼拝殿造り」と呼ばれるらしい。そんな特異な拝殿でさっそくお参り。
賽銭箱には、くまモンやハトみくじの人形が参拝客を見守っていて、振り返れば背の高いモミジが赤く染まり、ユーモラスな顔の狛犬も喜んでいる様。
境内を散策。拝殿右手には木造の神馬や、えびす神社、稲荷神社、奥には八柱神社が祀られていて、八柱神社は八ケ町内それぞれ鎮座されていた摂社末社を合祀した神社で、8つの内の春日神社の社殿を現在の地に移設したものだとか。
本殿横の橙の木を愛でながら、社務所で御朱印を拝受。兼務している八坂神社、築山神社も頂き、後でそちらもお参りに行くことを約束し、八幡さまにお礼申し上げるのでありました~

野田神社・豊榮神社 - モリゾーのひとり言

2025/12/24 (Wed) 10:45:21

今八幡宮境内からそのまま北の駐車場へ向かうと、生い茂る木々の中に西日が光挿すモミジが輝いて見える。導かれるようにモミジを追うと、そこはもう野田神社・豊榮神社の境内地となっていて、ここには山口県の神社庁の建物まである。
鬱蒼と茂る木々の中なので、辺りは薄暗い雰囲気。参道を道なりに進むと、一段高い敷地にたどり着き、横に同じ社殿が並んで建っている。左側が野田神社、右側が豊榮神社で、モミジの美しい光景が目に飛び込んでくる。
撮影の前にまずはしっかりとお参り。野田神社の御祭神は毛利敬親(たかちか)公と、その養子である元徳(もとのり)。ちなみに、元徳は初代山口藩知事。元々は、敬親の諡号(しごう:貴人の死後に奉る名)から「忠正」とし、忠正神社と称していたが、明治時代に入り、当地名の“野田”に改称される。
毛利敬親は長州藩13代藩主。激動の幕末期に藩財政を立て直し、幕府からの圧力にも屈せず、明治維新を成し遂げた最大の功労者の一人。敬親は、家臣の意見に対してほとんど異議を唱えることなく、常に「うん、そうせい」と答えていたため、「そうせい侯」と呼ばれていて、ちょっと頼りないかなぁ~と思う反面、人材を見抜く力、柔軟性を持った考え方、状況を正しく分析して判断する力など、極めて聡明な藩主だったと言われている。
一方、豊榮神社の御祭神は毛利元就公。孫の輝元が創建したとのことで、毛利氏については“3本の矢”などで有名なので、ここでは省くが、どちらの御祭神も当地の方々にしたら、安芸・長州を統治した毛利家…当然、地元の人々の崇敬が垣間見える。
…で、豊榮神社側にあるモミジの美しいこと。灯籠や「百万一心」と彫られた石碑、地面に生えた苔に落葉…と撮影に夢中になり、中々その場から離れられない。美しい光景に出会うことができて、毛利さんに感謝を伝え、御朱印はいずれ訪れる古熊神社でいただけるので、限をつけ後にする。

八坂神社・築山神社 - モリゾーのひとり言

2025/12/24 (Wed) 10:46:21

鳥居を辞去し、駐車場にはやけに車が止まっているなぁ~と思っていたら、少し西へ進むと学校がある。帰りの送り迎えに親御さんたちが来ていたのかと納得し、学生らの下校時間と重なる。信号交差点近くには「野田学園」という中高一貫校だろうか、幼稚園まである、かなり大きな学校らしい。そんな学生の集団に交じりながら、次の目的地の八坂・築山神社へ向かうが、北側から細い路地を入った方が近く、正式参拝の鳥居を潜らずに境内へ失礼する。
敷地はかなり広い。中央にイチョウの大木がすっくと生え、落葉の“黄色じゅうたん”が目に付く。社殿の配置は北側を背に、西に築山神社、東に八坂神社が建ち、どちらも似たような社殿の造りになっていて、その神社の間には市川元教のお墓が祀られていて、「誰?」となる。
ネットによると、市川元教は市川経時の嫡子で、毛利家への反乱を企てた人物とある。毛利家の家臣である経時は、事前に元教の計画を知り、密命によって自分の息子であるにもかかわらず殺害。毛利家への忠臣を示すためにそんな選択をしたのだろう。元教の謀反の理由は未だに分かっていないとなっている。当時、豊後国の大友義鎮(宗麟)と毛利家が争っている背景があり、元教は大友氏から唆されたのだろう、それにしても、息子を殺害する決断は、父経時にとって、苦渋の決断だったに違いない。まぁ~、戦国の世なら“致し方なし”といった時代背景で、しっかりとお墓に手を合わせる。
その市川小輔七朗元教も合祀されている築山神社。当社は元々「宝現霊社」という名称で、毛利輝元が多賀神社(現在は山口大神宮の境内にある:後に訪れる)の宮司、高橋彦延に建立させたのが始まり。この土地はかつて、大内氏の居館があった場所で、「築山館跡」とも呼ばれ、大内義隆、息子の義尊をはじめ、家臣らの政変で命を落とした人たちの霊を慰めるために合祀された社。本殿裏手にはこんもりとした土塁の跡も見られる。本殿は元、興隆寺にあった水上山東照宮の社殿を移築したものなので、徳川家康も合祀されていて、ちょっと「?」が浮かぶ。
そして八坂神社。元は「祇園社」と称し、大内弘世が京都祇園社より勧請したと伝えられている。明治の時代まであちこちに鎮座地が移動していて、現在の山口大神宮の境内にもあったという。7月には例祭として「鷺舞」が行われることで有名。私は京都の祇園祭りの時、八坂神社でその「鷺舞」を見たことがある。境内で子供たちが鷺に扮して、大勢の観客の中で舞を披露する姿に感動したことを今でも覚えている。それはユーモラスというか一見、ギャグなのか?と思ってしまったが、踊りをずっと見ていると不思議と、神聖な気持ちに変わっていったような…面白い経験をさせていただいた。
大内氏が京都の風習を山口に持ってきたことで、今も受け継がれている伝統に歴史を見、両神社ともにお参りし、南西角の大鳥居から一礼し、失礼するのでありました~

香山公園 - モリゾーのひとり言

2025/12/24 (Wed) 10:47:17

近くにある八坂神社前バス停の時刻表を見ると、香山公園五重塔前バス停へ行く路線は、1時間に1本なので待たなければならない。グーグル地図で距離を調べると、歩いて20分ほどなので、歩いて行くことに。
次に向かう香山公園は瑠璃光寺というお寺と一体になっている公園。バス停の名称の通り、公園の一角には五重塔が建っている。毎晩、この公園ではライトアップが行われていて、この秋の時期にはさらにモミジが彩を見せるのだろうと、この時間を狙って訪れた次第。
山口県庁東側の坂道を上がり、いずれ訪れる洞春寺を通り過ぎ、公園内へ移動。駐車場から北側には、萩藩主の毛利家の墓所があり、山口で亡くなられた毛利敬親公以降の一族が眠っていて、“うぐいす張の石畳”と呼ばれる、手を叩くと音が反響して響く敷地で、参拝客がこの日も音を確かめるように鳴らしている。
そこから東側には、回遊式庭園が広がり、五重塔が“仏像”のように聳えていて、開放感ある広場となっている。香山公園は今から600年くらい前の大内氏の時代にあった香積寺の跡地で、香積寺は大内義弘の菩提寺。弟の盛見が兄の義弘の菩提を弔うために五重塔を建立したことに始まる。寺院は萩へ遷ったが、五重塔だけは残り、後の跡地に瑠璃光寺が引っ越してきて現在に至っている。
瑠璃光寺の拝観時間はもう終わっているので、また訪れるとして、公園内を散策。大内弘世公の銅像、薩長がこの建物で話し合ったとされる「枕流亭(ちんりゅうてい)」などを見、モミジとのコラボ写真を撮影しまくる。
ライトアップの時間は日没ということなので、西の空を見るとまだ明るく、しばらくは東屋で待つ。さすがに11月下旬ともなると、段々と暗くなる雰囲気も相まって、動いていないと寒さが身に染みてきて、マフラーを首にあてがう。
ギャラリーもそこそこに集まり出し、いよいよライトアップが始まると、主人公の五重塔にスポットライトが当たり、夜の公園にも風情が灯る。バスの時間まで堪能し、初日から全開で楽しむのでした~

つづく…

また6、長野の旅(2) - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:36:01

大阪万博も残り1カ月を切り、あっという間の会期。私の中では、未だ見れていないパビリオンが2つほどあり、人気の「住友館」と「大阪ヘルスケア」のパビリオン、しかも予約必須なので、10月に行く予定だが、果たして入れるだろうか…
そこそこの体験をして、満足の万博だが、ちょっと不満も残る(ウェブ上でのシステムや運営側の対応)万博で、振り回された感も否めない。まぁ~、万博とは別で大阪を訪れた機会に、あちこちの神社も訪れていたので、お礼参りではないが、久しぶりの大阪も堪能でき、またこれからの秋の紅葉シーズン、どこへ行こうかと迷う今日この頃。
…ということで、もう秋なのに、春の長野の旅を引き続き紹介~

安養寺 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:37:38

3日目は松本市内を散策。松本市は第2の故郷みたいな街。というのも、若い頃、1年ほど住み暮らした街で、それなりに土地勘があるが、当時は寺社をめぐることなど興味もなかった年頃だったので、改めて今、訪れた次第。
駅前の様子は大分変わってしまったが、放射状に延びる道路はそのまま変わらず、懐かしさを憶える。駅前のホテルで一泊し、早朝、松本電鉄に乗って三溝駅へ移動。三溝駅に到着し、時刻は朝7:10。無人の駅から北西方向に目を向けると、しだれ桜がすごいことに。
すでに駐車場には数台の車が止まっていて、アマカメが撮影に来ているのだろう、さっそく向かう。境内全体を覆うほどの桜が、しかもどの桜も大木なので、ボリュームが桁違い。
「松本市 桜」で検索し、当寺を知った次第だが、ネットの写真を見るよりも実際に見るとは違うとはまさにこのことで、こんなにすごいとは驚。
山門から失礼し、境内を散策。樹齢500年ぐらいの大木が2本あるという情報だが、どれも大きいので分からない。とにかく、どれだけのしだれ桜なんだ!というぐらいに、高い位置から枝が垂れ下がっていて圧巻。道なりに進むと、本堂が現れ、堂内に入りお参り。
安養寺は昔、梓寺と呼ばれ、安曇の大野川地区に真言の精舎として存在していたらしい。それがいつしか親鸞上人が信濃国の巡行の際に、この寺に泊まり、弟子の西念坊道裕に伝え、教化し、松本盆地における有名な浄土真宗の道場として広がりを見せたそうな。それ以降、宝暦3年(755)に現在地に移転し、現在に至るとなっていて、本堂は昭和の火災により再建されたものであるとのこと。
そして、境内にあるしだれ桜は樹齢からして室町時代から植えられたので、それ以降、ず~っと桜の名所として有名だったのかもしれない。
駐車場側に廻ると、池なのか大きな水たまりがあり、その水面に映えるしだれ桜、遠くの南アルプスの山並の背景としだれ桜、ちょっとしたスイセンの花としだれ桜…と、見頃のこの時期に訪れて良かった~と、限をつけ次へ。

岩崎神社 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:49:06

松本電鉄、三溝駅から新村駅へ移動。大学生が途中下車していくワンマン電車は、都会の朝のラッシュ時とはいえない、長閑な雰囲気のまま、駅から北へ20分ほど歩いていく。
今日は風が強く、建物のない田畑が広がる中を歩くので、風がもろに行き手を阻み、かなり肌寒い。そんな中で東に目を向ければ、グランドでサッカーの練習をしている高校生?が元気に動き回っていて、それを見て、こちらも気合が入り、ようやく岩崎神社に到着。
ネットによると、岩崎神社は仁寿3年(853)に諏訪大社の御祭神を勧請したと伝えられ、伝説によると、梓川村岩国の火打岩明神の鎮座する岩頭が、岩崎明神が鎮座する岩頭と地底で1つになり、本殿下には「岩の崎」があるとのこと。それが社名の由来となっているそうで、「川狩り神事」と呼ばれる川魚を採って神に捧げる例祭があるらしい。
地図を見ると、確かに北側の梓川を挟んで西に2kmほど離れた所に岩岡神社があり、火打岩が鎮座してある。明治期の川の氾濫や洪水によって土砂が流れ出し、いまでは土に埋まった状態だが、かつては、10数mの高さの火打岩がむき出しになっていたので、相当背の高い大岩であったことが想像できる。
川狩り神事は、御祭神の建御名方神に捧げる神事で、諏訪の御頭祭と同じように神輿渡御を行い、川魚を供えるといった感じだろうか、こちらも想像がつく。
そんな建御名方神を祀る岩崎神社鳥居から桜を愛でながら失礼し、境内はそこそこに広い。西を背に建つ拝殿でお参りし、拝所にはいろんな種類の書置きの御朱印があり、月替わりや版画など、最近は芸術作品として捉える見方もあり、神社経営も大変だぁ~とつくづく思ってしまう。社務所は閉まっているので、書置きの御朱印を拝受し、ぐるりと社殿を一周し、そういえば、4本の御柱がないことに気づき、“本家”にしかないのだろうか?と、境内の雰囲気を味わいつつ建御名方神に問いかけるのでありました~

沙田神社 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:50:16

新村駅まで戻り、次は大庭駅へ移動。駅から南へ20分ほど歩いた所にある沙田神社に到着。事前に神社関係者の方と連絡を取り、10:00に待ち合わせをしていたのだが、予定より1時間も早く到着してしまい、とりあえず境内に失礼し、拝殿でお参り。
境内はかなり広い敷地を有していて、正式参拝をするための参道は東側にあり、私が潜った鳥居は西側から入ったことになるので、改めて東鳥居からの“入社”をする。
参道はかなり立派な石灯籠や木々が並び、さすが信濃国三ノ宮の位だけはあると、歩を進める度に清々しい。朱色の屋根付き鳥居を潜り、正面には舞殿、拝殿、本殿と並び、4角には御柱が建っていて、御祭神が建御名方神だということが分かる。
沙田(いさごた)神社はネットによると、古くは筑摩郡鷺沢嶽(現・松本市波田鷺沢)に鎮座していて、大化5年(649)、信濃国司が勅命を奉じ、初めて勧請されたとのこと。その後、坂上田村麻呂が有明山の妖賊討伐に当たっての本社の神力が効したとして、国司と共に社殿を造営したと伝わる。その鷺沢の旧跡地には奥社が建っていて、“三ノ宮”→“産ノ宮”ということで、安産の御利益があるそうな。また、現・当社の地は、梓川の水を引き入れた古代条理的遺構の上にあって、土器や石器が見つかっているというから、昔からここで生活の営みがあったことが窺える。
そんな神位の高い当社を散策。拝殿の唐破風屋根の下には、桧と鷹?トンビ?の鳥の彫刻が施されていて、しばらく見入り、本殿左手から宝剣を模った石造、本殿裏手には「物臭太郎の碑」がある。物臭太郎の碑には説明看板があり、「御伽草子」の話で出てくる物臭太郎ゆかりの地がこの周辺(「あたらしの郷」というらしい)であるとのこと。
地図を見ると、ここから西へ約3kmの所、松本大学の南側に位置している。物臭太郎の物語は簡単にいえば、毎日ゴロゴロ過ごすような太郎が京に出て、勤勉に励み、いつしか嫁を娶り、立身出世したという、怠け者でも真面目に働きさえすれば成功するよ…という教訓を推している。
「へぇ~」と、松本にそんな場所があったとは、この神社を訪れるまで知らなかった…と知識を得る。
そして、本殿右手には昔あったとされる「御手洗の池」、境内社、招魂碑など、境内にはあちこちに大木といえる木々が生えていて、敷地の隣には幼稚園?もあり、園児の元気な声が聞こえていて、そんな中で時間を潰していると、社務所に人が入っていく姿を見かけたので、訪問。
氏子さんにご挨拶し、早く訪れてしまった事情を説明し、御朱印を拝受。お話をしていると、どうも、先ほど訪れた岩崎神社が当社を兼務しているそうで、「え~」と驚き、「そうなんですか…」と。最近は兼務している神社が多く、7、8社と抱えている宮司さんは、正月の神事は掛け持ちで移動し、大変な思いをしているドキュメンタリーを見たことがあるが、そんだけ神社も後継者不足や経営難で衰えていく世の中なのだろうと。
当地の祭りや諏訪に纏わる情報をいろいろと教えていただき、感謝×2で、この場を借りてその節はありがとうございました~

兎川霊瑞寺 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:51:19

松本駅に戻り、駅近くのマクドで昼食後、駅前バス停から里山辺方面のバスに乗って20分ほど、里山辺出張所前バス停で下車し、すぐの兎川寺へ。この地域は、松本駅から東に4kmほど離れた里山辺という場所。駐車場付近の桜が見頃を迎える中、さっそく境内に失礼すると、境内にあるしだれ桜はもう枝だけになっていて、早咲きであることを知り、ちょっと残念。まずは松本城主であった石川数正夫妻のお墓があるので手を合わせる。
家康の家臣であった数正は、秀吉に寝返るという裏切りが今までの定説のようだが、どうやら家康が差し向けたスパイであるとする説もあるようで、NHK大河ドラマ「どうする家康」では“良い人”で描かれていた。そんな数正は、冷静で頭脳明晰の持ち主であった?というから、戦国の世を渡り歩くことができたのだろう。
本堂でお参り。堂内に入ることは叶わず、何にしても本尊は秘仏、千手千眼観世音菩薩なので、お目に掛けることはできない。ちなみに、お前立に千手観音、脇侍に毘沙門天と不動明王が安置され、パンフレットでそのお姿を見る。内陣にも「天女の欄間」が描かれているらしく、荘厳な雰囲気を醸し出しているのを想像する。
当寺の縁起を見ると、聖徳太子によって創建されたと伝わり、中世において、天台宗、真言宗を合わせた24坊なる大伽藍であったとのこと。鎌倉時代末期になると、北条氏の反逆に対し、全国の天台僧徒が比叡山に集まり、当寺の天台僧徒もこれに従い、この出来事により、一人も帰ることなく、天台12坊は廃墟と化し、以来、真言宗のみで法灯を守ることになったという。
さらに、戦国時代に入ると、武田信玄が小笠原長時公の居城、林城(南東へ2kmほどの所)を攻め、小笠原氏の祈願所となっていた当寺が暴徒によって仏像などの寺宝が持ち去られるひどい憂き目に遭うなど、荒廃、復興の繰り返しをしてきたと。そんな試練を乗り越え、檀信徒の篤い信仰心によって、保ち続けてきたといっても過言ではないほどの、努力があって、今に至っているのだろうと見る。
そんな歴史ある当寺の御朱印を拝受し、次へ。

伊和神社 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:52:34

兎川寺から惣社という交差点まで、西へ向かって歩く。交差点近くにある伊和神社に到着すると、鳥居前には、御神木ともいえる大きな枯損された株が2つ、柵に囲われて“鎮座”していて、存在感がある。
境内に失礼すると、ケヤキの木が大小さまざまに生えており、それを眺めながらまずは拝殿でお参り。
伊和神社の創建は明らかではないが、元禄や享保の文書には、「惣社宮六社大明神」と記述があり、安永2年(1772)に本殿が再建され、その時に「伊和大明神」になったとされる。この地域は古くから「惣社(そうざ)」と云われ、いわゆる「総社」、平安時代に国司の巡礼を省くために国府の近くに1ヶ所にまとめた「総社」である。信濃国では奈良時代まで国府は上田市にあり(国分寺は有名)、平安時代になると、松本平に移り、国の中心がここ、惣社であったとされている。
「惣社」から「伊和」に改称された理由は、いろいろ説があるようだが、最初、「伊和」=「岩」「違和感の違和」を連想したが、案内看板には、国府には他に国の印と正倉の鍵を祀る印鑰社(いんやくしゃ)があり、いつしか「印」を「伊」、「鑰」が「輪」に書き間違えられて、後に伊和神社になったとされている。
拝殿の左手には蚕影神社が祀られていて、養蚕が盛んな頃に繭の増産を祈り、地元の農家が建てたと案内看板があり、この地域は“蚕産業”の地産であったことが窺える。そんな昔の暮らしぶりを想像しながら境内を散策し、拝所には御朱印について、宮司さんの電話番号が書いてあるので連絡してみると、自宅は○○市で、住所と言えば書置きの御朱印を送って下さるとのこと。松本市内の筑摩神社(かつてお祈りした神社)も兼務しているということで、当社とお願いし(無事に届きました。ありがとうございます。)、かつては信濃国の中心地であった惣社を訪れ、悠久の地に想いを馳せるのでありました~

岡宮神社 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:53:25

惣社バス停から桜橋バス停で乗り換え、横田信大線の路線で横田バス停へ移動。いらっしゃるかどうか連絡してみると、神社に到着したらもう一度、電話して下さいとのことなので、バス停から西へ女鳥羽川に架かる橋を渡り、住宅街を歩く。
ここは「北深志」という地域。松本城から北東に位置する城下町で、“北東”という方角といえば「鬼門守護」の役割を担う神社やお寺があるのは当然で、その1つが岡宮神社。御祭神は建御名方神で、江戸時代から歴代城主の崇敬篤く、祭礼や改築などの寄進が多数あったとのこと。
そんな松本城守護の神社の鳥居前に到着し、宮司さんに再び電話連絡。社務所へ案内下さり、御朱印を書いて下さる間、境内を散策。まずは拝殿へと広い境内の参道をまっすぐ歩き、神門?からさらに先の敷地へと入り、拝殿でお参り。
玉垣の中は、左右に熊野神社と正八幡宮を配祀し、景観が整っている。境内にはケヤキの木があちこちに生えていて、いくつも瘤の付いた木々が“バンザイ”しているような枝ぶりで、みんなで悪霊を入ってこないように守っているかのように見える。ちゃっとグロテスク?に見える木々とは逆に、狛犬が何ともお茶目な風体で、かわいらしい。境内社もいろいろ、事代主社、愛染殿、稲荷、龍神、御嶽などなど祀られていて、社地はかなり広く清々しい。
社務所で御朱印を拝受し、宮司さんと少し談笑。松本城が桜の見頃だという情報を得、時間があったら行ってみますと、お礼を述べ、感謝申し上げるのでありました~

大安楽寺(1) - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:54:16

岡宮神社から南へ。神社に向かう時からすでに、南に見えていた建物が気になっていたが、自然とその建物に誘われるように到着した大安楽寺というお寺。参道脇にはお墓が並び、正面に仁王門、その奥の境内には本堂の屋根の上に、五重塔の上層部が一段乗っかってる感じで目立っている。仁王門を潜ると、右手には永代供養の五輪塔が地蔵菩薩と聖観音?の石像を従え建っていて、左手には弘法大師の石像がお出迎え。
本堂の唐破風屋根の下の柱などには龍などの彫刻が施され、その芸術作品にしばらく見入る。
岡宮神社同様、松本城の鬼門方角にあたることから、除守護の霊刹として建てられたお寺であるが、当寺の歴史を見ると、元々は一条修理太夫という方が延長2年(914)に安楽寺として建立したのが始まりらしい。永正元年(1504)に松本城築城に際し、七堂伽藍を再建し、元和元年(1617)に現在の地に移され、敵の侵攻に備え、“寺城”としての堅固な造りになり、歴代城主の祈願所として、城下と共に栄えてきたと。
明治に入り、廃仏毀釈を受け、本尊以下の仏像は宝栄寺(岡宮神社西)に難を逃れたものの、全伽藍を焼失、観音堂建立をきっかけに再建復興を遂げ、天正11年(1583)に大安楽寺と改称し、多くの信者に支えられて今日に至るとある。

大安楽寺(2) - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:55:17

納経所でピンポンすると、住職さんが見え、本堂内に案内して下さり堂内へ移動。平成21年(2009)に新築された本堂なので、古めかしい内装ではなく、それなりに整った感じの中、再度本尊の大日如来さまにお参り。住職さんが当寺の歴史を話して下さり、堂内に安置されている仏像群も説明。当寺には秘仏の十一面千手観音像があり、住職でさえ扉を開いたことがないのを、昭和24年(1949)に仁王門移築に伴い御開帳されたらしく、それ以来、60年ほど本堂新築落慶法要に合わせ再び御開帳されたと。
まぁ~、しばらくはお目にかかることはないだろうと思いながら、愛染明王や不動明王、平成4年(1992)にネパールから迎えた五如来など、個性ある仏像を拝観。
そして、本堂内左手の床には、大きすぎる草鞋が敷いてあり、「ギネス更新中」とある。住職さん曰く、原形の藁から綱へと束ね、草鞋へと編み込んでいったと。最初の行程から、つまりゼロから始めたというのがすごく、参拝に来られた方には“大草鞋”に乗ってもらいたいという住職さんの願いもあるようだ。昔、信者さんが、仁王さまが裸足で立っているのを見て、かわいそうだと草鞋を編んで奉納したのが由来であるそうで、この大草鞋に乗ることで、1年間、健康・無病息災、厄除けの御利益があると語り伝えられ、多くの方に乗ってもらうよう年々、大きくしていったそうな。これ以上大きくすると、本堂に置けなくなるので、「ここまでかな…」と住職さんは語っていたが、それにしても、“大草鞋”を履けるのは、“でいたらぼっち”ぐらいしか履けないだろうと想像しつつ、御利益と御朱印を授かり、感謝申し上げるのでありました~

深志神社 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:57:10

横田バス停から市民芸術館前バス停へ移動。あがたの森通りから1本南へ入ると、車の喧騒がなくなり、神社の雰囲気漂う社殿が見えてくる。北参道から入り、拝殿の横にたどり着いたので、正面の西参道からの正式なお参りの仕方ではないが、さっそくお参り。
神楽殿や拝殿が建つ社域は懐かしく、深志神社は2回目の訪れ。松本市では筑摩神社、四柱神社と並び?有名な社である。松本城から見て南東の位置にある当社は、昔、松本城が深志城だった頃の、まだ築城されてもいない以前は、社殿が南面に向いていたらしい。信濃国守護の小笠原真宗公が暦応2年(1339)に諏訪大社より御分霊を受けて、御祭神を建御名方神として創建され、この地の宮村大明神として称えたと。そして、応永9年(1402)に小笠原長基公が京都の北野天満宮より勧請し(省略)、宮村宮と天満宮、両社を重修して、松本南城下町一円の総氏神として祀られ、今日に至っている。
そんな崇敬を集めている当社の境内を散策し、前回訪れた時にお参りをしていなかった南参道付近にある楠公神社や金山神社、愛染神社など多くの摂社を参拝。ちょっとした神苑付近には金色に輝く菅原道真公像が安置され、神社を見守っている。菅公が初めて詩を詠んだ場面を表していて、平成28年(2016)に建立とあるので、まだ新しくピカピカ。ここはパワースポット的な場所なのだろうか、若い娘が写真に収めている。
社務所へ行き、今回は、境内社の富士浅間神社の御朱印を拝受。富士浅間神社は西鳥居付近に鎮座していて、元は、先ほど訪れた里山辺林山の麓にあったらしく、それを天文年間(1532~55)に現在の地に遷宮したと伝わる。この松本の地でも富士山信仰が受け継がれていると思うと、山に囲まれた松本でもやはり、富士山にはあこがれ?の山であるのだろうか…雪が残るあの美しい稜線を思い描くのでありました~

松本城(1) - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:57:58

深志神社西鳥居から天神通りを抜け、本町通りに出てきつつ、松本市博物館バス停から松本市役所バス停へ移動。時間が余ったので、松本城東堀からぐるりと一周する感じで花見を楽しむ。
松本城はそこそこ来ているが、一番の思い出は、城内で各ブースで競い合う“蕎麦フェスタ”の催しに参加し、食したこと。あれは肌寒い季節の頃で、鼻水を垂らしながら冷たい蕎麦をすすった記憶がよみがえる。
そんな思い出の松本城はどこから切り取っても絵になる天守が圧倒的に美しい。もはや仏像のよう?に見え、それは御神像ならぬ“御神城”と云うに相応しい?出立ち。観光客は思い思いに写真を撮り、特に外国人観光客の率が多い中、水面に映える天守は今日も堂々と、輝いている。

松本城(2) - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 11:13:11

簡単にいえば、松本城は永正元年(1504)に築かれた深志城が元で、天正10年(1582)に小笠原直慶が改名。深志城を拠点としていた武田氏の32年間の統治から織田信長が武田氏を滅ぼすと、木曽氏、小笠原氏と城主が変わり、家康配下から秀吉配下に移った石川数正が入封し、城郭の整備や城下町の拡充に着手。その後の城主遍歴は省略するが、現存する天守は戦下の空襲や火災を免れ、国宝に指定されるほどの、今では美しい景観が特徴的なお城である。
そんな松本城をぐるりとめぐり、お堀周りに咲く桜が美しく、小鳥がさえずる。明治時代には消滅の危機があって、市民の力で救われたということからも、地元の支えなくして松本城は存在しえなかったかもしれないと思うと、感謝×2と、しばらく桜とお城のコラボを愛でるのでありました~

また6、長野の旅(1) - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:26:29

暑い日が続く昨今、8月に「大阪メトロ中央線が運転見合わせで万博会場に足止め」のニュースを見、やっぱり予期していたことが起こったと嘆く。災害時での対応が遅く、自販機は売り切れ(後に補充されようだが…)、備蓄されていた水が配られたのは午前4時というから、協会は何をしていたのかと。7月までは通期パスでちょこちょこ万博へ出掛けていて、8月は暑いので行かないことを決めていてよかった~と思いながら、もし自分に降りかかったならと考えるとゾっとする。熱中症や災害のリスクを考えてしばらくは控えるが、会期中、楽しい万博であったといえるよう気を引き締めてもらいたい。
さて、毎度の事、大分遅れまして、4月に訪れた長野県の旅を紹介~

手長神社 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:27:30

諏訪へ行くには特急しなのでJR塩尻駅で中央本線に乗り換え、“普通”でJR上諏訪駅への道程。久しぶりに訪れた諏訪市は、「御柱祭」を観覧した記憶が鮮明にあり、長野県内の中でもちょっと、独特な“市”のイメージが印象強い。
今回のメインは、諏訪大社の祭事「御頭祭」であるが、まずは、JR上諏訪駅から北に位置する手長神社へ向かう。10年以上前に訪れた時、宮司さんから、ひょんなことから“梶の葉”をいただいた経緯で、今も大事にその“梶の葉”を保管しているが、そんな出会いが印象的だった手長神社に再訪し、お礼参りをしたいと訪れた次第。
鳥居から坂道が続く参道石段を上がり、近くの学校の校庭を見ながら、第二の鳥居にたどり着くと、横に長い境内、大木が取り囲む社地へと失礼し、一気に空気感が違う雰囲気を味わう。
手長神社の御祭神は、手摩乳命(てなずちのみこと)。古事記の八岐大蛇伝説で登場する神様で、稲田姫命を、妻の足摩乳命(あしなずちのみこと)と共に育てた話は、奥出雲の旅で訪れた稲田神社を思い出すが、そういえば、信州はそばが有名。稲田神社の社務所で、そば屋を営んでいたことは、何かのつながりがあるのだろうか…と、よだれが出てしまう。
手長神社は、鎌倉時代の文書には「下桑原鎮守」の表記があり、諏訪大社上社の末社として造営され、天正19年(1591)に現在の地から南へ、高島城が築かれると、神社の鬼門に当たるところから、歴代の高島藩主諏訪家から崇敬されたとの歴史がある。
境内には拝・本殿の他に、旧本殿であった弥栄神社、御頭御社宮司社、神楽殿などが建ち、石祠、祝神など町内の昔からあった祠が祀られていて、“鎮守の森”に守られている。
それぞれにお参りし、社務所へ伺うと、本日は宮司さん不在のようで、新たに増えた弥栄神社の御朱印を拝受し、手長の神様に感謝を伝えるのでありました~

高島城跡 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:28:43

地元のコミュニティバス“かりんちゃん”で、駅前から高島城跡バス停へ移動。お城といえば桜。高島城跡は今回で2回目で、前回も桜の季節に訪れている。
堀からの天守、城壁からの桜…と、どこを切り取っても、お城と桜のコラボは“お似合い”で、東の城門から失礼し、すでに多くの観光客が花見を楽しんでいる。
城跡内には、“オンステージ”のような祭事を催す舞台も設置されていて、土日にはカラオケ大会でもあるのだろうと、散策。
天守には上がらないが、前回の時は、東の方角に富士山が見え、しばらく見入ってしまう光景を思い出し、今回はどうだろうかと平地からの眺望はやはり見えないので、想像力だけで済ます。
城跡内には諏訪護国神社があり、さっそくお参り。諏訪市、岡谷市、茅野市より出征されて戦死した英霊たちが祀られていて、明治の西南戦争の戦没者から始まっている。多くの英霊は毎年、花見を楽しむ人たちの姿を見て、平和な世の中であることを嬉しく思っているのだろうと妄想し、社務所で御朱印を拝受。昆布茶もいただき、お礼申し上げるのでありました~

諏訪善光寺 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:29:59

高島城跡バス停からかりんちゃんバスで、里山辺出張所前バス停へ移動。ここは諏訪湖の南側、中央自動車道の北側に位置し、諏訪市にも善光寺がある事を知り、訪れた次第。
集落の坂道を上がり、途中、習焼神社でお参りし、東へ。駐車場には立派なしだれ桜が見頃を迎えていて、思わずパチリ。駐車場から境内へと失礼すると、山門からの眺めが素晴らしく、いつの間に、こんな高い場所まで来ていたのかと、東側に広がる八ヶ岳連峰の頂上はまだ雪が残っている風景をしばらく眺め、これまた本堂前でお参り。
本堂前には一本のモクレンが植えられていて、つぼみの白い花が数多く付き、もうじき咲く準備ができていて、春~といった感じを味わう。
諏訪善光寺は寺伝によると、百済から日本に送られた如来を、本田善光が難波の堀江から持ち帰り、座光寺(現、伊那郡元善光寺)に祀り、その後、孝徳元年(645)に諏訪明神の神事により座光寺から如来がこの地に移されたと。如来をこの地に安置してから7年後、お告げにより、再び水内郡芋井(現、長野市)の富彦神別天神の境内へ移動して祀り、さらに殿堂(現、長野市善光寺)が完成したと伝えられている。
この時、当地の万民がこれを悲しみ、善光は白月摩木(ヌルデまたはカチノキともいう:聖徳太子が蘇我馬子と物部守屋の戦いに際し、この木で仏像を造り、馬子の戦勝祈願を行った伝承から)を以って尊像を造り、当地の本尊としたとある。
その尊像は見ること叶わないが、境内には観音堂、薬師堂、元々この山に棲む松尾大明神も祀られいて、それぞれにもお参り。庫裏で御朱印をお願いし、本堂裏の庭園への撮影許可をいただき、見頃のしだれ桜をパチリし、善光寺如来に感謝申し上げるのでありました~

法華禅寺 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:30:55

諏訪善光寺から西の龍雲寺へ伺うと、住職さんが不在なので、今回は諦めて、再びバス停に戻る。バスが来る間、夕暮れ時であったが、ひょっとして御朱印をいただけるかどうか
法華禅寺に連絡をしてみると、「大丈夫」ということで、上社バス停へ移動。
ここは諏訪大社上社本宮。そのお隣にある法華禅寺は、大社同様、2回目の訪れ。以前訪れた時は不在で、御朱印をいただくことができなかったが、今回は約束を取り付け訪問。
諏訪大社の東側に建つ大鳥居、回廊入口を見ながら、坂道を上がると、朱色?の山門が見えてきて、付近に植えられている桜が見頃を迎えている。
法華禅寺は、伝教大師最澄が弘仁6年(815)、東国布教の際に、この地に開山されたと伝わる。なので、はじめは天台宗であったが、鎌倉時代、幕府に仕えた諏訪蓮仏入道盛重が禅宗の僧、蘭渓道隆を招き、禅宗に改めて中興した沿革。
蘭渓道隆は宋国逝江省生まれ。京都泉涌寺の明観和尚が入宋中に知り合い、その縁で来朝し、京に上って時の執権、北条時頼に招かれて鎌倉に移り、建長寺を開山した人物。帰化した名を御宇多天皇から大覚禅師と賜り、甲州へはちょこちょこ来たことがあって、当寺を中興した経緯がある。
本堂には釈迦三尊像を安置。大覚禅師の尊像も位牌堂に安置されているそうで、訪れた時間帯ではもう遅いので、本堂手前で手を合わせる。
また、当寺には吉良上野介の嗣子、義周(よしたけ)のお墓もある。赤穂浪士討ち入り後、義周は高島城に流され、22歳の若さで心労だったのだろう、病死。高島城南之丸に幽閉されていた義周への処遇は丁重かつ儀礼を尽くしたものであったと伝えられ、その家来たちは供養料として金三両を寺に残し、小さな自然石の墓碑が建てられたという。そのお墓は本堂裏手にあるが、今日は訪れるには遅い時間なので(翌日訪れ、お参りしました)、庫裏へと伺い、大黒天の御朱印も拝受し、遅い時間にも関わらず対応して下さり、お礼申し上げるのでありました~

諏訪大社上社本宮(1) - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:32:05

法華寺から坂道を下り、諏訪大社東鳥居から失礼し、回廊を潜る。
この回廊の入口上を見上げれば、龍の彫刻が素晴らしく思わずパチリし境内へ。東を背に建つ拝殿、その内陣の神域には、明日の「御頭祭」準備のためか、神職の方々が忙しく働いている。
お参り後、北側に建つ鳥居の参道、門前のお土産界隈の景色を眺めては、久しぶりの大社訪れに、「そうそう、こんな感じ」と懐かしさに浸り、いよいよ明日の「御頭祭」を期待し、上諏訪駅近くのホテルで宿泊。

御座石神社 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:33:04

諏訪温泉を堪能し、翌朝、JR上諏訪駅からJR茅野駅へ移動。駅南のバスターミナルから理大行きのバスに乗り、朝の通学の学生で満員の中、中央保育園前バス停で下車。すぐ近くの御座石神社に到着。
交通量の多い道路に挟まれた三角州の土地に境内はあり、木々に囲まれた、ここの社地だけ“異空間”のように空気が違う。
御座石神社の御祭神は、諏訪大社の御祭神、建御名方命の母神にあたる奴奈川姫(高志沼河姫命)とのことで、御頭祭の前に訪れた次第。
御座石神社は諏訪大社の境外社。矢ヶ崎という村落の郷社で、名称のとおり“石”が関係している。御祭神の高志沼河姫命が高志の国(越後)から鹿に乗って諏訪入りをした際、その石に腰掛けて休息したと伝えられ、しかもその石面には鹿の足跡が残っているという。
さっそく拝殿でお参り後、拝殿前の石を見ると、確かに鹿の足跡がある。乾ききっていないコンクリートの上を歩いてしまった靴の足跡のようにくっきりとあり、「へぇ~」と写真に収める。
そして、こちらの神社では御祭神が姫神であることから、御柱を建てることはなく、その代わりに7年ごとに鳥居を建て替えるそうな。「黒丸大鳥居」と呼ばれ、松の丸太の柱で造られ、古式のままで受け継がれているとのこと。
そんな境内を散策していると、あちこちに“石”というか“岩”が配されていて、バラバラのように見えて実は、魔法陣のように形づけられているのではないだろうかと、妄想してしまう。
事ある事に、何か神秘的なことを探してしまう癖は抜け出せなく、それが旅の楽しみの1つであるのだが…
そんなこんなで、境内の一角には酒蔵?があり、当社の例祭でもある「どぶろく祭り」で必要な酒造している建物から蔵人?杜氏?が出てくる姿を目撃し、岐阜県白川郷の白川八幡神社の「どぶろく祭り」と同じだろうかと。
毎年4月27日に行われるということで、祭りの伝承としては、諏訪明神が八ヶ岳山麓に狩りに出かけた折、母神がどぶろく、鹿肉、ウドの粕和えで息子神をもてなしたという話などからきていて、近世では「独活祭」と呼ばれ、「どぶろく祭」と呼称されたのは昭和に入ってからだというので、昔はお酒ではなかったということが分かる。確かに、“酒入鹿肉の粕和え”って、「げぇ~」ってなりそうな感じがして、お酒だけになったのは納得とも思えるのだが…
祭りの日にはお酒が振舞われるのだろう、全国似たような神事があるものだと、何とはなしに蔵を眺め、いつかこの日にまた訪れたいと願う。

福寿院 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:33:54

御座石神社からJR茅野駅を目指し歩く。今日は朝から小雨が降る天候で、降ったり止んだりの中、途中、桜が見事に咲き誇るお寺に遭遇し、立ち寄ってみる。
導かれるように山門近くの桜が見事で、境内へと失礼すると、赤い屋根の本堂、地蔵堂、稲荷堂と配され、そこそこに広い。
さっそく本堂でお参り。HPがあるので調べてみると、福井県の永平寺と横浜の総持寺を御本山としている曹洞宗のお寺のよう。開創された年は分からないが、寛永年間に日州関朔和尚によって開かれ、(省略)諏訪高島藩の初代家老、諏訪美作守頼雄公を開基として8代頼保が中興したとある。諏訪頼保といえば、「二の丸騒動」。諏訪藩は鎌倉時代から諏訪市に仕えてきた千野氏と、初代藩主諏訪頼水の弟頼雄を祖とする高遠藩の諏訪氏家老一族の2つの派閥があり、前者を三の丸に住んでいたので“三の丸家”、後者を二の丸に住んでいたので“二の丸家”と呼ばれていた。
まぁ~、詳しい話はここでは紹介しないが(調べてね…)、要するに、農政改革の失敗がきっかけで対立するわけだが、当時の殿様、諏訪忠厚は無能すぎるし、嫉妬心は強く悪知恵ばかり働く頼保が跡継ぎ問題などを引き起こし、結局、切腹させられてしまうという“お家騒動”は何とも現代のドラマにもありそうな話で、そんな頼保のお墓は罪人という扱いなので、墓標の石は自然石を2つに割り、重ねてその名を隠したであろう造りになっているそうで、この地に眠ってらっしゃるとはつゆ知らず、「へぇ~」と唸る。
たまたま立ち寄ったお寺が「二の丸騒動」ゆかりのお寺であるとは、“福寿”という寺名とはかけ離れたエピソードを知り、オモロイ。
御朱印があるか庫裏で聞いてみると、快く応じて下さり、書置きの御朱印を拝受。お礼を述べ後にする。

諏訪大社上社本宮(2) - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:34:54

JR茅野駅からJR岡谷駅行きのバスに乗って、中神戸バス停で途中下車。北の坂道を上がった頼重院、地蔵院を訪ねるが、不在。御朱印は諦め、再びバス停に戻り、かりんちゃんバスで上社バス停へと向かう。
本日は「御頭祭」当日。何時から始まるのか分からない情報のまま、時刻は正午ごろ。祭事ならばそれなりに人の多さもあるのだろうが、普段と変わらないような…本当にあるのだろうかと思ってしまうほどに静か。
境内に向かうと、鳥の形をした鉾や槍が立てかけられ、内陣にはお神輿が置かれているので、祭事があることは間違いないが、やはり「御柱祭」とは違い、秘密裡に行いたい?という神社側の思惑?だからだろうかと勘繰ってしまう。
お参りを済ませ、まだ始まる様子もない境内で、とりあえずは宝物館の見学でもしようと、社務所で拝観料を支払い中へ。
徳川家が社領を寄進した書状をはじめ、八栄鈴(やさかのすず)、八稜鏡、薙鎌などの展示。大社周辺の古地図を見、昔は神宮寺をはじめ伽藍が広いお寺があったことも分かり、宝物を拝観。40分ほど経過し、再び境内に出ると、まだそれらしき様子もない。暇を持て余すため、境内をしばらく散策する。

諏訪大社上社前宮(1) - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:35:52

御頭祭は本宮に坐ます神霊をお神輿に乗っけて、前宮へと大名行列のごとく移動し(渡御という)、前宮の十間廊という場所で祭事が行われる。各神社で行われる祭事はこれが基本で、移動先を御旅所として神霊を迎える場所があり、いわゆる、神さまをずっと社殿に閉じ込めて?いるのは窮屈?なので、年に1回ぐらいは、旅でもしてもらおう…といったところか(そんな単純な話ではない…)。
そして、前宮の十間廊で行われる「御頭祭」は、動物愛護団体の訴えによってある意味、世間の注目の的として浴びることになる。
古来より御祭神に捧げる神物に、鹿の頭や猪の頭、米や魚や果物などなどがあり、江戸時代の記録には、75頭もの鹿の頭を捧げていたと云う。今は剥製を使用しているが、当時はまな板の上に鹿の生首を乗っけて祭事をしていたというから、相当、血生臭い光景であったことだろう。
稲作が主流になる前の縄文時代以前は(この地域の人々の生業が狩猟であった)、動物や植物などの幸を神に献ずることによって、神と人が一体となり、自然を敬うとともに、共存する、狩猟儀礼、いわゆる「御頭祭」のはじまりであり、多くの魚、鳥、獣を山積みにして神に捧げ、その後、人々と神が共にその肉を食らい、酒を飲んだ…それは自然への畏敬の念を抱くということに繋がる、日本人にとっての“自然崇拝”に繋がっている…のだと考えられる。
そんな祭事が今日、いつ行われるのか…桜を愛でながらもう、前宮へと移動しようと決め、30分ほどで到着。前宮にはそこそこの参拝客がいて、十間廊には垂れ幕も掲げてあり、こちらで待っていればいつか始まるだろうと、とりあえず本殿へと坂道を上がりお参り。
本殿周りの御柱、横に流れる小川、八ヶ岳が望める景色を堪能し、懐かしさにしばらく浸る。
まだ時間には早いと考え、境内から北に見える桜並木を眺め、時間つぶしに行ってみることに。

桜並木 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:36:45

鳥居から北の方角へ行くと宮川があり、堤防沿いには桜並木が続き美しい。
土手に上がり、しばらく周辺を散策。小雨から晴れ間へと変わり、風が強く吹き始め、花びらが舞う光景も良いと、パチリを繰り返す。
地元の方だろうか、毎年見に来ているのだろう、ゆっくりと散歩したり、桜の下では弁当を広げて昼食をする人もいて、そんな姿を見るだけでも楽しく、自分も年老いたなぁ…と、しばらく桜を愛でるのでありました~

諏訪大社上社前宮(2) - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:37:38

13:00頃まで休憩所で待機し、十間廊へ行くと、かなりの人が集まり出している。私も祭壇近くの見える場所に陣取り、その神事を待つ。待つ間、小雨が降りだしてきて、隣にいた人に傘を片側貸してあげて談笑。話を聞いていると、千葉県から来ている方で、映画「鹿ノ国」の出演者だと言う。その話を聞いていた周りのギャラリーが「えっ!『鹿ノ国』に出てたんですか?」と、その人に質問攻め。私は、「鹿ノ国」すら知らなかったのだが、巷では有名なドキュメント映画らしい。(後日、映画館で見ました)
「へぇ~」と、関心を持って聞いていると、どうやら渡御されてきたお神輿が到着し、祭壇に供えては周りが慌ただしくなる。
なぜか雨も上がり、晴れ間が見えてきて、傘を閉じた頃には雨宿りをしていた隣の人もいつの間にか別の場所へ移動したみたいで、とりあえず、神事に集中する。
祭壇には、先ほど説明した米や野菜などのお供え物の中に、鹿の頭や真空パックされた鹿の肉などもあり、「御賀柱」と呼ばれる杉や柳、桧などの枝を飾った柱が登場し、祭壇の中央に置かれる。かつては、この柱に「御神(おこう)」と呼ばれる赤い着物を身に付けた子供を縛り付け、生贄として打ち殺したという話もあるようだが、それは文献の解釈を歪曲してしまった影響で“生贄”が一人歩きしてしまったような気もするが…そんでも、古来は人身御供のようなこともあったというから、真偽のほどはともかくとして、神に捧げる度合いが強い祭りであることは確か。
…で、祭禮者が「皆さま…頭をお下げください」と号令がかかり、そこにいる全員が頭を下げ、下げている間、祝詞を唱える声が聞こえてくる。神さまが“お姿”を現す時なのだろう、誰も見てはいけないこの時間だけが、時が止まったかのように厳粛な空気が漂う。
「頭をお上げください」と声が掛かるまで人々は神に相対することなくひれ伏す。
日本人のDNAには「畏敬の念」が自然と組み込まれているのではないかと思い、「敬う」という心が世界平和につながる壮大なテーマになっているような、そんな想像をしながら神事を見守る。
儀礼は、各村の氏子代表者が神前に出て、二礼二拍手一礼を繰り返し、滞りなく終わり、ミステリアスな?神事に立ち会えたことに感謝。祭りの余韻が冷めやらぬ中、前宮を去る。

神長宮守矢史料館 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:38:49

今回の旅でもう1つ訪れたい場所があり、それが神長宮守矢史料館。距離的にして、本宮と前宮の中間地点にあり、こちらは古くから諏訪大社上社の神長官を務めてきた守矢家一族が数多くの古文書等を残し、伝えてきた史料館。
門から失礼し、南に向かって敷地の左手には祈願殿、右手には4隅に御柱のような木が建つ中の、特徴的な割板の壁に、鉄平石を呼ばれる石を屋根に葺かれていて、テレ東の「美の巨人たち」で紹介されてそうな造りの建屋が配され、さっそく入館。
入館料100円というのは驚きだが、規模が小さいのでそんなもんかと、電球照明のような明かりの中、いきなりウサギの串刺しからはじまる。鹿の脳みそや肉片をレプリカで紹介し、さらに鹿の頭、猪の頭、30頭ぐらいが土壁に飾られていて、事前の情報で知っていたので驚きはしないが、さすがに心に来るものがある。
かつては「75頭…」と独り言ち、何でこんな数をお供えしていたのか…と。この点については私なりに前々から思う所があって、それは、御祭神である建御名方神と、鹿島神宮や春日大社の御祭神である建御雷神の相撲対決が原因ではないかと。勝負に負けた建御名方神は諏訪へと逃げ、この地から出ないことを約束したが、建御雷神の使いである鹿を喰らうことで、恨みを晴らしていたのでは?と。作家の高田宗史氏の小説(「諏訪の神霊」)を始めて読んだ時、同じ考えであったことに驚き、「そうだろう、そうだろう」と唸ったものだが、ある意味、建御名方神は未練たらたらの神じゃないか…と。
そんなことを考えながら、御賀柱、上社の古地図、祭器や鉄鐸、武田信玄や真田昌幸の書状、鹿食免の版木(鹿を食べて良いという許可書)などの展示を見学し、中々内容が濃い。
インパクトありすぎな鹿の頭は、建御雷神に対するアンチテーゼ?レジスタンス?(妥当な言葉が分からん…)かと、御頭祭の世界を知ることができ、満足×2。

ミシャグチ社 - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:39:45

史料館を後にし、敷地内を散策。石垣で造られた一段高い所に祠があり、ミシャグチ社が祀られている。「ミシャグチ」を漢字表記にすると、「御左口神」とも「御社宮司」とも示され、建御名方神が諏訪に来る前から坐た地主神(産土神)で、一説には、建御名方神とミシャグチ神との戦いがあり、前者が勝って諏訪を支配したという説がある。ミシャグチ神が負けたことから建御名方神を守るための御柱を生贄としてミシャグチ神に求め、これが4角に建てた御柱のはじまりとする説もあるが、そこまで昔の真偽を確かめる術はないので“わからない”が答えである。
社に手を合わせ、南には墳丘の古墳、その背後には御射山(みしゃやま)が聳え、何だか今も、地元民はミシャグチ神を崇敬する派閥?があるかのような空気感というか、この地に来ないと口では言い表せない雰囲気が…ミシャグチ神は“存在”していると感じる。
ミシャグチ社から右手には大祝諏訪家のお墓が並び、桜が見頃を迎えていて、この地方で連綿と続いてきた風土や歴史が、たまに吹く風と共に香ってくるかのように、しばらく桜を愛でるのでありました~

諏訪大社上社本宮(3) - モリゾーのひとり言

2025/08/27 (Wed) 17:40:46

史料館から北へ大通りに出ると、ちょうど前宮から本宮へ戻る渡御行列に出会い、警察の誘導で車道を規制していて、一緒に本宮まで歩く。写真や動画を撮影するため、東鳥居前へ先回りして待ち構え、黄色い装束に身を包んだ方たちはお神輿を担いてきて、回廊前で一旦休憩。渡御途中、休憩を入れながらも40分ほども担いで歩いてくるなんて、大変だぁ~と見守りながら、再び回廊入口へと腰をかがめてお神輿を運んでいく。
本宮内陣に到着し、回廊内から神事を見守り、社殿へと神さまが御移りになるので、「頭をお下げください」号令に従い、ここでも頭を下げ、儀式を拝見。御頭祭がようやく終了し、今日一日、歴史ある祭事に立ち会うことができて感謝し、諏訪の地を去るのでした~

つづく…

また21、滋賀の旅 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:50:10

5月下旬に大阪万博に行ってきました。予想はしていたものの、かなりのすごい人人人に圧倒されないように気合を入れ、まずは人気のアメリカ館を目指す。早朝、東ゲートに7:30に到着したのだが、もうすでに100人以上は並んでいて、9:08にゲートを通過したにもかかわらず、アメリカ館はすでに行列…「こんだけ朝早く来たのに…」
この日は諦めて、お隣のフランス館へ入りましたが…。2日目。リベンジということで、今度は朝6:30に来ると、私の前に50人ほど並んでいて、結局、一番にアメリカ館に入れましたが、“並ばない万博”のテーマはどこへ行ってしまったのか…
…てなことで、体験してしまえば楽しいもので、通期パスも購入してしまい、今年は大阪通いが続くこと間違いなしで、御朱印の旅はお預けかも。
…で、4月上旬に訪れた滋賀県の大津市の旅を紹介~

膳所城跡 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:51:28

名古屋から大垣、米原、石山と、JR東海道線を乗り継いで、京阪電車に乗り換えて、膳所駅に到着したのはお昼過ぎ。駅から東へ下る道の途中には、膳所神社があり、かつて御朱印を頂いたこともあり、懐かしい。鳥居前の桜が見頃を迎えていて、広い境内を進みお参り。
立ち寄った後、再び東へと下ると、交差点の先、信号待ちをしている間に遠くに見える城跡門が威風堂々と構えていて、その奥の桜が鮮やかに城跡を染めている。
ここは大津市の東に位置する琵琶湖に突き出た土地に、かつて徳川家康の命で藤堂高虎が築いた膳所城があった場所。「琵琶湖の浮城」と呼ばれた水城で、東海道の抑えとして江戸幕府が諸大名に号令し築かせた第一号である。それも明治に入れば、廃城として扱われ、その後は城跡公園として今に至っているが、桜の名所であることをつゆ知らず、今回、訪れた次第。
城門から失礼し、すでに人の賑わいに、春の陽気が漂う空間が広がり、桜も見頃。写生している人もいれば、お弁当を広げている人、犬の散歩、カメラを構える人等々、そんな中で、ゆっくりと私は散策し、湖の畔は整備された湖岸となっていて、風が心地イイ。
なんせ、ここの良い所は、ブルーシートを敷いてどんちゃん騒ぎをしている輩はおらず、花見を純粋に楽しむ人々で、やはり、花見はこうでなくっちゃいけない。
今年初めての花見を滋賀県で迎えるとは…十分に楽しむのでありました~

和田神社 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:52:52

膳所神社まで戻り、北へまっすぐ歩く。高校の校舎がある脇道を進み、膳所の町並みを拝見しながら和田神社に到着。
かつて、膳所城を中心に栄えた城下町は、本多氏6万石の支配からなる古い町家が並び、大津へと繋がる東海道の旧道は旅人が通り、賑わいを見せていたことから比べると、今は静かな佇まい。
鳥居からの境内は、西を背に本殿が建っていて、屋根が手裏剣のような形をした、現代的な収蔵庫、大きなイチョウの木が印象的な御神木?があり、さっそく拝殿でお参り。
和田神社は白鳳4年(675)に創祀されたと伝えられ、持統天皇の御代、朱鳥元年(686)頃には元天皇社、あるいは八大龍王社と呼ばれ、承和2年(835)には正霊天王社とも称されたという。明治に入り、この地が和田浜や和田岬と呼ばれていたことから和田神社と改称され、御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)、つまり海津見(わだつみ)神で、境内には稲荷社や天満宮、山神社も祀られている。
中でも、大イチョウの木の言い伝えがあり、天下分け目の関ヶ原の戦いの頃、敗戦となった石田三成が伊吹山中で捕縛され京都に護送中、小休止した際に繋がれていたのが、このイチョウの木であったとのこと。イチョウは大津市の天然記念物として指定され、今では樹齢約600年というから、室町時代ぐらいに植えられたのだろう、かつては湖上を行く船の目印にもなっていたというから、江戸時代ぐらいにはかなり成長していたことが想像できる。
そんな大イチョウは、今は枯れ枝となっていて、これから夏にかけて葉が芽吹くのだろう、神社を守るかのようにシンボリックに佇み、何とはなしに見上げる。
社務所で御朱印を授かり、次に向かう石坐神社の行き方を教えてもらい、お礼を述べ後にする。

石坐神社 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:53:54

和田神社から北西方向へ歩いていくと、途中、ちょっとした公園に咲く桜を愛でる地元の人たちがいて、私もカメラに収める。その公園から西へ向かうと石坐神社があり、初め、「石坐」を「いしざ?」「いしくら?」と、読み方が分からなかったが、「いわい」と読むことを知ったのは和田神社さんのおかげで、こちらの神社も八大龍王神が祀られている。
八大龍王神は主に淡海、つまり琵琶湖のことだが、琵琶湖に坐します神様で、琵琶湖周辺には「淡海龍王神」を祀る神社が多々ある。当社もその1つで、昔は八大龍王宮とも、粟津八宮とも称され、また、さらに遡ること、天智天皇が湖中より、龍の飛来を見、膳所の御霊殿山の磐座に小祠を建て、石坐大神を祀ったこと、これら2つが創始の事の起こりで、正霊天王宮(東殿)と八大龍王宮(西殿)の両殿が朱鳥元年(686)に創建されたという。
境内は広く、境内社がいろいろ祀られていて、まずは拝殿でお参り。ぐるりと本殿を一周すると、特に七福神を祀る社が点在していて、大国主や事代主、毘沙門天、寿老人など祀られていて、七福神すべてお参りできるようになっている。
桃の花が咲く中で、御霊殿山への遥拝所が南東の方角に祀られていて、こちらもお参り。モミジの艶やかな新緑、桜も添え、社務所で御朱印を拝受し、お礼申し上げるのでありました~

琵琶湖疎水 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:55:00

京阪三井寺駅まで歩き、電車で北上。三井寺駅で降りる乗客は、私を含め、ほとんどが花見目的である。三井寺に向かう道中には、琵琶湖疎水があり、春の季節は桜の名所となっている。
琵琶湖疎水は、いわゆる、京都への“水ライフライン”で、TVの“ケンミンショー”でも京都が潤っているのは滋賀のおかげ!?というジョークで、京都VS滋賀のバトルが取り上げられていたが、そんな疎水運河を造ったのは明治時代。皇室が東京へ遷都して以来、京都の人口や産業は衰退を辿る道に陥り、当時の第3代京都府知事が、京都と大津を結ぶ運河を造ろうと計画を立てたのが始まり。まぁ~、そのトンネルを掘削する工事は、難攻を極めたことは想像の域だが、しかしまぁ~、繋がった時には、計り知れないほどの驚嘆であったことだろう、その努力はスゴイ!と言わざるを得ない。
今では桜を囲む素晴らしい景観が見て取れ、河には小舟が2艘浮かび、桜景色に添えている。橋の上では大勢の観光客は順番にスマホで撮影していて、入れ違いに、そこは暗黙のルールで、協力的に“景観”を分け合っている。
桜を愛で、そのまま疎水沿いの坂道を上がり、三井寺観音堂へ移動。

三井寺観音堂 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:56:07

三井寺は久しぶりの訪れ。紅葉の時期に訪れたことがあるが、とにかく境内が広いという印象が強い。境内は自分の感覚では、南エリアと北エリアに分かれていて、まずは観音堂がある南エリアから。
拝観受付を済ませ、入口すぐの水観寺でお参り。本堂は開け放たれた状態で、本尊の薬師如来立像や脇侍の日光月光菩薩、十二神将などをじっくりと拝観し、新たに御朱印が追加されている弁財天、大黒天、毘沙門天を授与所で拝受し、観音堂に向かう長い石段を上がっていく。
上りながら振り返ると、徐々に琵琶湖と大津市内の風景が見えてきて、桜も見頃を迎えた中で、コラボ写真を撮る。観音堂が建つ敷地に到着すると、参拝客がそこそこいて、映えスポットである“能舞台床”には行列ができている。磨き上げられた床に、桜が反射して映る風景が人気で、よるにはライトアップされ、HPにも載っているが、京都岩倉実相院の“床モミジ”を真似ているのか…と、ちょっと思ってしまう。
観音堂内に失礼し、お参り。お線香の煙や匂いが立ち込める…久しぶりのお寺~と言った感じの光景に、少し懐かしさを感じ、人それぞれにお参りをする姿、お守りを買う人等々、この空間がお正月のようでイイ。
観音堂は延久4年(1072)に、後三条天皇の病気平癒を祈願して創建され、本尊の如意輪観音座像は33年ごとに開帳される秘仏。なので、見ることはたぶん、叶わないが、写真パネルがあり、中々の威厳を保っているそのお姿をみては、もう一度手を合わせる。
お参り後、展望台へと上がり、観音堂のある境内、琵琶湖などを見降ろせる風景が広がり、しばらく明媚な景色を楽しむのでありました~

微妙寺 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:57:23

観音堂から北へ、案内看板通り、坂道を下り、ポツンと1つの立派なお堂が建っていて、堂前には手水鉢に綺麗な花を浮かべ、“映え”を求め、人だかりができている。
ここは、三井寺の別所として存在する微妙寺。別所とは、平安期以降、広く衆生を救済するために本境内の周辺に設けられた別院のことで、他に、先ほど訪れた水観寺や近松寺、尾蔵寺、常在寺があり、総称して「三井寺五別所」と言われている。
微妙寺は慶祚阿遮梨によって、正暦5年(994)に開基されたと伝わり、元々は長等公園の南の山上にあったが、昭和54年(1979)に現在地に移築され、今に至っている。
本尊は十一面観音像であるが、堂内に失礼し、目の前に立つと、何とも可愛らしいというか、仏像というよりかは“人形”である。いや…人形ではない…何とも説明が難しいのだが、アニメでいう等身大の姿からデフォルメして小さくなったキャラクターのような…
そんでも、そのお姿は異彩を放ち、人々を救って下さる菩薩さまであると、その存在感自体が紛れもなく、どこか違う。
そんな十一面観音さまに手を合わせ、授与所で御朱印を拝受。以前、こちらで祀られていた“尊星王”は金堂へ移動されたということで、お礼を述べ、三井寺金堂へ。

三井寺金堂 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:58:56

金堂へ向かう道幅の広い参道を歩くと、脇に咲く桜が見頃を迎えていて、すばらしい。多くの参拝客が桜並木に立ち止まり、写真を撮ったり愛でたりして楽しんでいる。
正面に見えてきた金堂は、立派な佇まいを醸し、現在の金堂は秀吉の正室、北政所によって再建されたもので、“三井寺ここにあり”と言わんばかりに、その威容さが伝わってくる。
三井寺の正式名称は「長等山園城寺(おんじょうじ)」。1200年以上の歴史の中で、源平争乱や南北朝、戦国時代と、焼き討ちに遭う…まさに災難続きのお寺というイメージが強い。幾多の苦難を乗り越えてきたことから、「不死鳥の寺」とも呼ばれていて、天台宗として中興した知証大師への信仰心に支えられた人々によって、維持されてきた歴史ある寺である。
金堂内に失礼すると、階段には季節の花が色鮮やかに添えられていて、目の保養になり、本尊の弥勒菩薩にお参り。
内部は外陣、中陣、内陣と分かれていて、内陣の両側に脇陣を設け、内陣以外の床は板敷とするのに対し、内陣は土間のままで、この形式は、天台宗の本堂に見られ、比叡山延暦寺の根本中堂と同じだと、延暦寺に訪れた時の、“不滅の法灯”を見たことを思い出す。
格子で仕切られた内陣を、隙間から覗き込み、仏像群のお姿を拝むが、中は暗くよく見えない。そんでも、手を合わせ、ご加護をいただき、納経所で御朱印を拝受。微妙寺から移動した尊星王も御朱印として拝受し、いつのまにか、御朱印の種類が増えている三井寺を訪れ、満足×2。

三井寺鐘楼 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:00:16

金堂の周りには「あかいの井戸」や「弁慶の引きずり鐘」などの伝説的スポットもあり、ここでは割愛。鐘楼も御朱印がいただけるという情報により、立ち寄ってみると、鐘楼の横に、案内するお堂なんてあったっけ?と、以前来た時は、鐘楼しかなかったような気がしたが…。
鐘は、「三井の晩鐘」と云われ、「弁慶の引きずり鐘」の後継として、豊臣家による当寺復興事業として鋳造されたもので、鐘の上部には108の“乳”といわれる突起物があり、江戸時代に流行する“108の煩悩”にちなみ、“108乳を持つ鐘”の、最古の作例となっている。
そんな鐘を1突きすると御朱印を授かる仕組みになっていて、鐘楼の柵を開け、鐘を突く…
「ごぉぉぉぉーん」
鐘の下でその響きを体感し、穢れが払われていく…
久しぶりの鐘突きに、心に沁みるというか残響がここまでスゴイとは…感動で、鐘突きもイイものだな…と、一瞬、「安珍伝・清姫伝説」を思い出し、鐘が落ちてきて閉じ込められたらどうしよう…と、妄想してはお堂へと戻り、御朱印を拝受。
寺に響く鐘の音は私だけでなく、人々の心を洗う…そんなご利益もあるのだろうかと、余韻に浸るのでありました~

三井寺釈迦堂 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:01:25

時刻は15:30。最後は釈迦堂へと足を運ぶ。石段を下り、仁王門の脇に建つ釈迦堂も異彩を放っている。
御朱印の最終時刻が迫っていたので、なるべく急いで堂内に上がり、お参り。
釈迦堂は室町時代に建立されたと伝わり、「園城寺境内古地図」には、食堂(じきどう)が描かれており、この堂も移築されたものとされる。
本尊は清凉寺式の釈迦如来像。衣のシワの線がストレートに足の裾まで延びているのが特徴で、この類の仏像を見ると、毎回、ジュディ・オングの「魅せられて」の衣装を想像してしまう。「ジュディ・オング=釈迦如来」なのかと…
そんな妄想を浮かべては、じっくりと拝観し、納経所で御朱印を拝受。この頃にはもうすでに、堂内の板戸を閉める作業に入っており、遅い時間になってしまったが、何とか拝受し、お寺の方にも感謝×2。
仁王門を潜り、三井寺を後にするのでした~

写真は釈迦堂すぐ近くの仁王門

立木観音 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:02:35

翌朝、JR石山駅に降り立ち、バスターミナルから大石中学校行きのバスに乗車し、立木観音前バス停で下車。以前、ここから南にある佐久奈度神社を訪れた時、このバス路線の車窓から気になっていたお寺。あれから10年以上経っているが、未だに忘れもせず、いつかは…と、憶えていて、今回、訪れた次第。
バス停から屹立した山が聳える麓には、荷物を運ぶためのケーブルのレールが備えていて、かなり頂上まで距離があることを認識しつつ、上へと続く石段を見上げては、朝一発目からハードな?登り運動を開始。
参道石段は、歩きやすいように整備されていて、観音霊場のように石仏が脇に祀られていて、休憩がてらお参りをして、また登る…考えられた道程となっている。
とにかく、木々が生い茂る森の中を上がるので、周りの景色は拝めず、ひたすらこの状態が続く。途中、日頃から鍛えているであろう地元のスポーツマンとすれ違い、挨拶をし、軽快に駆け下っていく姿を見ると、うらやましい(これが若さというやつか…)と思いつつ登る。
ようやくたどり着いた境内。本堂ならびに回廊、庫裏等々、きちんと整った雰囲気の中、お参り。
「奥之院」への案内看板もあるので、そこから再び5分ほど石段を上がり、ここでもお参り。
ようやく、ホッとできるような眺めが見渡せるかと思いきや、今日は曇り空なので、全体的に陸地も白く見え、本来なら瀬田川や南に広がる海原も見えるはずなのだが…とりあえず休憩。
立木観音は弘法大師が42歳の厄年の時、瀬田川の急流で渡れずにいた折、白い牡鹿が現れ、大師を乗せて川を飛び越え、山に光を放つ霊木の前まで導き、それが観音さまの導きだと悟った大師は、立木のまま霊木に観音菩薩を彫り、弘仁6年(815)に堂宇を建立したという縁起がある。
牡鹿はいったい何者なのだろうか…この手の話は、老翁が現れたとか、光を放つとか、良くある話だが、この鹿は春日大社の使いの者なのか?とか、そもそもシカに乗れるのか?とか立木のまま彫ったということは、地面と繋がっているのか?とか…妄想がとまらん。
まぁ~何にせよ、こんな屹立した山にお堂を作ろうとする“弘法大師あるある”の不変に触れ、納経所で御朱印を拝受。
本堂の垂れ幕には本多家の家紋が描かれていて、かつて庇護していたであろう想像はつき、再び800段ぐらいある石段を下る。

写真は奥之院

石山寺 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:04:09

立木観音前バス停から石山駅行きに乗り、石山寺山門前バス停で下車。こちらも三井寺同様に、10年ぶりぐらいの訪れ。昨年のNHKの大河ドラマでは“紫式部フィーバー”で、石山寺ではゆかりの寺ということもあって、盛り上がったことだろう。
駐車場、そして東大門から横に続く塀の垣根から見頃の桜が顔を出し、境内に花を添えていて、さっそく門から先、石畳が続く参道を歩く。
参道にはほとんど、モミジの木々が植えられているので、今は青モミジになりかけの葉であるが、真っ赤に彩られたモミジの時に訪れた、当時のことを憶えていて、それぞれの塔頭寺院の山門から覗いては、モミジを愛でた記憶がよみがえる。
志納所に到着し、拝観料を支払い、しばらく歩いた右手側の石段を上がり、メインの境内へ。敷地には観音堂、蓮如堂、毘沙門堂、御影堂が建ち、それぞれにお参りして、正面の「硅灰石(けいかいせき)」を望む。
硅灰石は、石灰岩に花崗岩が接触した際に生じる熱作用によって変成した岩で、「石山寺」の寺名の由来となっていて、奥に見える多宝塔がより、景観を良くしてくれている印象。イメージとして「滝」が流れていればなお、風情を感じられるのになぁ~と、カメラに収め、左手の石段を上がる。
本堂への石段途中からは、斜面に建てられているのが分かる、いくつもの柱で支えられた、清水寺方式?が見て取れ、本堂脇に到着すると、いきなりの紫式部人形がお出迎え。「源氏物語」の着想をここで得たという云い伝えを表し、紫式部の奥には1人の侍女?付き人?が従えている。
堂内に入り、まずはお参り。外陣、内陣で隔てられた堂内では、内陣に安置されている本尊の如意輪観音半跏像にお参りできるのだが、その拝観券は支払ってないので、外陣からの“格子覗き”をし、肝心な本尊は秘仏なので、立っている観音さまはお前立である。33年に一度の開扉なので、拝めるかどうか…お前立の背後にある厨子に納められているのだろう…その厨子も立派で、「宮殿」という名称らしく、その名に相応しい造りとなっている。
ちなみに、このお前立の観音さまは、かつては、あの淀殿が寄進されたお前立で、現在は別のものだそうで、まぁ~何せよ、ここに訪れたことだけでも感謝を伝える。
本堂でのお参り後、多宝塔から月見亭へと移動し、桜が見頃を迎えていて、月見亭では「石山寺縁起絵巻」にも、湖面に映る月を眺める紫式部が描かれているが、ここからの風景を眺めたのだろうと、しばらく、瀬田川や大津市の景観を俯瞰する。
境内を散策し、豊浄殿では「石山寺と紫式部展」が催されているが、ここも支払ってないのでパスし、桜を愛でるだけにして、久しぶりの石山寺…境内の雰囲気を堪能するのでした~

写真は月見亭付近からの瀬田川

平野神社 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:05:31

石山駅に戻り、京阪電車で石場駅へ移動。駅から南へ5分ほどにある平野神社に到着すると、町の中の地元の神社~という雰囲気の中、境内には車が数台駐車されていて、月極駐車場として利用しているのだろうかと、その境内兼駐車場に舞殿が配され、さらにその敷地から一段高い石段上に本殿やお稲荷さんの境内社が祀られているのが見える。
桜も数本植えられていて、満開の季節で華やぐ境内の中、拝殿でお参り。
平野神社は由緒によると、平野大明神(仁徳天皇)と精大明神(猿田彦)の御祭神が祀られていて、天智天皇が近江大神宮に遷都された際に、都の守護神として668年(和暦ではまだ元号が定められていない)に鎮座されたと伝えられている。精大明神は元々、現在の本宮2丁目に祀られていた頃、応仁の乱で社殿等を焼失し、天正元年(1573)に平野大明神を祀る現在地に遷座され、今に至っている。
この精大明神が蹴鞠の神様として有名のようで、例年8月の申の日、申の刻に「蹴鞠祭り」が催されていて、滋賀県ではここ、平野神社が唯一とされている。“けまり”といえば、奈良県の談山神社や京都の白峰神社を思い出すが、その蹴鞠をしている姿は一度も見たことがないので、いつかはどこかで見てみたいと思っている。
境内には至る所に、蹴鞠のモチーフが散りばめられていて、提灯や床板、垂れ幕などに見ることができ、幕末から「蹴鞠之神社」と呼ばれるほどだったらしいので、滋賀県では有名だったにちがいない。リフティングはあまり得意ではないが、平安絵巻を彷彿とさせるような“妙技”が境内のステージで披露される祭りをイメージし、社務所へ。
事前に連絡をさせていただいていたので、スムーズに御朱印を拝受し、大津市の桜の旅はここまで。

目田川桜並木 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:06:41

JR東海道線を北へ、守山駅へ移動。前から気になっていた守山市内の桜並木を見に行く。駅の観光協会でレンタサイクルを借り、走ること15分ほどで目田川に到着。
目田川はかつて、宿場町として栄えた中山道、守山宿の重要な水路として、歴史と文化に深く関わっている。今でははホタルの鑑賞スポットとして、昔ながらの風情が残る名所として知られている。
そんな目田川の堤防沿いを歩き、満開に咲いた桜を愛でる。そこそこの人の姿もあり、犬の散歩や子供の遊ぶ姿を見、地元の馴染みの桜の名所といった感じを受ける。
それぞれに楽しみ、今日は曇り空であったけど、今日の旅の最後は桜並木で締め、春を満喫するのでありました~


Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.